第021話 神獣の大地
「……嘘、ですよね?」
アヤメがぽかんと口を開けて、目の前の土壁を凝視している。
「嘘じゃないよ。ほら」
軽く手を振ると、土壁は砂となって崩れ落ちた。
土属性を獲得したという声が響いてから、まるで昔からそうだったみたいに、自然に土を操る感覚が体に染みついている。
「ほ、本当に土属性が……」
「だから言っただろ。なあ、これって本当にありえないことなのか?」
「ありえないどころじゃないですよ……。後天的な属性獲得なんて前代未聞です。世界の理がひっくり返るようなことですよ!?」
「理、か……」
エミルは鼻を鳴らし、乾いた笑みを浮かべた。
理不尽に母を奪われ、わけもわからず異世界に放り出された時点で、理屈なんてものはとっくに破綻している。
今さら常識が一つや二つ壊れたところで、正直、驚く気力も残っていない。
「……そういえば」
ふと、アヤメが何かを思い出したように口を開いた。
「ここは土の神獣・デメテル様の大地、なんですよね」
「神獣?」
アヤメの視線が、茶褐色に発光する球体を捉える。
「この世界、カリストラには六つの大地があります。火、氷、風、土、雷、水……それぞれの大地には、その属性を司る神獣が宿っているんです」
「なるほどな。それで、ここが土の大地ってわけか」
「はい。人はみな、神獣の力を授かる形で、いずれかの属性を持って生まれます。その魔力を制御できる者が、魔法を使えるんです」
「へえ、君も魔法は使えるのか?」
その問いに、アヤメは少しだけ表情を曇らせた。
「……わたしは、魔法が使えません」
「そ、そうか。ごめん、強いからてっきり……」
「いえ。魔法が使えない冒険者は珍しくないんです。その分、体術や剣術を磨けばいい。わたしも、剣だけは誰にも負けないよう鍛えてきました」
「なるほど、道理で……」
「以前話した、アストレア教の話を覚えていますか?」
「ああ。オラクルズとかいう騎士団を抱えているこの世界の一大宗教だろ」
「はい。そのアストレア教が信仰している対象こそが、この神獣なのです」
——神獣が宿る大地に、その神獣に応じた魔法属性。そして、人々はその神獣を信仰している……。
なるほど、この世界、カリストラはこの神獣を中心に回っているのだ。
ふと、ミノタウロスに襲われる直前、アヤメが言いかけていた言葉を思い出す。
——『シオン国にはダンジョンがなかったので詳しくはないのですが、一般的に、ダンジョンは神獣の……』
「そういえば、ミノタウロスが襲う前にも何か言いかけてたな」
「そうでしたね。ダンジョンは神獣の強大な魔力が大地から漏れ出し、形を成したものだと言われています」
ダンジョン全体から感じた、あの巨大な生命体のような意思。あれは、ダンジョンそのものじゃなく、この大地を生み出した神獣のものだったのだ。
ぼやけていたこの世界の輪郭が、だんだんとはっきりしてくるのを感じた。
「じゃあ、もしかしてこの球体は……」
「おそらく、神獣の力の核のようなもの。だからこそエミル様は、神獣の力をその身に宿したのではないかと」
その言葉は、妙な重さを持って響いた。
自分のこの手に宿っているのは、もはや単なる謎の力じゃない。この世界を支える、神にも等しい存在の力の一端なのかもしれない。
そこでふと、思い至る。
ここまで導いてくれた、頭の中に響いてきたあの声。あれが本当に神獣のものだとしたら。
「なあ、神獣って人と話せるのか?」
「え? いえ、そんな話は……実際に会った者すらいないと思います。ただ……」
「ただ?」
「エミル様には、声が聞こえたんですよね。わたしには聞こえなかったのに」
——そうだ。おれにだけ、聞こえた。
理由はわからない。だが、神獣とおれの間には、何かしらの繋がりがあるのかもしれない。
あのポーションを飲んだ時から、この体は普通じゃなくなっている。
だとしたら。
「他の大地にも、神獣が宿ってるって言ったよな?」
「はい。残る五つの大地にも」
「なら、他の神獣にも会えるかもしれない」
「他の神獣に……会う、ですか?」
「ああ。あの声がデメテルって神獣のものだったなら、他の神獣も同じように話しかけてくるかもしれない。この世界の中心にある存在だ。おれがなぜこの世界に飛ばされたのか、元の世界に帰る方法はあるのか——全部聞けるかもしれない」
言葉にしながら、自分の中で考えがまとまっていく。
「扉」は空振りだった。だが、新しい道が見えてきた。
バラバラだったパズルのピースが、カチリと音を立ててはまった気がする。元の世界への帰還、力の謎。その全てが、“神獣を巡る旅”という一本の道に繋がっていく。
「決まりだな。他の大地への行き方も、ギルドで聞いてみるか」
ぐっと拳を握りしめる。
「行くぞ、アヤメ。素材も充分手に入ったし、セルディス王国へ戻ろう」
「はい!」
二人は来た道を戻り、ダンジョンの入口へと歩き出した。
—————
ダンジョンを出ると、空はすでに白み始めていた。
街道に出れば、セルディス王国まで歩いて一日ほどだ。
——セルディス王国に着いたら、アヤメは換金して装備を整えるんだろう。
そしたら、もうそこでお別れか。
ふと、歩きながらそんなことを考えていた。
——別にどうでもいい話だ。
そもそも、ここのダンジョンで別れる予定だったんだ。
帰還の目的がある以上、この世界の人間と馴れ合う気はない。
そう割り切ろうとしているのに、妙に胸がざわついていた。
その時。
「あの、エミル様!」
背後からの声に足を止める。
振り返ると、アヤメが立ち止まってこちらを見ていた。
「……どうした、改まって」
「折り入って、お願いがあります」
彼女は一歩踏み出し、その場で深々と頭を下げた。
「わたしと、新たな取引をしていただけませんか」
「新たな、取引……?」
「わたしの旅に、最後まで付き合ってください」
アヤメは顔を上げ、必死な眼差しで訴えかけた。
「以前お話しした通り、わたしは父を救う魔石を求めてグロムハルトへ、そして故郷のシオン国へ戻ります。ですが……今回の件で痛感しました。わたし一人では、あまりに無力です」
アヤメは唇を噛み締めながら続ける。
「シオン国は、水の神獣・アプス様の大地にあります。大地を渡る旅は危険が伴う。でも、エミル様と一緒なら、無事にシオン国まで辿り着ける。そう思ったんです」
「……おれを用心棒にしたいってことか?」
「それだけじゃありません。エミル様が神獣を巡るなら、シオン国も目的地のひとつになります。わたしの国は古い歴史を持つ閉ざされた国。王族であるわたしがいれば、情報だって集めやすくなるはずです」
「……」
「もちろん確証はありません。でも、エミル様にとっても損な取引ではないと思うんです」
——確かに、理に適ってはいる。
水の大地に行くなら、案内人は必要だ。王族のコネクションも利用できるならした方がいい。
これは取引だ。利用できるものは何でも利用する。復讐のためなら、なんだって。
そう割り切ろうとした、はずだった。
頭の隅で、別の記憶が蘇る。
——『わたしも以前、大切な人を守れなかったことがあります。エミル様の気持ちは、痛いほどわかります』
タルマ村で彼女が言った言葉。
自分の復讐心を否定せず、ただ静かに受け止めてくれた。
——そうか。
利用価値だとか、取引だとか、そんな理屈じゃないんだ。
ただ、この必死な姿を見過ごせなかった。たった一人で戦おうとするその姿が、女手一つでおれを育ててくれた母さんと、どうしても重なってしまうから。
それに——おれはあの扉で、帰れなかった。それが今は、どこか救いのように感じている。この少女を置き去りにしなくて済んだことが。
……いや、何を考えてるんだ、おれは。
エミルは頭を横に振った。
——余計な感情は邪魔だ。
今さら誰かを信じるなんて、できるわけがない。
それでも。
この手を振り払うなんて選択肢は、もう自分の中にはなかった。
エミルは大きく息を吐き出し、頭をガシガシと掻いた。
「……わかった」
「え?」
「わかったって言ってるんだ。付き合うよ、アヤメの旅に」
アヤメが目を丸くして、時が止まったように固まっている。
その反応が妙に気恥ずかしくて、わざとぶっきらぼうに言葉を継いだ。
「勘違いするなよ、これは取引だ。お前の言う通り、シオン国に行けば情報が手に入るかもしれない。利害が一致したから協力する、それだけだ」
「エミル様……」
「おれの目的はあくまで帰還だ。お前をシオン国へ届けるのは、そのついでだからな」
予防線を張るように早口でまくし立てる。
すると、アヤメの瞳からぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……っ、ふふっ」
涙声の中に、安堵の笑みが混じる。
「本当に、素直じゃない方ですね」
「う、うるさいな。嫌なら置いてくぞ」
「いいえ! お願いします!」
アヤメは涙を袖で乱暴に拭うと、もう一度、深く深く頭を下げた。
「よろしくお願いします……エミル様。この恩は、一生かけても返しきれません」
「大げさだな……。まだお前の国には着いてないだろ」
深く頭を下げる彼女の姿を見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
復讐の黒い炎だけで満たされていたはずの心に、別の何かが混じり始めている。
誰かに必要とされ、誰かのために動くことに、わずかな充足感を覚えている自分がいる。
それがどういうことなのか、今のエミルにはまだわからなかった。
「……行くぞ」
「はいっ!」
エミルが歩き出すと、アヤメが弾むような足取りで横に並んだ。
二人の影が、朝日に長く伸びていく。




