第十一話
驚き足を滑らせ、澪は後ろの湖に体が投げ出されそうになった。
しかしその瞬間勢いよく右腕を引かれ、感じるべき水の温度とは真逆の温かさを感じた。
「ほっそ。」
真上から聞こえた男の声のおかげで我に返り、澪は直ぐさま男から身を剥がした。
「えぇと、あなたは、サカオカグループの坂岡一樹さん?」
澪が見上げなければならない程の身長とモデル並みのスタイルで、自信満々な表情と声を崩さずキープしている25の男が、目の前に立っていた。
澪は写真と名前から彼の情報を思い出し、本物とそれの比較をしてみる。
「へぇ、俺の事知ってんの。」
一流大学を卒業後、経営学を学ぶ為アメリカへ移住。
「そりゃそっか。俺の事知らない女の子とか逆に会ったこと無いかも。」
いつ何時でも、女性には紳士的に振る舞う事で業界内では定評がある。
「少し服、汚れたね。今から新しい服買いに行こうか。」
弟の、努力できる才能を非常に良く認めていると同時に、自身も負けじと人間として精進できるよう心がけている。
「いいよ、お金のことは気にしないで―――」
「嘘ばっかりじゃない…」
澪の絶望にも似た声と表情に、一樹は少々驚いているようだった。
しかしそのような時間も一瞬で、一樹はすぐに先程の自身に満ちあふれた顔に戻った。
「ほら、早く行くよ。」
一樹が澪の腕を掴んだとほぼ同時に、一樹の背後から先程聞いた声が聞こえた。
「何してんの、一樹。」
澪がその声の主を思い出そうとしている反面で、一樹は一瞬嫌悪感を露わにしたような面持ちになったが、それもすぐに消えた。
「久しぶりじゃん、謙也。そっちこそ何してんの。」
「俺は弟と気晴らしにこの別荘に来たんだよ。島崎さんとこのお嬢さんもいたことには驚いたけど、まさか一樹も来てるなんて。」
「俺は親父に無理矢理来させられたの。ま、可愛い女の子がいるなんて知らなかったから、割と来て良かったかなって思ってるとこ。」
一樹に飛ばされたウインクのお返しに、澪は思い切り眉間に皺を寄せて見せた。
「一樹。俺が《何してんの》って聞いたのは、彼女の腕を引っ張ってることに対してだったんだけど、その返答は?」
あぁ。一樹は一度離れた澪の腕を再度強く引き、自身の体に密着させた。
澪がいくら抵抗しようにも、男女の力の差は歴然であった。
「今から服でも買いに行こうかって。」
「はぁ?」
澪が反論する前に、謙也がくすりと笑った。
「ごめんね一樹。澪さんは俺と先約があるんだよ。」
その言葉にきょとんとしたのは一樹だけでは無かった。
しかし、いち早くその言葉の意味に気がついた澪は、なるべく自然を装って謙也に乗った。
「そう、そうなんです!今日の夕飯の材料の買い出しに行こうと思ってたんですけど、私には足が無かったので、謙也さんが付き合ってくれることになってたんです。」
嘘か誠かを確かめるように目線だけで澪と謙也の間を行き来していた一樹は、小さく息を吐いた瞬間、ぱっと澪から手を引いた。
「じゃあ俺とは今度だな。また後でね、澪。」
突然名前を呼び捨てにされたことに澪が驚いている内に、一樹はすたすたと歩き去ってしまっていた。
「あ、あの、ありがとうございました。」
「なんでお礼なんか言うの。偶然通りかかっただけだって。」
「あまりにも出来すぎた偶然でしたけどね?」
澪の言葉にやられたのか、謙也は目元に皺を作ってくしゃりと笑って見せた。
「ほら、車で買い物に行くって言ってたでしょ?でも別荘の前には俺と黎人の車以外は無かったはずだよなぁと思ったから、どうするのか心配で出てきたんだよ。そこから今までは、本当に偶然。」
初対面の得体も知れない女の為にそこまでするだろうか。あまりにも紳士が過ぎると澪は驚いていた。
「紳士…?」
澪は自身の言葉に違和感を覚え、目の前にいる謙也に軽く頭を下げ、鞄から携帯電話を出し、雪也に電話をかけた。
「もしもし、雪?」
「どうした?さっそく困りごとか?」
スワロ家にある澪の部屋へと雪也に移動してもらう。
「そこにある樫謙也と、坂岡一樹の情報が書かれた紙を見て欲しいの。」
これか。雪也は手に取ったことを澪に伝えた。
「その資料を作った人達に連絡を取ってもらえない?」
「良いけど…なんで?」
「2人に会ってみたんだけど…ちょっと色々違和感があって。」
理由を聞いた雪也は直ぐさま電話を切ったかと思うと、数分も経たない内に今度は雪也から連絡が来た。
「聞いた!」
「仕事が早い!」
自身が資料を作った訳でも無いのに、どこか申し訳なさそうな声で雪也は話し始めた。
「その資料を作った人って、複数じゃ無くて1人だったんだ。全員の情報を整理しながらやっていたつもりが、名前を打ち込む時に、樫謙也と坂岡一樹の名前を逆にしてしまったらしい。」
やはりそうか。澪は持っていた違和感がすっと溶けるのを感じた。
「全然大丈夫ですって伝えておいてちょうだい。じゃあ今忙しいから、一旦切るね。雪もありがとう。」
電話の向こうから了解の声が聞こえると、澪は一呼吸置いて、謙也の方に振り返った。
「なんか…問題は解決したみたい、かな?」
疑問が拭えていない表情ではあったが、謙也はそれ以上を澪に追求することはしなかった。




