鵜飼さんのお願い
翌日。悶々としていたら放課後になっていた。
マジか。ついにこの時が来てしまった。
「じゃ、俺野球部行ってくるわ。潤も図書委員頑張れよ」
雨宮は意味深な発言をしながら、教室を後にした。今日、俺が鵜飼さんに話しかけるという事を言ってある。逃げ道をふさいで、嫌でも話しかけるような環境づくりをしておいた。雨宮は明日、結果を聞いてくるだろう。
鵜飼さんの席を見ると、もう居なかった。今日、鵜飼さんの耳あたりを見たが、補聴器はつけていないと思う。やっぱり隠しているのか。嫌なんだろうな。俺はそこまで重大事項だとは思わないが、鵜飼さんにとって耳が聞こえ辛いと言うのは、周りに知られたくないことだったのだ。そして、俺は知ってしまった。やりきれない。どうしよう。辞めようかな。でも、せっかく手話まで勉強して、それはない。雨宮にも話しかけると言ってある。
俺は教室から出て、最上階の図書室に向かう。
どうしよう。いつ話しかければいいんだろ。やはり終わりかけの時だろう。佐々田さんが帰っていいと言った時が狙い目だ。
俺はいつものように図書室に入って、カートにたくさん積んである本を整理する。鵜飼さんはカウンターで本を修理している。もう、俺もいっぱしの図書委員だ。すぐに整理も終わるようになって、鵜飼さんの手を煩わせることも無くなり、一つ話しかける機会がなくなっている。しかしわざと手を抜くというのはできない。鵜飼さんだってまじめに仕事をしているのに、俺だけが手を抜けないだろう。
十分程度で全ての本を整理して、カウンターに向かった。修理が終わった数冊の本をカートの上に乗せる。
すると、鵜飼さんがチョコンと頭を下げる。これだけでもよかった。もう、泣きそうだった。よく考えたら、鵜飼さんは声を出さないながらも、ちゃんと挨拶だけはしてくれたじゃないか。鵜飼さんは俺を無視なんてしていなかった。やはり、俺の勝手な被害妄想だ。俺は、受け取った本をすぐに本棚に収納した。
この前まで読んでいた本を手に取って、鵜飼さんの横に座った。いつも通り、読んでるふりをしながら、鵜飼さんの横顔を盗み見た。はぁ。あれだけキモイ事するな、と思っていたのに、いざ鵜飼さんを目の前にしたらそうも行かなくなってしまった。
しかし俺の心臓はバクバクとうるさい。今日は話しかけないといけない。意識すると、鵜飼さんの顔を見ることが出来なくなっていた。目線を本に移す。でも内容は頭に入ってこない。なんだこれ。この前は面白かったのに。俺のせいか。全然意味が分からない。落ち着け。まだ、時間はまだある。いう事を確認しろ。大丈夫。俺はクール。冷静だ。聞く事は普通だ。落ち着け。
それから数件受付を済ませている間も、俺は確認作業を行う。当然、鵜飼さんは喋らない。その小さな口は閉ざされている。俺は残念に思いながらも、その時を待った。
五時になるにつれて、どんどん人が居なくなっていった。そして、後ろの図書準備室に繋がる扉から、佐々田さんが姿を現した。
「五時になるから二人とも帰っていいわよ。お疲れ様」
佐々田さんは鵜飼さんの肩をポンとたたいた。今までは結構スキンシップとるなと思っていたが、違う。鵜飼さんはこの声が聞こえていないんだ。だから佐々田さんは鵜飼さんの肩を触る。抱き着いたり、耳元で話す。大声で喋って、何とか鵜飼さんにもその声を届けようとしていた。今の俺ならすべての行動に辻褄が見出せる。
鵜飼さんは肩を叩かれたことに気付いて、帰る用意をしだした。
佐々田さんはそれを見て、図書準備室に戻っていった。
俺は、荷物だけを準備する。周りを確認。誰も居ない。
鵜飼さんは立ち上がる。
心臓がうるさい。顔が熱い。舌が乾ききっている。呼吸が浅い。緊張している。そうだろ。そうだよ。緊張してるよ。悪いかよ。女の子に話すだけというので、俺はこんなにも緊張するんだ。恥ずかしい奴だといわば、言えばいい。これが俺だし、しょうがないと思う。でも、それでも、俺は鵜飼さんと仲良くなりたい。
俺は震える手を鵜飼さんに伸ばした。
拒絶されないか。嫌悪されないか。否定を浴びせかけられないか。不安さ。俺の要旨はそうはよくない。普通だ。いや、俺の主観が入っているから、そう思い込みたいだけだ。分からない。大丈夫か。
俺はきつく目をつぶる。そして、その手が鵜飼さんの肩に当たった。
一瞬だけ触って、手を引っ込める。
鵜飼さんが振り返った。
「……?」
鵜飼さんはちゃんと振り返ってくれた。俺が何か言おうとしているのを待ている。違うよ。言わない。伝えるんだ。言葉以外で。
俺は一日中練習した手話を披露した。
『本、何が好きですか?』
俺は、本、何、好き、これだけを日曜日の間練習し続けた。鵜飼さんは本が好きそうだったし、これが良いかな、って思った。
鵜飼さんは、
「……ぇ」
頂きました。「……ぇ」です。コレクションが増えました。これで十年戦える。
「……ッ!」
鵜飼さんは俺の腕を掴んで、図書室の外に引っ張った。
「ちょ……!」
予想外の展開に付いていけない。最上階の階段の踊り場まで高速で階段を降りると、鵜飼さんは、カバンからイヤホンみたいなのを出した。
補聴器だ。
そして、鵜飼さんは俺が見たこともない速さで手話を繰り出し始めた。
「え、あ、はや、なんて、ていうか、単語分からない」
「……?」
補聴器付けているのに、俺の言葉は届いていないようだった。しまった、補聴器の事を調べていなかった。
鵜飼さんはカバンからノートを取り出して、筆談を申し出てきた。結局、手話はダメみたいだ。悲しい。でも、一応会話してくれるみたいだ。嬉しい。
『どうして知ってるの?』
俺がノートを受け取ろうとすると、鵜飼さんはそれを拒否した。う、やっぱり、俺キモイか。いや、違うようだ。何か書き出した。
『読唇できます。口をはっきり動かしてくれれば、ある程度言っている事は分かります』
あら。それもそうだな。だからこそ、普通学級でも授業は大丈夫なのか。さっきの俺の言葉に反応しなかったのは、呻き声に近かったからか。
俺はゆっくり、はっきり、大きめの声で話し始めた。
「この間の、土曜日に、鵜飼さんの事を、見てしまいました。それで、手話を、していたので……」
鵜飼さんは驚いた表情をした。まさか見られているとは思っていなかったのだろう。
するとまた鵜飼さんは何事か書き始めて、頭を下げた。
『誰にも言わないでください』
そして、鵜飼さんは慣れない発音をしたのだろう。
「……ぉぇぁぃしぁふ」
お願いします。
こう言ったのだろう。
新たに声を聴けたのはうれしいが、とても罪悪感が出てしまう。俺の目の前で鵜飼さんが頭を下げている。俺が悪者みたいだ。
とにかく早くこの状態から解放されないことには始まらない。
「言わない! 言わないから、頭あげて!」
「……ぉんぉ?」
やっべ。涙目になっている姿で、上目づかいはやめてくれ。可愛い。加虐心に火が付いたらどうするつもりですか?
すると後ろから声がかかり、肩をポンとたたかれた。
「真琴ちゃんを泣かせるな!」
「ぐえ!?」
佐々田さんがいつの間にか後ろにいて、拳骨で頭を殴られた。この人も詠子タイプだ。鵜飼さんを見習ってほしい。
「そう。ばれちゃったんだ」
「……ぁぃ」
頂きましたぁ。二度目の「……ぁぃ」です。
今は、図書準備室で、俺と鵜飼さん、司書の佐々田さんと三人で話している。
議題は、鵜飼さんの難聴がばれちゃった、だ。
三人とも適当に座って、扉には厳重に鍵をしてある。誰も入ってこれない。今日は佐々田さんしかいないらしい。
「これは学校側の秘密だったのに。つまり私と真琴ちゃんの秘め事なの。そこに三谷君が割り込んできちゃったの。どう落とし前付けるき!?」
「いや、それは暴言でしょ。別に佐々田さんだけの秘密じゃないでしょ。マッチョ先生だって知ってると思うし。違うんですか?」
佐々田さん口をとんがらせて、不満をぶーぶー言っている。
「そうだけどぉ。独り占めっていうか。真琴ちゃん、可愛いし。ドストライクだし。……三谷君だって、手話まで覚えたんだって? このこの」
佐々田さんは俺の横腹を肘で小突いてくる。顔はかなりニヤけていた。
「いや、その、そうですけど。そう言う事言ったら――」
最後のは声を小さくしていたが、鵜飼さんは読唇が出来るらしい。せっかく佐々田さんが気を利かせて恥ずかしい部分を伏せたにも関わらず、鵜飼さんには筒抜けだった。
恥ずかしい。正直、普通に考えて手話まで覚えてくるのは、そうはいないだろう。
「……ぁぉ、ぁぃぁぉぅ」
鵜飼さんは、顔を俯かせて、一言呟いた。おそらく、ありがとう、だ。
さらに、手話でも『ありがとう』と告げられては、俺も顔を真っ赤にせざるを得ない。
まさか、手話を覚えてきたことを感謝されるとは思はなかった。気持ち悪いとすら思われるかもしれないと、そう思っていたのだ
俺たちがモジモジしていると、佐々田さんが呆然としていた。
「なんだこれ、この青春空間をぶち壊したい」
佐々田さんは死んだ魚のような眼をして、遠くを見始めた。迫力がある。圧迫感がある。悲壮がある。そうか。独身か。読唇だけに。上手くないな。
「大人げない。もっと余裕をもって下さいよ」
「うるさい、うるさーい! 私だっていい男見つけるもん!」
佐々田さんは「真琴ちゃん、結婚して」とか言いながら抱き着いている。そんな佐々田さんを鵜飼さんは撫で始めた。優しい。そんな人ほっといても大丈夫だと思うけど。
数秒そんなことしていると、佐々田さんは体制を戻して、真面目な顔を作った。
「実際問題、ばれちゃったんだよね。面倒なことしてくれたな。この野郎。絶対喋んなよ。マジで」
佐々田さんが俺の胸ぐらをつかんでそう凄んできた。怖ッ。
「な、何でそんなに……?」
「ハァ? 三谷君、生徒の要望だからだろうが。それに真琴ちゃんだからっていうのもデカい。可愛いは正義。お前、さっき真琴ちゃんから頼まれてたのに、これベラベラ喋るの?」
「はっ。喋るわけないでしょ。むしろこれは俺だけの秘密として、永久に封印する予定ですよ」
この一点のみで俺と佐々田さんは意気投合した。ガッチリと握手して、停戦協定を結んだ。これ以上争うのは、無意味だ。
「しかし、どうするか。三谷君口固いか?」
「そりゃ、言いませんけど、うっかりこぼす事も否めませんよ。俺だって人間だし」
「そうなんだよね。取りあえず、極力、真琴ちゃんの話題は教室では避けて。それから、昼休みは、ここで三人でご飯を食べましょうか」
「は? 何で?」
「そんなの三谷君がポロッとこの事を漏らすかもしれないでしょ。いつも誰と一緒にご飯食べてる?」
「雨宮っていう野球部の奴ですけど……」
佐々田さんはニヤッと笑った。なんか怖い。鵜飼さんもちょっと引いている。
「なんとかなりそうね。その辺は任せて。それじゃ、明日からお昼ご飯はここね」
俺はその決定を遮った。
「いや、俺はいいけどさ。本当にどうにかできるんですか? 雨宮との仲を引き裂くとかじゃなくて?」
「大丈夫よ。彼らには筋トレをしてもらうわ。最近野球部も頑張ってるらしいし、ちょうど良いんじゃない? これで、雨宮君とやらは三谷君と離れざるを得ない」
「佐々田さんの一存でそんなことが? 割と大きい組織だけど。学校ってそんな簡単に動くんですか?」
「真琴ちゃんは特別よ。難聴というハンデもあるし、できるだけ普通の生活を送らせてあげたい。これが学校の方針よ。そのためならある程度の犠牲もやむを得ないわ。ま、別に筋トレが悪い事じゃないし。甲子園に行きたいなら、これくらいはするべきよ」
確かに、授業中も当てられていないし、学校側はかなり鵜飼さんに配慮している。それ位は可能かもしれない。それにお昼休みの筋トレ位なら、他の学校でもやっているだろう。現に、俺の中学では昼休みに部活ごとに集まって、筋トレしていた。
「でも、鵜飼さんが良いか分からないですか。……鵜飼さん、どう?」
一応は補聴器が音を拾っていてくれたのか、それとも読唇が出来ていたのか、鵜飼さんは返答した。
鵜飼さんは手を胸に当てて、右から左に移動させた。さらに強く頷いて、疑問形ではなく、肯定であることを強く表現している。
『大丈夫』
手話でそう告げられた。これは勉強していたやつだ。勉強していて良かった。
「真琴ちゃん、何て言ってるの?」
「オッケーですって」
「やった。これで決まりね。図書準備室で食べましょうか。その時間帯なら私たち以外はいないわ。昼の部の子たちがいるけど、準備室の中に入れないから。鍵かけておくし。三谷君も良いわよね」
是非もない。
鵜飼さんが来るならもう、雨が降ろうが槍が降ろうが癒されに来ます。言い過ぎか。雨宮が居なければ、俺は一人寂しく昼ご飯を摂ることになる。すでに形成されてしまったグループに入るのはきつい。それならここに来て一緒にご飯を食べた方が良い。
「俺も良いですよ。じゃあ、明日来ますんで」
俺が立ち上がると鵜飼さんも立ち上がった。佐々田さんは鵜飼さんが帰ってしまうのがとても残念そうだったが、明日の事を考えるとそれでも嬉しそうだった。なんとも微妙な表情をしている。
「そんじゃ」
「さぉなぁ」
鵜飼さんは手を振って佐々田さんに別れを告げた。佐々田さんはパァーと表情が明るくなり、鵜飼さんに手を振り返す。
二人で一緒に階段を降りる。
会話が無い。出来ないのは分かるけど、何かしら言った方が良いのか。でも鵜飼さんはすでに補聴器を外している。見られたくないという俺の憶測は正しかったようだ。ついに一回まで辿り着いて、靴を履きかえる。
ここまでだろうな。そう思った。
俺は駐輪所に向かい、鵜飼さんは歩いて帰る。そう思っていた。
俺はそのまま鵜飼さんと離れようとしたが、鵜飼さんはついてきた。
「……?」
どう言う事?
俺は振り返って、鵜飼さんを見た。鵜飼さんは何か紐のようなものを取り出していた。あれだ。サッカー選手が髪の毛が乱れるのを抑えるために付ける紐。分かるだろうか。鵜飼さんはそれを自分の頭に括り付けると、補聴器を両耳に着け始めた。
「……自転車通学なの?」
「……ぅん」
鵜飼さんは当然といった風に答えた。
まさか。そんな事が。補聴器があるからと言ってかなり危ないんじゃないのか。補聴器が見られないようにする配慮はいいと思うのだが、それはどうなのか。
でも、今日まで無事故で生還している。過保護なのか。俺が。
俺は置いて行かれそうになったので、慌てて鵜飼さんの後を追った。
鵜飼さんは一台の自転車の鍵を開けた。本当に自転車通学をしているのか。基礎知識がない俺にしてみたら自殺行為にしか見えない。俺がもし音が無い空間で自転車を使おうと思うか? ……あまり使いたくない。でも利便性を考えたら、単純には考えられないか。それに、鵜飼さんは音の少ない世界でずっと生きているのだ。むしろ俺の心配は、鵜飼さんを侮辱しているのではないだろうか。鵜飼さんは普通の扱いをしてもらいたいはずだ。だからこそ、学校側に難聴という事を隠してもらっているのだ。
そうとわかれば、早い。
俺も自転車の鍵を開けた。後ろを見ると鵜飼さんがいた。
「……一緒に帰る?」
口を大きく、ゆっくり動かし、補聴器でも聞こえるくらい大きめの声で話した。
鵜飼さんは一つ頷き、自転車に跨った。
「ぉー」
行先を指さし、そちらに向かってこぎ出した。
やばい。可愛い。かなり張り切っている。初めて一緒に誰かと帰るのではないだろうか。だから、あんなにテンションが高そうなのか。
俺も鵜飼さんの後についていった。並走して、できるだけ鵜飼さんより危険を先に発見する。しかしそれも杞憂だったようだ。
鵜飼さんの自転車の速度は、かなり遅かった。時速十㎞も出ていない。これなら、あまり危険もないだろう。俺も鵜飼さんに合わせてゆっくり駅までの道をこぎ出す。
いつもだったら十分くらいで繁華街に着くのだが、今日は十五分位かかった。
自転車の通り抜けが禁止なので、二人とも自転車から降りて、徒歩で通り抜けようとした。
すると、鵜飼さんの顔が少しだけ陰った。
俺は心配になってしまい、鵜飼さんの肩を叩いた。どうかした? と言いたいのだが、どうやって手話で表現するべきか分からない。というより、ここではあまり手話は控えるべきか。
読唇してもらおうと、ゆっくり口を動かした。
「ど、う、し、た、の?」
鵜飼さんは補聴器を指さし、口を動かした。でも声は出していない。
えーっと。多分。
「うるさい?」
「……ん」
繁華街は人が多くて、それに音楽もかかっている。それもかなりの大きさだ。俺でも少しうるさいと感じる。補聴器をしていると、鵜飼さんでもうるさいと感じるみたいだ。
しかし、対策はない。補聴器はここでは外せない。同じ学校の人が見ていたら、鵜飼さんが耳が悪い事がばれてしまうかもしれない。
鵜飼さんはさっさと通り過ぎようと早歩きで繁華街を通り抜けた。
数分も歩けば、通り抜けることが出来る。
繁華街を抜けると、鵜飼さんは大きく息を吐いた。やはり五月蠅いのは嫌だろう。俺だっていやだ。
俺たちは繁華街の目の前にある駐輪所に自転車を止めた。
鵜飼さんも電車を使うみたいだ。
順番で改札口を通って、行先を聞いた。
「鵜飼さんどっち? 俺、白砂駅行きなんだけど……」
鵜飼さんは俺に定期を見せてきた。そこには白砂駅と印字されていた。
なるほど。この前ショッピングモール前にいたのは、あの近くに住んでいたからなのか。偶然というより、必然的にあそこにいたのか。俺にしては助かったが、泣いてるところは見られてないよな。逆方向に走ったし。
そういえば鵜飼さんの事を貶めていた事について、謝ってなかった。
その時、ジリリリリと電車が来るアナウンスが鳴った。
二人で慌ててホームに向かった。
鵜飼さんの後姿を見ながら、小さくつぶやく。
「ごめんなさい」
電車が突入してくる音に、俺の独白はかき消された。
駅員さんが待ってくれていたみたいで、二人で一緒に電車に入った。
電車は帰宅ラッシュを迎えていて、かなりの混雑を見せていた。
これではゆっくり会話もできない。いや、鵜飼さんは会話できないんだった。うっかり忘れてしまいそうになる。隣の女の子は普通だ。とても難聴には見えない。
普通くらいの身長はある鵜飼さんは吊革に掴まり、俺は何もせず突っ立っている。俺も掴まろうと思ったが、他の人たちが既に使用しているみたいだった。
「ぐ……」
発射して体が揺れることで、他の人とぶつかってしまった。よくある事だろうが、やはり慣れない。悪い事をしてしまったと、すぐに謝罪したくなる。
それから何駅かすると、人が大勢出て行って、空席が出来た。
並んで座るが、特にする事はない。人がたくさんいて、他の人が静かにしているのに、大騒ぎする度胸など俺にはない。
そこからは座っているだけだった。乗ってから三十分経つと、白砂駅に着いた。このころになると、電車の野化の人も少ない。
鵜飼さんが立ち上がって、俺も見送りに行く。
「またね」
鵜飼さんは予定通り白砂駅で降りる。
ドアの前で俺は手を振った。黙って座っているのも、ありっちゃ、アリだ。
鵜飼さんも電車から降りたところで振り返って、小さく手を振った。
プシューと音を出しながら、電車のドアが閉まった。
景色が流れ、駅から離れていく。
「ふぅ……」
今日は充実していた。何回も鵜飼さんの声が聞けたし、明日からは鵜飼さんとランチだ。佐々田さんもいるが。雨宮には悪いが、生贄となって貰おう。男の友情とは斯くも儚い物だったのか。許せ、雨宮。そして筋トレをするがいい。
俺はさらに三十分電車に揺られながら、自分の家の駅まで黙って送られていった。
家に戻りいつもより少し遅めの夕食を作った。最初こそ詠子はご飯が遅いとぶつくさ言っていたのだが、図書委員だという事が分かると、渋々引き下がった。遅いと言っても七時にはご飯はできているので、そんなに遅いという事もない。今までと比べればという話だ。しかも、月曜日と木曜日に限った話だ。
今日のメニューはハンバーグだ。ひき肉をもみ次第た後、玉ねぎを炒めておく。俺は玉ねぎは柔らかい方が好きだ。予め炒めておいて、その後にひき肉に入れる。種を作って、フライパンで適当に焼いたり、蒸したりすれば完成だ。ソースとケチャップでタレを作って、それをハンバーグにかければ完成だ。
「いただきます」
二人一緒に食べる。美味い。
詠子も文句言わず食べている。今日のは別に詠子が歯牙にかけるような失敗はなかったようだ。テレビを見ながらハンバーグを食べる。特に会話はない。話すこともないし、話されることもないのだ。
「ごちそうさん」
詠子は食べ終わるとそう言って、二階へ戻っていった。俺も食べ終わったので台所に洗い物をもって行く。
スポンジに洗剤をつけてフライパンやお茶碗を洗い、水を切る。食洗器でも買おうかな、と考えながら家事を終えると、俺も部屋に戻った。
「ふぅ……。疲れた……」
今日終わらせるべき家事はすべて終わった。パソコンを起動して、気になる事を調べる。
「補聴器、と」
キーボードを連打してブラウザに検索をかける。ちょこちょこネットサーフィンしていると、目的のページを見つけることが出来た。
「補聴器は音を増幅するだけなのか……」
見つけたホームページにそう書いてあった。他の販促サイトにはこう言う事が書いていないから、有難い。
日本語を増幅できるのかと思っていた。会話を聞き取りやすくするとか。そんな事はできないのか。
このサイトには、補聴器の実態が書いてあった。
補聴器は単に音を増幅するだけで、会話を聞き取る能力はない。周りがガヤガヤしていたら、その雑踏の音も増幅する。そうなれば会話何て聞き取る事はできないだろう。
また、一番大きな音を拾う性質があるらしい。仮に静かな場所であっても、会話する相手より大きな声で話す人が居たら、その人の声を増幅することになる。これは、大人数の話し合いを困難にする。健常者は会議でもある程度話を聞きわける能力があるが、補聴器を使っている人は、そう言う事が苦手らしい。
なるほど。鵜飼さんも繁華街で顔をしかめていたのは、こういう理由があったからか。
俺はパソコンを閉じて、背もたれに体重を預ける。
「結構、学校生活面倒そうだな……」
補聴器の性質は知ることが出来たが、鵜飼さんはそれを使っていなかったんだった。それ以前に、音が聞こえていないかもしれない。
「どのくらい聞こえていないんだろう……」
それこそ聞いてみないと分からない。鵜飼さんの世界とは。俺は目を閉じて、耳をふさいでみる。何も聞こえない。これが彼女の世界なのか? それとももっと? 分からない。
「聞いてみようかな……」
そして次の日、図らずともその機会は訪れる事になる。




