鵜飼さんの状態
昼休みになると本当に雨宮は筋トレに向かっていった。他の野球部員も同様で、昼休みには教室から出て行ってしまった。
鵜飼さんに目を向けるとやはり、既に居なくなっていた。いつも通り早く行ってしまったみたいだ。
俺も早く移動することにして、最上階の図書準備室に向かった。パンを持ってゆっくりと階段を上る。結構緊張してる。佐々田さんが居るとはいえ、鵜飼さんと同じ教室にいるのか。何話せばいいの分からないし、何しようか。
「飯食うのか」
妙な納得をして、図書準備室のドアを開けた。
「どうも」
最初に反応したのは佐々田さんだ。
「来たわね。適当に座って」
鵜飼さんはもう食べる準備をしていた。そして軽く頭を下げて、手話で挨拶をした。
『こんにちは』
おでこに人差し指と中指を当てて、その後両手を前にして、人差し指をくいっと曲げる。お昼という単語と挨拶という単語を組み合わせるあいさつだ。意味は当然、『こんにちは』。
俺も同様に挨拶し返す。
「こんにちは」
言葉と手話で鵜飼さんに挨拶した。
鵜飼さんはにっこりとして、嬉しそうだった。
「なによ、なになに? 二人だけ楽しそうでずるい」
部屋を施錠した佐々田さんが俺たちの手話見てそう言った。嫉妬でもしているのだろうか。俺は勉強したからな。
「ま、ま、食べましょうよ。長いようで短いですよ。お昼休み」
俺がそうやって話をそらすと、佐々田さんもそれ以上言わなかった。
俺たちは小さな机の周りに座って、そこに椅子を引っ張ってきている。あとは何も特別なことはない。煩雑とした図書準備実の中で、食事をとっている。
「……二人はさ、喋ったことあるの?」
唐突に佐々田さんがそう言った。何を話せばいいのかわからなかったので、渡りに船だ。
「昨日が初めてですよ。だって耳が聞こえにくいなんて知らなかったし」
鵜飼さんも頷いている。
「そう。まぁ、真琴ちゃん可愛いし、話しかけにくかったんでしょ」
「……うっさいな」
そんなこと言うと気まずい雰囲気が流れるだろ。
横にいる鵜飼さんも変な顔になっちまっただろうが。
俺がふてくされていると、佐々田さんは鵜飼さんに目くばせした。
「さっきね、真琴ちゃんと話してたんだよね」
「……何を?」
もう砕けた話し方でいいや。佐々田さんも何も言わないみたいだし。
パンを飲み込むと、佐々田さんは鵜飼さんに「言ってもいいの?」と確認をとった。
鵜飼さんは頷いた。
「じゃあ、言うけど。当然言いふらさないでよ」
「分かってますよ。ここに来るのだって誰にも言ってないんですから」
聞かれても図書委員の仕事だと言い張るが。雨宮にだって俺が昼ご飯どうするかなんて言っていない。
「じゃあ、説明しよう。……真琴ちゃんの病気について」
俺は驚いた表情をして鵜飼さんを見た。その表情は若干沈んでいる。
「ちょ、そんなこと言っていいのかよ。知られたくない顔してるけど!?」
「いやいや、そりゃ知られたくないだろうけど、もう今更だし。それにちゃんと知ってもらわないと、真琴ちゃんの方に悪影響が出るかもしれないし。さっき真琴ちゃんも言っていいかって聞いたしね」
「そうなの……?」
「ぁぃ」
鵜飼さんは頷いた。特に問題はないみたいだった。あまり良い顔はしていないけど。
「で、鵜飼さんって病気だったの? ただの難聴じゃなくって?」
「違う。難聴は病気の中の一つだよ。真琴ちゃんの病気はペンドレッド症候群っていうんだけど、知ってる?」
なんだそれは。
「いや、知らない」
「ま、そりゃそうだ。これはくにの難病指定を受けてる病気だよ」
「え……」
俺は隣の鵜飼さんを見た。普通に見える。どこも以上なんて見えない。
「表からじゃわかりにくいかもね。でも内側はそうじゃない。……一つずつ説明しようか」
佐々田さんはそういって、ご飯を高速で食べきって説明する準備を整えた。奥からホワイトボードを引っ張ってきて、本格的に説明する気だ。
佐々田さんはボードの前に立って、耳を書いているようだ。耳の内部まで書いている。
「三谷くん、耳ってどういう風になってるか知ってる?」
「えっと、鼓膜とかがあるんじゃ?」
「そうだけどさ。まぁ、そういう認識だよね」
言いながら耳の構造を書ききったみたいだ。
隣の鵜飼さんもホワイトボードを注視している。俺も集中することにした。
「さて、耳は外耳・中耳・内耳に分かれている。鼓膜は中耳だ。中耳には他に耳小骨があるけど、これは音を増幅する機能がある」
「じゃあ、鵜飼さんはそこが悪いの?」
隣の鵜飼さんに聞いてみたが、違うみたいだった。
「慌てない。難聴には種類がある。知ってた?」
俺は首を横に振り、鵜飼さんは縦に振る。なんか俺バカみたいだ。
「伝音性難聴と感音性難聴の二つだ。伝音性難聴の場合は、何かしらの問題があって、外耳・中耳に問題が発生した場合に起こる。鼓膜が破れたとか、中耳炎とかはこっちに分類されるんだよ。覚えといたらいいかもね」
「へぇ……」
俺は素直に感心しながら、佐々田さんの話に耳を傾ける。
「鵜飼さんは伝音性難聴?」
鵜飼さんはまたしても首を横に振った。違うのか。
「そう、真琴ちゃんは、感音性難聴。内耳が悪さしてる」
佐々田さんはホワイトボードの一角を強くたたいた。
「こいつだ。蝸牛というんだけど。この渦巻あたりにある前庭水管というのが肥大化している。これが耳内部のリンパ管を圧迫して、難聴が発生しているらしい。私はただの司書だから、これ以上詳しい事は知らないけど。しかもこれだけじゃない」
「まだあんの……?」
「そう。この前庭水管が悪いおかげで、真琴ちゃんは結構な頻度で眩暈がある。あと平衡感覚が若干悪い。自転車に乗るのはかなり頑張ったらしいよ」
昨日何気なく自転車に乗っていたが、あれにも隠れた努力があったのか。
「眩暈か。今は大丈夫?」
「ぁぃ」
鵜飼さんは『大丈夫』という手話を交えて、頷いてくれた。
「という事で、真琴ちゃんは激しい運動は控えている。これは頭に入れておいてね。運動を強要しないように」
確かに眩暈に平衡障害では、若干運動は危ないか。
「あと、頭とかに衝撃とか加えると、突然耳が聞こえなくなったりするらしいから注意する事」
「それ先に言ってよ!」
危ないな。割れ物注意だよ。うっかりぶつかった時があったど、冷や冷やものだよ。
「ペンドレッド症候群の猛威はまだ続く」
「まだあんのか……」
もう許してやってくれ。鵜飼さんが何をしたっていうんだ。横目で鵜飼さんを見る。この少女にまだ、そんな苦しみがあると思うと。やりきれない。
「とはいえ、こっちについては真琴ちゃんの症例は軽い。ホルモン剤を投与しているから、発症も抑えられている一例だよ。ラッキーだ」
「で、それってなんですか?」
「甲状腺がどうたらっていうのだけど。あまり分かんないや」
佐々田さんは喉のあたりを指さしている。そこに甲状腺があるのか。
「親御さんからもこの事についてはあまり説明を受けなかったし。そこまで重要視する事じゃない。兎に角、甲状腺にも一応爆弾がある事は理解しておいてね。真琴ちゃんが薬を飲み忘れないように注意する事。オッケー?」
「そう言う事なら」
大丈夫だろうけど、一応注意を促してほしいという事なら簡単だ。「薬飲んだ?」って聞けばいいだけだし。今までそういう人が居なかっただけで、俺はそう言う事が出来るようになるだけでも鵜飼さんの心労が少しくらい軽減されるといい。
「さーてと、残り時間も少ないし、パパッと行きますか」
時計を見るとあと五分もしないうちに、昼休みは終わりの時間になっていた。
そして俺は、まだ伝えるべきことがあるのかと悲しい気持ちになった。
「そんな顔するなよ。辛いのは君じゃなくて、真琴ちゃんだろ?」
それもそうだ。辛いのは俺じゃない。
「真琴ちゃんの世界は五十dbだ。中度難聴者。これはネットの世界だと通常会話に支障をきたすレベル。ネットじゃなくてもそうか。しかしこれは正しくない」
「なんで? その定義が一般的なんでしょ」
「大事なのは主観だ。定義じゃなくて、真琴ちゃんがどう感じているのかが大事なんだよ。そして、真琴ちゃんの主観では、ほとんどの会話は聞き取ることが出来ず、かなりの大きい音じゃないと聞こえはしないらしい。この会話だって補聴器が無かったら聞き取る事は出来ていないと思う。だよね?」
俺は鵜飼さんを見た。頷いている。そんな。この何気ない会話も聞く事が出来ないのか。
「さらに、補聴器の現状を考えてもこの会話ですら、全部聞こえているとは限らない」
鵜飼さんは頷く。もう。止めてくれ。
「真琴ちゃんを支えているのは、読唇だ。でも読唇だって、完璧じゃない。真琴ちゃんが都合よく解釈する場合もある。だから真琴ちゃんは友達を作りにくいし、誤解を生みやすい。分かる? 耳が聞こえないというのは、それだけのハンデを背負っているんだ」
まだ佐々田さんの話は続いた。
「何より面倒なのは、中度難聴者という点だ。何が悪いか分かる?」
「……分かりません」
「重度難聴者と変わらないような聴覚なのに、真琴ちゃんは障碍者手帳をもらえない。真琴ちゃんは、ほぼ健常者としての身分しかないんだ。ペンドレッド症候群も治りにくいだけで、障碍者手帳が支給されるほどじゃない。何とも中途半端になってしまった。治る見込みのない難聴なのに、国から給付金すら出ないんだ。やりきれないよ」
その時、ちょうど昼休みが終わる鐘が鳴った。
「じゃ、これでいったん終わりだ。真琴ちゃんもつまんない話だったね」
鵜飼さんは首を横に振る。
「三谷君もこれを聞いて、これからどう行動するか、考えておいてね」
佐々田さんがこっそり俺に告げてきた。鵜飼さんには見えないし、聞こえないだろう。
「……分かりました」
鵜飼さんが最初に図書準備室の扉を開けて、外に出た。俺もそれに続く。
「ぁぃぁぃ」
鵜飼さんが手を振っている。佐々田さんに別れを告げているのだ。
「じゃ、また明日ね、真琴ちゃん。三谷君もさぼっちゃだめだよ」
「そんな事しませんよ」
俺が扉を閉めると、横並びになって鵜飼さんと廊下を歩く。
鵜飼さんが手話をした。それも学校で。閉鎖空間でもないのに。
『ごめんなさい』
そう伝えられた。親指と人差し指をつまむようにして、おでこに付け、話すと同時に手を広げる所作だ。これは確実に、『ごめんなさい』。
分からないよ。鵜飼さん。一体、あなたが何に対して謝ったのか。
それだけ言うと鵜飼さんは走って教室に戻っていった。俺は、その場で立ち尽くし、鵜飼さんの言葉の意味を考える。
しかし、授業が始まってしまう。ゆっくりと進んで、教室にたどり着いた。
鵜飼さんは早速次の授業の準備をしていた。雨宮もいる。
俺は、今日の授業を悩みながら受ける事になった。
言葉にしないと分からない。今になって、そんな事に気づく事になった。
今日は火曜日だったから、図書委員も何もなく帰ろうとした。
しかし一人で帰る事にはなら無そうだった。
鵜飼さんが、下駄箱の前で待っていた。
いつもだったら速攻で帰っていたはずだ。今だっていつの間にか教室からいなくなっていたし。
「……一緒に帰る?」
鵜飼さんは俺の言葉にパッと顔を明るくして、頷いてくれた。何か今まで悩んで話しかけなかったのがバカみたいだ。
でも俺は悶々としている。さっきの『ごめんなさい』がどういう意味か、よく分からない。
今更聞きにくい事だし。でも。はぁ。楽しそうな鵜飼さんの顔を見てると、何か聞けない。
二人一緒に駐輪所に向かって歩き出した。
鵜飼さんは補聴器をつけていない。今何を話しても、鵜飼さんには聞こえていないらしい。余程の大声以外は無理だろう。そんな事をする勇気もないし、気恥ずかしい。
駐輪所に着くと鵜飼さんは周りを確認し始めた。
何をしているのかと思っていると、俺を手招きし始めた。
それに従って、鵜飼さんに近づく。
すると、鵜飼さんは補聴器と、紐を取り出した。
「あぁ……」
陰になってほしかったのか。確かに、補聴器が無いと道路は危ない。付けないといけないけど、人前でやるのはばれる可能性がある。上手くやらないといけない。
イヤホンを付けるふりでもいいけど、念には念をという事だろう。
装着が終わるのを見届けて、俺は一つ頷いた。何か頷いてばっかりだ。
俺たちは自転車に乗って、駅に向かう。
特に会話はない。というより喋れない。鵜飼さんが返答できないんだ。俺が喋りかけても、鵜飼さんは困るだけだろう。
二人で黙ってひたすらゆっくり自転車をこぐ。
繁華街に着いて自転車を降りて、歩いて通り抜ける。
やはりというか、鵜飼さんの顔は陰った。うるさいのだろう。補聴器が過度に雑音を拾っているんだ。それで鵜飼さんの耳には、ただただうるさいようにしか聞こえない。
俺は気休めしか言えない自分に権をしながらも、尋ねるほかなかった。
「大丈夫?」
鵜飼さんは頷く。俺に心配をかけまいとしているのか。それとも本当に大丈夫なのだろうか。何とも言えない。
数分歩いて、繁華街を抜けた。駐輪所に自転車を置いて駅に向かう。
むぅ。もううるさくないし。何か話した方が良いだろうか。でも、何話そうかな。
改札口を通り抜け、駅のホームに降り立った。
まだ電車は来ないようだ。
そういえば、あの答えを聞いていない。
俺は鵜飼さんの細い肩を叩いた。細。
「鵜飼さん、本って何読んだらいいかな?」
鵜飼さんは、昨日の質問の事を思い出したようだ。
「ぁ、ぁ」
鵜飼さんは何かを表現しようとしているけど、やはり発音は苦手なようだ。あまり何を言っているのか分からない。
鵜飼さんは喋るのを諦めて、ノートを取り出して何かを書きだした。
「ぁぃ!」
ノートを引きちぎり、何かの名前が書いてある。本のタイトルだ。
「ありがとう、探してみるよ」
鵜飼さんが強く頷くと同時に、電車が来るとのアナウンスが来た。
ホームに電車が到着して、扉が開いた。空いている。まぁ、田舎の方に行く電車だ。帰宅ラッシュでもない限り、そう混みはしない。
鵜飼さんと一緒に乗り込んで、席に着く余裕もありそうだったので、並んで座った。
喋ろうかとも思ったが、まだ同じ高校の人も多い。難聴がばれるのは控えたい。
俺はポケットからスマホを出して、時間をつぶそうとすると、鵜飼さんが覗き込んできた。
「うお……!」
近い、近い近い。
ちょっとは危機感持った方が良いよ。顔近すぎ。やばいって。どうした、いきなり。
鵜飼さんは目を輝かせながら、何かを訴えかけている。スマホに何かあるだろうか。変な画像なんて入れてないぞ。あまりそういうのは。いや、興味はあるよ? でも普段持っているものに、そういうのは入れたくない。パソコンだったら、良いかもしれないけど。……脱線した。違うな。スマホ自体だ。
「使う?」
「ぅん!」
鵜飼さんは俺からスマホを奪い取って、アプリで遊び始めた。
そういえば、鵜飼さんがスマホとか使ってる場面を見た事が無い。今時珍しいが、持っていないのか。基本は電話だからな。耳が聞こえないのに、持っていても……。みたいな考えかな。
あまり電話機能も使わないが、これもタダではない。無駄遣いもあれかもしれない。なくても死にはしない。
でも、普通の女子高生としてはどうなのか。でもな。鵜飼さん友達いないみたいなんだよね。作りにくいのは分かる。難聴がばれたくないのは、やはりコンプレックスでもあるのだろう。俺にばれたのも痛恨事だ。悪い事をしたな。
しかし、隣でパズルアプリに夢中になっている鵜飼さんを見ていると、それもしょうがない事だったと思えてくる。夢中だ。俺のこと忘れてるんじゃないのか? いいけど。別に。
それから俺たちは電車に揺られ続けた。鵜飼さんは初めて触るスマホなのか、楽しそうに遊んでいる。
ただ、三十分も経過すれば、白砂駅にたどり着いてしまう。
俺は鵜飼さんからスマホを受け取り、すぐさまメモ帳を開いた。
『なんでごめんって言ったの?』
そう書いた。
スマホを鵜飼さんに押しやった。
「……!」
それを見た鵜飼さんは一瞬硬直したが、慣れない手つきで操作して何か書いている。
もうすぐ、白砂駅だ。
いや、着いてしまった。
人が出て行っている。
鵜飼さんは、
「ぁぃ」
スマホを俺に渡して、出遅れないように走って行ってしまった。
閉まった扉の外では鵜飼さんが振り返って、手を振っていた。
俺も手を振り返す。
電車が発進して鵜飼さんの姿がどんどん小さくなっていく。
俺は完全にその姿が見えなくなるのを待って、スマホを見た。
『重いかなって』
それだけだった。
俺は泣きそうになった。
あなたの方がつらいはずなのに。気にする必要はない。俺には迷惑をかけまくればいいし。俺は何とも思わない。むしろ、力になれるのならどんなに重くたっていいように思う。
あなたは俺の知らない世界を教えてくれるし、俺もあなたに新風を吹かせたい。
言い過ぎかもしれない。
でもそんなこと思わなくても良い。
俺はそう思う。




