8話 元親友の夢と、決意
レオンハルト様との共犯関係を結んで以降、私は着実に復讐へ向けての準備を進めている。
だけど、心の奥に燻る傷跡――クラリッサに裏切られ、死ぬ直前まで嘲笑されたあの記憶が、まるで泥沼のように私を絡め取ることがある。
今夜も、私は悪夢にうなされていた。
『クラリッサ……どうして、こんな噂が……』
夢の中の私が、必死に問いかける。
「エステルは王子に媚びる軽薄な女」「どれだけ令嬢の顔をしていても、中身は何もない馬鹿」といった、耳を疑うような噂が社交界で広まっていた。
そして、その噂を流していたのがクラリッサだと、決定的な証拠が見つかったとき、私は頭の中が真っ白になった。
『どうして……私たち、親友だったじゃない……』
王城の廊下の隅で、私は涙を滲ませながらクラリッサを問い詰める。
クラリッサの家は、古くから私の家と交流があったし、私自身も彼女を心から信頼できる親友だと思っていた。
ところが、彼女は明らかに冷たい瞳で私を見下している。
『親友? ふふ、冗談でしょう、エステル。あなたが私を親友なんて思っていたこと自体、笑えるわ』
突き放すような声。
いつも私と一緒に笑っていたクラリッサとは、まるで別人のようだった。
急に肌が粟立つほどの冷気を感じて、私はその場に立ち尽くす。
『な、なんで……そんなこと言うの……。私、あなたが嫌がるようなことをした覚えはないのに……!』
震える声で訴えても、彼女はあざ笑うばかり。
まるで長年秘めてきた恨みを爆発させるように、クラリッサは吐き捨てる。
『あなたが王子に気に入られてるのが、本当に嫌だったの。最初からずっと羨ましかったし、ムカついてた。友達? 一度だって思ったことないわよ』
まざまざと浮かぶクラリッサの嘲笑。
周囲には誰もいないと思っていたのに、遠くから貴族たちの視線を感じる。
私が取り乱して叫んでいる様子を、好奇の目で眺めているのだろうか。
『そんな……嘘よ。信じられない……』
私の声はもうすっかり掠れていた。
でも、クラリッサの表情は変わらない。むしろ、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
『じゃあ、ちゃんと気づいてくれた? あなたがどれだけ醜いか。私が噂を流したのよ。あなたの私生活や趣味、全部ね。あなたが私の傍にいるからこそ知り得た情報ばかり』
言葉にならない悲鳴をあげそうになる。
そりゃあ、私の身辺情報がやたら具体的だった理由も納得できてしまう。
私が受ける笑い者の目線も、悪評も、彼女が背後で糸を引いていたなんて……。
『どうして……そんな……あなた……ひどすぎる……』
涙が止まらない。
崩れ落ちそうになる足を必死に支えながら、私は床を見つめたまま歯を食いしばる。
そこに響くクラリッサの声は、どこまでも楽しげだった。
『王子に気に入られるとか、令嬢たちから注目を集めるとか……あなただけが手にしてるものが気に入らなかったのよ。ずっと昔から嫌いだったの』
一瞬、場面が歪む。
私の意識がどんどん沈んでいく。
あまりの絶望に、息が止まりそうだ。
そこで――私は目を覚ました。
「はぁ……はぁ……!」
息が乱れ、額には冷たい汗がにじんでいる。
部屋のカーテン越しに薄曇りの朝の光が差し込んでいて、どうやらもう朝になっているらしい。
私は布団を握りしめながら、深呼吸を繰り返す。
「あの夢……また見てしまった。クラリッサに言われた言葉……」
前の人生で実際に起こったこと。
処刑台に連行される以前、最後まで私を嘲笑っていたクラリッサの姿が、脳裏にこびりついて離れない。
けれど、今は私は生きている。
死んだはずの私が、もう一度この世界に戻ってきた。
「大丈夫……私は今度こそ、あの子を止める。絶対に、許さない」
少しだけ気持ちを奮い立たせ、私は布団から抜け出して顔を洗う。
鏡を見ると、青ざめた自分の顔がそこにあったけれど、なんとか意識を切り替えるしかない。
今日は社交界でクラリッサが仕掛ける計略を逆に利用して、彼女の悪行を暴く予定がある。
そのための準備をしなければならない。
「落ち着いて……前の人生と同じ轍は踏まない」
自分に言い聞かせながら、ドレスの支度を急ぐ。
その後すぐに、レオンハルト様と秘密裏に会うことになっていたからだ。
グランディール家の敷地の一隅、誰も来ない離れに近い小さな部屋で、私はレオンハルト様を待っていた。
扉が軽いノックの後に開いて、あの淡い金髪がふわりと視界に入る。
「おはよう、エステル」
「おはようございます、レオンハルト殿下」
「うん……エステル、ちょっと顔色悪い?」
彼は私の姿を見るなり、わずかに眉を寄せる。
まさか私が夢で魘されていたことを見抜くとは思わなかったが、やはり彼は無能王子なんかじゃない。
「大丈夫です。少し寝起きで、ぼーっとしていただけですから」
そう答えて笑みを作るものの、レオンハルト様は納得しないように微かに首を振る。
「君、やっぱり無理してるだろう? クラリッサ嬢の件……嫌なら僕がやるよ。派手に暴いてみせる」
彼の瞳は眠たげなのに、どこか鋭さを帯びている。
私を気遣ってくれるその声に、胸が少し温かくなる。
でも、ここで甘えてはいけない。
「いいえ、私がやります。……レオンハルト様の剣の腕前や、財務改竄の才能を社交界で知らしめるのは、まだ早いです。無能だと侮られているほうが、あなたには都合がいいでしょう?」
少し低めの声で言い切ると、彼は苦笑交じりに肩をすくめる。
「確かに、今バレると一気に動きづらくなる。でも、だからといって、全部君が抱えるのもどうかと思うよ」
その心配が嬉しい反面、私には自分の手でやらなきゃ意味がないという思いが強い。
前の人生で、クラリッサに裏切られて、絶望の渦中で死んだ。
なのに、他人に任せてすっきりするわけがない。
「私がやりたいんです、レオンハルト様。ずっと抱えてきた恨みを晴らす機会を、逃すわけにはいかないんです。クラリッサを止めるのは、私の役目でもあるんです」
私が強く言い切ると、レオンハルト様はほんの少し目を見開いて、それからため息をつくように口を開いた。
「わかった。君がそう言うなら、僕は口出ししないさ。……でも、何かあったらすぐ呼んでよ。僕が無能を装ってるのは、そういう時に有利に動くためでもあるから」
「ええ、ありがとうございます。殿下の影の助力は頼りにしていますから」
目で微笑みを返すと、彼も肩の力を抜いたように笑う。
「今宵の社交界で、クラリッサ嬢をどんなふうに追い詰めるのか……想像するだけで、ちょっと面白そうだ。まるで舞台に上がるみたいだな」
「そうですね。そういう意味では、きっと華やかな舞台ですよ。私が一人で踊るところを、隅で見ていてください。あなたが舞台に出るのは、まだ先ということで」
「わかったよ。特等席で観させてもらう」
少し茶化すように言うレオンハルト様の声を聞いて、私の胸に再び覚悟の炎が灯る。
最初は死ぬほどの絶望しか感じなかった二度目の人生。
でも今は、確かに味方がいる。
「それでは、そろそろ私も準備に取りかかります。殿下は、この離れから人目を避けてお帰りくださいね」
「了解。君はしっかり殺気を隠して踊るといい。……じゃあ、今宵の舞踏会で」
レオンハルト様はそう言って部屋を出ていく。
ドアが閉まると、ひんやりした空気が戻ってきたような気がする。
けれど、私の中には依然として熱が籠っていた。
「クラリッサ……あなたを倒す時がきたわ」
そう呟いて立ち上がる。
今宵の舞踏会こそ、クラリッサを陥れる一手。
そしてこの一手は、ヴィクターへの復讐の一歩でもある。
私が死に際まで味わった絶望を、少しでも思い知らすことができるのなら――これまでの苦しみに報いる一歩となるだろう。
ギシリと床が軋む音に負けないよう、私はドレスの裾を翻して扉へと向かう。
レオンハルト様も、私の敵討ちに手を貸してくれると誓ってくれたのだから。
あとは、私がしっかり自分の役割を果たすのみ。
「絶対に失敗しない。二度目の人生を、こんなところで捨てるわけにはいかないんだから」
決意を込めて一人呟く。
そして、次なる舞台――ヴィクター派やクラリッサとの戦場となる社交界へと、私は足を踏み出す。