35.シーン3-1(夢の気分で旅に出る)
蝋燭の明かりと、マナによる微弱な発光性質のある魔石が放つ明かりが照らす室内に、窓から別の光が差し込む。部屋全体がぼんやり明るくなり始めた頃になると、とんとんと学術室の扉を叩くノックの音が聞こえてきた。
「おはようございます、アリエ様。ご加減はいかがですか」
寝てない。
出された課題をほぼやり遂げ、睡魔と戦いながら誤字脱字を確認していたなかで日の出時刻を迎えた私は、現れたキュリアさんに、試練をやり遂げた者のみに許される満ち足りた表情を向けた。
「おはようございます」
キュリアさんは課題を終えた私を労い、助かりますと感謝の言葉を述べてくれた。
「いつも仕事がきっちりしていて素晴らしい」
残業がサービスなんて謳われてしまうような時代を生きた侍の性である。侍魂である。
「さっそくですが、支度を整えていただけますか。はい、こちらは温泉代です。衣類は当直の者にお渡しください。着替えは兵装になりますがお貸しいたしますので」
昨日、街中をかっ飛ばした私を気遣ってくれたのか、キュリアさんは洗いたての着替えと温泉代と洗濯をサービスしてくれた。彼女は優しく微笑んだ。
「ご安心ください、ツケておきますので、今すぐに返せとは言いませんから」
サービスしてくれたわけではなかった。
「準備が整いましたら、お話がありますので、またこの宿舎の待合室へいらしてください。お早めに」
「ひと眠りする時間はありますか」
「無さそうですので、お早めにお願いします」
無情である。この混濁した意識の中で話を聞いてもろくなことにならないと思われる。しかも、徹夜明けの入浴は危険である。
疲弊した体に鞭を打って急いで市街地までくだった私は、ざっと一晩分の汗を流した。そして今度は、軽く急ぎ足程度で上へと戻り、家政を担当している人に着替えた衣類を預けておいた。せっかく汗を流したのだから、また汗をかいてまで急がなくても良いと思いたい。
宿舎の待合室には、すでにミリエと、可哀想に付き合わされてしまったオルカ、そして何とも有り難いことに、カインもしっかりスタンバイしてくれていた。よくもまあ夜逃げをしなかったねと、思わずモーニングコーヒーを差し入れしてあげたくなる気分である。
部屋の扉を開けてもぞもぞと現れた私を見て、ミリエが遅いと口を尖らせた。キュリアさんがいないのだ、まだまだセーフである。
「アンタ、一晩見ない間に何だかやつれたわね」
寝てない。
昨日座った長椅子に仲良くオルカとカインが腰掛け、小さなテーブルを挟んで向かい側の長椅子に同じくミリエが腰をかけている。
ミリエの隣に座ろうとした私は、そこはキュリアが座るからダメと言うミリエに押し返された。仕方がないので立っていたら、ミリエに押されて代わりにオルカに引っ張られ、もれなく昨日の定位置に落ち着いた。
両脇から来る脂まみれの濃い気配を、まだまだ朝の気配の抜けないさわやかな空気が中和する。要するに、午前がとてもうららかで、眠気が勝ってしまってひどい。
私が来たからなのか、はたまた重いご説明を待っているという状況が状況なだけに特に会話が無かったのか、カインはさておきミリエとオルカも終始無言で、室内は素晴らしく静かだった。無音の中、キュリアさんがやってくるまで揺れ続ける頭部と睡魔と戦い続けていると、ただならぬ状態の私を心配したオルカに、大丈夫かと軽くつつかれた。何か、何か会話をしてくれないか、君たち。空気がひどく穏やかで、まるで大丈夫ではない。
思い返せば船で記章を落としてからというもの、ここまでのんびりとした空気が流れていたことは無かったように思う。いや恐らくは、のんびりとしていない状況には違いない。なにせ、私以外の全員は表情が妙に硬い。キュリアさんの宣告を前に萎縮していると思われる。昨日までの私の状態によく似ている。
しかし当の私の方は、言うことは言い、出すカモは出し、やれることはやったので、後はもうなるようになるのをのんびり待つしかないのである。彼女が来ればすぐにまた忙しくなることと思われるが、しかし今となってはあれこれと危惧するような要素も少なく、思考回路はとっても平和そのものである。張りつめていた緊張の糸を解くには早すぎる気もするが、切れちゃったものは切れちゃったのだ。焦ったって仕方がない。頑張って返すのみである。
危惧と言えば、昨日の騒動で解き放たれた不吉な気配についてだが、結局カインの言ったとおり、消えたきりで未だ問題は見受けられない。徐々に昇る太陽に照らされ、窓からあふれる暖かな光が、そんな騒動のさなかにひとりでこっそり体験していた、不思議な白い世界の景色と重なった。
目が覚めてからはそれどころではなかったせいで、あまり深く考えている余裕はなかったが、こうやって静かな時を過ごしていると、あれは一体なんだったのかな、なんていった気がかりが次第に膨らみを増してくる。ただの夢、と片付けるに片付けられない要素が多い。仮に単なる夢であったとしても、夢とは脳が膨大な情報を整理しているときに見るものだなんて考えると、自分のなかにあんな夢を作り出すような情報が埋もれていたことになる。それはそれで、捨て置けない。
私と一字違いの女性が言うには、あれは彼女が落としてしまった欠片の一部であるらしい。ここにあるのはわたしの欠片、彼女は確かにそう言った。わたしを助けてくださいと。そしてあの場にあったものといえば、不吉な気配をもんもん放つマナの吹きだまりである。キュリアさん曰く、過去、不浄なるなんとやらが残した歪みの残骸だとかなんとか。
さて、ここで一度整理しよう。これだけ明示されているのだ、ややこしく考えたりせず直球勝負でいこうじゃないか。
〈あの場にあった彼女の欠片=あの場に残されたという歪みの残骸〉ならば、〈彼女=不浄なる歪み〉ということになる。私が勢いで受けてしまった彼女の依頼とは、すなわち聖堂にあったものと同じようなマナの淀みを解き放てということだ。断言しよう、私にゃ無理だ。キュリアさんだって言っていたではないか、今まで誰ひとりとして手出しできなかったものであると。
そしてそして、何の因果か、そんな私がノリで引き受けた超高難易度の依頼をあっさりこなしてしまったのは、なんたることか私が連れてきたカモ、ギャラクシー・パラリラなのである。補足するなら、彼の魔力は非常にあの場に溜まっていたマナの波動とよく似ていると言って良い。今まで誰も手出しできなかったマナの歪みを、それとよく似た魔力の彼が解き放った。
ここまで来ると答えを言われたも同然である気がしなくもないが、しかし誰もそれを口にしないので、私もあえて言及するような真似は避けておこう。そもそもひとつ、矛盾がある。今の世界は穏やかなマナに包まれた、豊かな世界であるということ。それに尽きる。
この件ばかりは、矛盾を含め、考えるだけ損なのでこれ以上はやめておこう。わかりっこないのだ、致し方ない。
では、結局あの白い空間は、夢ではないとするなら何だったのかという疑問について、私は自問自答で出された答えに我ながら呆れてしまった。
精神世界。意識のやり取り。テレパシー。なんともまあ、ぶっ飛んだお話だ。
だがしかし、私の思考がそれを突拍子もない話であると感じているにもかかわらず、私の理解は全てを飛び越え、すとんとあっさり落ち着いた。マナは、いわゆる人の思念、人の心と呼ばれるものを、保存することができるのだろう。
忘るべからず、マナは非常に高い多様性や持続性を持っていて、何よりもまず人の意思で干渉することのできる、まさに夢のように優秀なエネルギーなのだ。人の思考、思念、心を作り出しているものが脳の中を走る微量の電気エネルギーなのだとしたら、両者の間に互換性があると言われて今さら驚くものでもない。なんてったって、その最たる証人がもっとも身近な場所にいるのだ。
もし仮に、 魂なんていうものが本当に存在するとして、今更、そんなものはもう何でも良い。よりにもよって、なぜ私だったのだろう。私の意識は、そんなにもすっぽ抜けやすいものなのだろうか。脱力感も甚だしい。




