第一章 知らなかった春
大学に入れば、何か変わると思っていた。
少なくとも、高校までの自分よりは少しだけマシになれると思っていた。
だけど現実は、思っていたより変わらない。
四月。まだ少し冷たい風が吹くキャンパスを歩きながら、俺――藤沢悠真は人の流れを避けるように歩いていた。
入学して一週間。
友達らしい友達は、まだいない。
話す人がゼロというわけではない。でも、講義前に少し話す程度だ。昼飯を一緒に食べる相手も決まっていない。
別に、それでいいと思っていた。
いや、正確には「そう自分に言い聞かせていた」。
高校の頃もそうだった。
大人数が苦手で、自分から話しかけるのも得意じゃない。静かな方が落ち着くし、一人でいる時間も嫌いじゃない。
……ただ。
大学の食堂で、一人でスマホを見ながら昼飯を食べていると、たまに思う。
「変わりたい」と思って大学に来たんじゃなかったっけ、と。
「ここ、空いてる?」
顔を上げると、短めの黒髪の男子がトレーを持って立っていた。
少し明るそうな雰囲気。
「あ、うん」
「助かった。一人なん?」
「まあ……」
「俺も。なんかグループできるの早くね?」
苦笑いしながら向かいに座ったそいつは、勝手に話し始めた。
「俺、佐伯健太。経済学部」
「あ……藤沢。悠真」
「同じ学部じゃん」
それから、少しだけ会話が続いた。
地元の話。履修登録が難しい話。高校まで何してたか。
話すのは得意じゃない。でも、健太は沈黙を気にしないタイプで、それが少し楽だった。
「次の講義、同じ?」
「たぶん」
「じゃ、一緒行こうぜ」
その言葉に、少しだけ気が軽くなった。
大学って、案外悪くないかもしれない。
そう思った数日後だった。
——また、会ってしまったのは。
前の方は空いているのに、みんな少し後ろの席に集まる。大学に入ってから気づいた暗黙のルールみたいなものだった。
「ここでよくね?」
健太が適当に真ん中あたりの席に荷物を置く。
「うん」
俺も隣に座り、スマホを机に置いた。
教室はざわざわしていた。話し声、椅子を引く音、スマホの通知音。
高校とは違う空気だった。
誰も誰かをそこまで気にしていない。自由で、少しだけ冷たい。
その距離感が楽でもあり、寂しくもあった。
「藤沢ってさ、彼女いたことある?」
突然だった。
「……え?」
「いや、なんとなく。静かそうだから気になった」
こういう質問が苦手だった。
どこまで話すべきかわからない。
「まあ……いた」
「お、意外。いつ?」
「高校」
「へえ。長かった?」
少しだけ間が空く。
「二年くらい」
「え、普通に長くね?」
健太は驚いた顔をした。
「別れたの?」
「……まあ」
深く聞かれたくなくて、それ以上は言わなかった。
嫌いになったわけじゃない。
でも、思い出したくない時もある。
高校三年の夏。
受験。
会う時間が減った。
LINEの返信も遅くなって、気づけば会話がぎこちなくなった。
「お互い、今は受験に集中した方がいいよね」
そう言ったのは、向こうだった。
責めるような言い方じゃなかった。
むしろ、少し泣きそうな顔をしていた。
だから何も言えなかった。
引き止める言葉も出てこなかった。
——今思えば、言えばよかったのかもしれない。
でも、その時の俺には余裕がなかった。
「藤沢?」
「あ、ごめん」
「いや、なんか悪いこと聞いた?」
「大丈夫」
授業が始まり、話はそこで終わった。
その日の四限は休講だった。
健太はサークル見学があるらしく、「じゃあまた」と先に帰っていった。
俺は特に予定もなく、図書館でも見て帰ろうかと思っていた。
大学の中央通路を歩いていた時だった。
向こうから歩いてくる人影を見て、足が止まった。
見間違いだと思った。
でも、近づくにつれて、その可能性はなくなっていく。
肩までの髪。
少しだけ早歩きな歩き方。
笑うと目が細くなる顔。
高校の頃と少しだけ大人っぽくなっていた。
でも、間違えるはずがなかった。
——朝倉美咲。
元カノだった。
心臓が、変な音を立てた。
なんで。
同じ大学?
聞いてない。
いや、別れたんだから知るわけもない。
美咲は友達らしき女の子と話しながら歩いていた。
俺には気づいていない。
気づかないまま通り過ぎてくれ。
そう思った。
なのに。
ふと、美咲が顔を上げた。
目が合った。
その瞬間、時間が止まったみたいだった。
美咲の表情が固まる。
驚いた顔。
たぶん、俺も同じ顔をしていた。
数秒。
でも、すごく長く感じた。
「あ……」
先に声を出したのは、美咲だった。
「……悠真?」
高校卒業以来、初めて聞く声だった。
少しだけ懐かしくて、苦しくなる。
「あ、うん……久しぶり」
情けないくらい、ぎこちない声が出た。
「え、なんで?」
「いや……俺、この大学」
「あ……そっか」
変な沈黙。
友達が気を遣ったのか、「先行ってるね」と離れていく。
二人きりになった。
気まずい。
何を話せばいいかわからない。
別れてから、一度も連絡していない。
誕生日も、合格報告も、何も。
完全に止まった関係だった。
「元気だった?」
美咲が聞いた。
「まあ……普通」
「そっか」
また沈黙。
高校の頃なら、こんな沈黙はなかった。
どうでもいい話をずっとしていた。
コンビニ寄ったり、帰り道を歩いたり。
それが当たり前だった。
なのに今は、何を言えばいいのかわからない。
「じゃあ……また」
先に言ったのは俺だった。
逃げたかったのかもしれない。
「……うん」
少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
振り返らずに歩いた。
でも、数歩進んだところで、後ろから声がした。
「悠真」
振り返る。
美咲が少し困った顔で立っていた。
「あのさ……」
少し迷ってから、言った。
「もしよかったら、また話さない?」
胸の奥が、少しだけ揺れた。




