27.幸福の足音
なんか、どっと疲れたな。
小さな借家に帰ってきた私は、靴を脱ぎ捨ててベッドに飛び込んだ。
寝室とキッチンに併設された小さなダイニングだけしかない、本当に小さな借家。ここが私の城で、今の私の帰る場所。
ベッドの上でごろんっと寝返りをうとうとして、頭がお団子になっているのを思い出した。あーあ、ほどくのもったいないなぁ。ぐしゃぐしゃにもしたくない。
私はうつ伏せのまま、ベッドでもぞもぞする。はい、靴下脱いだ。床にぽい。ふぁあと大きなあくびが出た。
何か食べなきゃと思うけど、お腹が空いてない。というか、食べようと思ってもパンとアルゲくらいしかない。今日は夕食会の予定だったから、傷みやすい食材は昨日までに食べちゃったんだよねぇ。
まぁ、パンさえあればお腹が空いても満たされるでしょう。私はもぞもぞとスカートやブラウスをベッドの上で脱いで、下着姿でシーツの中に潜り込んだ。
今日は疲れちゃったや。
何も考えたくないし、もう寝ちゃえ。
そう思って、シーツの中で丸まって瞼を閉じるけど。
「……はぁ、つら」
じんわりと目尻に雫が溜まっていく気配。熱くなる涙腺を、シーツで抑えつける。
涙の原因は分かってる。分かってるんだ。好きな人に、一人の女性として見られてないってこと。どんなにおしゃれしたって、見た目を大人の女性のように取り繕ったって、これまでの言動のせいで、私はあの人の視野にすら入らないってこと。
悲しいなぁ。
悔しいなぁ。
そう、悔しいんだ。
私、悔しい。あの人に大人の女性として見てもらえないのが。恋愛対象にならないのが。……だから諦めきれない。
悲しいだけなら、この恋もとっくに終わってた。とっくに諦めて、ガエンになびくことだってできた。できたはずなのに、そうできないのは、悔しいからで。悔しいから、諦められなくて。
「あー、むりむり。こんなのむり。ガエン、マジで尊敬する」
ずびっと鼻を啜る。ずるりと身体を横にずらして、ベッドの下に突っ込んでる箱を引っ張り出す。ぺいっと箱の蓋をずらしたら、中には手紙と、ちょっとした贈り物があって。
「……ほんと、尊敬するよ」
箱の中につまっているのは、ガエンの想いだ。手紙の締めには必ずといってもいいほど口説き文句が添えられてるし、贈り物だって高価すぎないアクセサリーやリボンがほとんど。
私、こんなことできないよ。
面と向かって玉砕したのに、お手紙も、贈り物も。何度も何度も、思いを伝えるなんてできないよ。怖いよ。
それなのに、諦めきれなくて。
ガエンにずっと期待させていて。
……ほんと、悪い女だ。
諦められないのなら、どこかで区切りをつけるべきだろうか。新しい恋をすれば、上書きされるのだろうか。その相手として、ガエンを選ぶのは。
「……それはそれで、不誠実すぎるだろ」
箱に蓋をする。ガエンの想いを見て見ぬふりをする。こうやって誤魔化して想いをやり過ごす自分が嫌いだ。
恋の仕方なんて分からない。ちょっと遅い青春がやってきて調子に乗ってしまったんだよ、って自分に言い聞かせる。私じゃ、ディオニージに釣り合わない。そう、自分に言い聞かせる。
言い聞かせる、けど。
「ふ、ぅ、えぇん……っ」
怖かった。怖かったの。知らない人に襲われて。どこかに連れて行かれそうになって。それを助けてくれたのがディオニージで。
好きがあふれる。この人なら守ってくれるという安心感がある。どこにいっても、私を見つけてくれるっていう信頼感がある。私はそれが欲しい。胸が苦しくなるほど恋しい。あの人のことを思うと、涙があふれる。想いを伝えても伝わらない、そんな自分が情けなくて嫌いになる。
ぐずぐずと私は一人で丸まって泣いている。こんな時間が虚しい。泣いているのが虚しい。想いが届かないのが虚しい。
……べそべそとしたまま、私はたぶん、寝ちゃったんだと思う。
ドンドンと何かを叩くような音で、ぽっかりと意識が浮上した。
なんだろう。もぞっと動いてベッドの上で座る。泣いて寝ちゃったのか、ちょっとだけ頭がぽやぽやする。
気のせいかなって思ったら、玄関からまた扉を叩く音がした。
「アユカ、帰っているか。アユカ」
「ディオ様!?」
びっくりしてシーツを跳ね飛ばした。
慌てて玄関を開けに行く。
「ディオ様、なんでここに」
「それは……って、まて!? なんて格好しているんだ!」
ギョッとしたディオ様に部屋へと押し込まれた。わわっと後ずさる。せっかく開けた扉も閉じられてしまった。
「ディオ様、入らないんですか?」
「入れるか! 服を着ろ!」
言われて思い出す。
そういえば、ベッドに入った時に服を脱いでいたや……!
今の私はシュミーズに下着一枚だけの姿。こんな姿で玄関に出てしまったのは人として破廉恥すぎる……!
痴漢で私が捕まるんじゃないかな!? ていうか下着姿を好きな人に見せるってどうなの!? 私、女として終わってない!? あああもうむり首吊る覚悟決めたほうがいい!?
テンパってずるずると玄関の扉に背中を預けて座りこむ。終わった。失恋よりも人としての尊厳的な何かが終わった。こんな女が恋愛するなんて百年早いよ。もう来世に期待するしかないな。
るーるるー、と終末の鐘のような音楽が頭の中で流れていく。あーあ、来世こそ、ちゃんとした恋愛ができますように。
「……アユカ。それは、わざとなのか」
ディオニージが扉越しに声をかけてくる。私は膝を抱えた。わざとって。こんなんわざとでやったら本物の痴女だよ。ヤバい人だよ。ついさっきディオニージにお縄頂戴されてた人とおんなじ枠だよ。え? 私ってばこれ、ディオニージに逮捕されちゃう感じ?
私は否定しようとしたけど、喉が緊張と羞恥心で渇いてしまって、うまく言葉が出てこない。あー、だとか、うー、だとかと唸っていれば、さらにディオニージの言葉が扉越しに届いてくる。
「アユカは無防備すぎる。俺の前以外で、そんな姿を見せるな」
俺の前以外で、か。
ほんと、範囲外じゃん。
たぶん私が下着でいても、ディオニージはこうやって小言を言うだけなんだろうな。私が子供だから。娘のように思ってるから。ディオニージにとって私は、幼い子供にしか見えてない。
私は立ち上がる。
たぶん今、ちょっとだけ私の頭はパンクしてるんだと思う。考えることを放棄して、ディオニージをちょっと困らせてやろうくらいの、意地悪な気持ちになった。
もう一度、扉を開ける。
目の前にはディオニージがいる。俯いたままでいたら、彼が息を呑んだ。
「……中に入れ。服を着ろと言っただろう」
「うん。でも、めんどくさくて」
「めんどくさいって……」
「だって、ディオ様の前ならいいんでしょ?」
揚げ足取りだとは思ってる。俺の前以外で見せるなってことは、俺の前だったらいいってことでしょ? なーんて。
そんな意地悪を言おうとして顔をあげようとしたら、身体を押されて、視界がぐるりとまわる。
ぱたん、と扉が閉まる音。
ひんやりとした扉の感触が背中にあたる。
目の前にはディオニージの顔があって。
「そんなことをすると、男は自惚れる生き物だ」
灯りのない薄暗い部屋の中、ディオニージは私を腕の中に閉じこめて、そんなことを言う。
自惚れるって。
私は、一番自惚れて欲しい人に、想いが伝わってないのに。
「……でも、ディオ様は自惚れないんでしょ。ならいいじゃん」
「そう……思っていたんだが、な」
玄関の扉につけられていたディオニージの腕が、私の腰へと回る。ぐっと腰を抱かれて、ディオニージに身体が密着する。
びっくりして顔をあげたら、ディオニージの顔がさらに近づいて。
唇に、温かいものが触れた。
「……、…………へ?」
「ここまでされては、俺の理性も限界らしい」
「え」
「すまなかった、アユカ」
また、唇に温かいものが触れる。ちゅ、とリップ音。ようやく私は、ディオニージにキスされたんだと、理解して。
「えっ、あ、うぇっ? き、きす、キス、した……!?」
「ああ、したぞ」
「ぴぇっ」
またキスされる。今度はほっぺた。鼻。目尻。額。頭頂。そしてまた、唇。
キスの雨にびっくりして硬直していると、腰を抱いているディオニージの腕に力がはいる。
「アユカ、すまない。俺は、お前の父親にはなれない」
「……いや、そんなの、知ってるし。別に、ディオ様をもう、お父さんとは間違えないよ」
「違う、そうじゃなくてだな……俺はお前に、父性以外の感情を、抱えていたようだ」
「へ……?」
父親以外の、感情……?
ディオニージの言いたいことがぴんとこなくて、私は疑問符が頭に浮かぶ。ていうか、さっきから密着してたり、キスされたりで、私の思考は過負荷がかかりすぎているんだよ。思考を放棄していれば、ディオニージが私の顎へと指を添えて、くいっと上向けさせてきて。
「俺はアユカを、一人の女性として愛しているらしい。娘なんかじゃない。ただ一人の女性として……大切にしたい、守りたいと、思っている」
私は瞬きをした。一回、二回。ディオニージの熱のこもった瞳が私を映している。
何度も瞬きをした。私、この目を知っている。いつか、ガエンが私に伝えた時のような。あの熱と同じものを、ディオニージの瞳から感じている。
その熱、は。
私が、ずっと、ずっと……恋い焦がれていた、ものの、ようで。
ディオニージの服を掴む。私は彼を真っ直ぐに見上げる。心臓が痛いほど鼓動している。全身の血が歓喜に沸騰しようとしてる。
私はその熱を確かめようと、背伸びをする。
「ほん、と……? ディオ様は、私のこと、好き……?」
「あぁ、好きだ。好きをとっくに通り越して、愛しているぞ」
「う、うそだぁ……っ! その愛してるも、きっと娘としてって言うんだろっ」
「言わない。言わないよ、アユカ。俺はアユカを一人の女性として愛している」
ぽろぽろと涙が落ちていく。どうしよう、心が追いつかない。ディオニージが私を好き? 愛している? これは私の夢? 泣いて眠ってしまったあとの、私にとって都合が良すぎる夢なのだろうか。
ディオニージがちゅ、ちゅ、と私の涙を食べてしまう。
甘くて、せつなくて、胸が痛くて。
私はディオニージの胸にしがみつく。
「う、うぁああん……っ」
「っ、泣かないでくれ、アユカ。その、俺の勘違いだったら、すぐにここから出ていく。だが、その……アユカが同じ気持ちなら……抱きしめても、いいだろうか」
ほんと、ほんと、なんてことを言うんだこの男は!
私はディオニージにますます抱きついた。彼の大きな胴体に腕を回す。彼の逞しい身体は、私の腕じゃ抱きしめきれなくて。
「アユカ、顔を上げてくれ」
私は首を振る。ディオニージの腕が私の腰を優しく掴む。掴んで、べりっと身体から剥がして、そのまま片腕で抱き上げてしまって。
「ふぁっ」
「アユカ、顔を見せてくれ」
無理やり顔を覗きこまれる。イヤイヤ、と首を振って、ディオニージの首にかじりついてやった。彼は身体を揺らすと、私の背中をぽんぽんと撫でながらゆっくりと歩き出す。
軋む床の音。ディオニージの足音。シーツが衣擦れる音。
「アユカ、どうしたら泣き止む。俺はお前に泣かれたらすごく悲しくなるんだ」
「ううっ、だって、だってぇっ! きっとディオさまっ、また、むすめってぇっ」
「もう、言わない。どうしたら信じてくれる? 結婚を申し込めば、受け入れてくれるか?」
ひくっ、と喉がひきつって止まった。
私はぱちぱちと瞬きを繰り返す。涙がぽろんと頬を伝う。その滴をディオニージが指で拭って。
いつの間にかベッドに腰かけていたディオニージの膝に、私は座っていた。止まらない涙を瞬きして落としていく。ぼんやりと、ディオニージが今言った言葉を反芻した。
「けっこん……?」
「そうだ。俺は、アユカと結婚したいと思っている。そういう好きだ。アユカは、違うか?」
反射的に首を振ってしまった。ディオニージと結婚したい。ディオニージのお嫁さんになりたい。私はディオニージの肩へと手をかけて、真っ直ぐに彼を見つめた。
「私も……好き。ディオ様と、結婚、したい」
「そうか。俺で、いいか?」
違う、と首を振る。
それからディオニージの頬へと手を添えて。
「ディオ様が、いい」
私は自分から唇を重ねた。
ディオニージの腕が私の背中へと、頭へと添えられる。
重なった吐息はとても熱くて、蕩けてしまいそうなほど心地よくて。
まるで全身に幸福が満ちていくみたいだった。




