『わからないでいい』 有漏 蕁麻
特に何も書くことは無いが、何か書かなければならないという強迫観念が男の筆を鈍らせていた。
男の自宅の地下にある立派な書斎には、いくつもの〝ゴミ〟が雪崩を起こして散々としている。〝ゴミ〟、といっても一冊一冊が選りすぐりの学術的資料。専門家も喉から手が出る程欲する書籍の数々。
男の父親は文豪で、いくつもの賞を受賞して、死ぬまで筆を握っていた。大学生になった男は未だにその父が話した数々の物語を夢に、青臭い夢を目指していた。
父親を追いかけはじめて十数年、それまでに何度か小さい賞をとったは良いものの、手に職が得られるまでには至らなかった。
彼ははっきりとその原因が何かわかっているつもりだった。大学のサークルの友人に自分の書いた小説を無理矢理読ませた結果、「よくわからない」という一言。「よくわからない」ということが男にはしばらくの間「よくわからない」であった。
考えている内に何となくの予想には辿り着いていた。しかし、考えている内に彼の大学二年の夏休みも公募の締め切りもとっくに期限が切れた。
「よくわからない」という問いに対して、答えは「わかりにくい」から、さらに「読みやすく書かなくてはならない」という結論となった。
元々書くことばかりが好きで、そのための資料を集めて読むことが苦手な彼は浅はかな知識と偏った知識を頼りに物を書いていた。そのせいか、説明すべき箇所で説明しきれていない、言ってしまえば「人を選ぶ文章」であった。
「……何も思い浮かばない」
父親の遺産である書斎と本の数々がまるで機能していない。最早、彼は屍の如く机に突っ伏していた。
大学の授業も始まって一週間を過ぎ、初回のガイダンスという理由でさぼる口述も無くなった。その上、彼のこのスランプに似たような状況と降り止まない雨が、その踵を床に括りつけている。
PCでSNSを覗いていると、どうでも良い怠惰な呟きにリプライがあった。ちょうどお昼時、世の中ではお昼休みという時間で人がごった返す時間だ。
「。」とだけ書かれたその反応を見た時、彼は友人の気持ちが少しわかった。
「よくわからない……な」
発信者であるアカウントの情報は無し。よくよく見てみると「。」の下に発信元が表示されている。少しばかりの興味で、ケータイのアプリと合わせて、正確な場所を特定する。
住所で表示されていて、場所のイメージが出来ていなかったが、大学の構内であることに気付いてようやく顔を上げたのだった。
学部生があまり利用しない研究室が集まる建物。ストリートビューに示された場所は、そこの脇道。大木が生い茂って、ちょうど人工物と自然物の境界というべきだろうか。
アスファルトで固められた道は苔に覆われ、水溜りで余計に足場としては不安になる。
そこでしばらく、無駄骨を食ったと陳腐な感情を履いていると、ケータイの通知機能がアラームした。
今度もまた、同じように「。」と発信場所がリプライされていた。
タイミングとしては怖いほど絶妙で、彼はあまり関わらない方が身のためだと考えた。しかし、現実は小説より奇なり、とそんな言葉があるように、それを一縷の望みとして掴もうと――ストリートビューを再びスクロールした。
何度も何度も振り回された。その後というもの、たった一つの点が示す場所に、尽く誰も何もありはしなかった。それでも、次第に見えてくる風景や通行人、その場所が持つ雰囲気全てが心に訴え、雨の音と興奮が脈打った。漲る表現と文章、それらは抑えようもなく、男はケータイを取り出した。
「。」の発信者。
例えば、死んだ父親がbot機能や各種アプリを駆使して仕込んだ遺産かもしれない。
例えば、何処かで男の小説を読んで感動した少女が、奮起を促すために送信しているのかもしれない。
例えば――。
発信者を考えるだけでも数々のシナリオが浮かぶ。この好機が何故どうして、何のために誰が起こしているかは小説家にとってはどうでもよかった。
「。」の発信者が示した定食屋で食事をして、今までに食べた豚カツの中で指折にランクインした後に、「。」の発信がもう一度あの場所を示す。その時には、雨はすっかり止んでいた。
『蜘蛛の巣が雫を帯びて雨上がりの黄昏空を映し出していている。灰と深緑が交差する校舎裏のアスファルト。通り慣れない道を僕は新しい靴で踏みしめて耽った』
直感を頼りに素直に思い描いた文章を組み立てる。長過ぎず短すぎず、ただ今は見える風景を、彼は一心に「。」へとリプライしていた。
「。」が何か、それは「わからない」だった。彼は結局どうすれば良いか、何が最善なのかはわからない。私も何が読者にとって素敵な文章に成り得るかはわからない。
しかし、「わからない」でもいい。少なくとも書く人間が、その目で耳で捉えた世界、それを彩る。それをしても「わからない」のであれば、そこに「わかる」ものなどない。ただ、「。」に向けて自分に正直に筆を進めるのみである。
句点、ピリオド、結びとして記号、終わりへと向かって私達は今日も考える葦である。