『歪』 零君
僕はいつからこの思いを心に抱いていたのだろうか。触れ合うことで感じる人のぬくもりは嫌いではない。しかし、僕には別種のものでしかその思いを受けとり、恋慕の想いに更けることができなかった。
小さな吐息が漏れる。
口付けを交わし、その想いを感じ合う行為をする僕らは互いにその手を握り合いながら、潤む目を相手に向ける。
その手は細く長いものだが、決して女性の様に細く、強く握ってしまえば折れてしまいそうなものではない。力の限り、思いの限りに握りしめてもその指は手元から離れることなく、その勢いに反発して握り返してくる。
彼は僕より背丈が十数センチも高く、僕は彼の首元に手をまわし、縋りつくように唇を重ねる。
男の唇は決して柔らかいものでもなく、ましては女性の様に香るものもない。ただ、その目の前に広がる彼の薄い唇は色香ではない、優しさにあふれたものを醸し出していた。
表情が徐々に緩んでいくのが自分でもわかる。
一回、また一回と回数を重ねるたびにその熱はより帯びて行き、口から洩れる息の大きさ、動悸の激しさを増徴させる。
少し、僕らの間に風が吹き抜ける。
その瞬間、僕は今までの行為に異様さを覚え、彼から離れ、思わず自分の身体を自分で抱え込んでしまう。
彼には背を向け、この関係に後ろめたさや違和感を覚える自分を責め、真っ直ぐな好意を向けてくれる彼に対して、そう思ってしまうことに罪悪感を覚える。
そんな僕に対して彼は何も言わず、その大きな両腕で僕の身体全体を包み込む。
細見の身体に付くわずかな筋肉が僕の肌に触れる。
安心感。
自分で自分を責める僕に、彼は無言で僕を彼の中へと誘い込ませる。
彼はそのまままた後ろから顔を近づけ、口元へとその頭を寄せる。
しかし。
「ごめん……」
僕は思わずそれを避けてしまった。
今の気持ちでは彼に応えることはできないという思いが、無意識に僕の手を動かせ、彼の顔を遠ざけてしまったのだ。
「大丈夫」
彼は静かに、微笑をその顔に浮かべながら答える。
ズキリと、心臓が締め付けられる。思わずその胸に手を当て、無理にでもその痛みを抑え込む。
僕らの関係は異様だ。
生命の営みとして、本来では成り立ちえない関係。
始めは僕も普通に、周りの人と同じように女性を好き、関係を持ったことがある。
彼女とはあり大抵の幸せを感じ、その日々を過ごしていた。
近場で他愛もない会話を交わしたり、遠出をしてありふれた一時を楽しんだりと、その一瞬、一瞬全てを最高の思い出と思い込んでいた。
思い込んでいたのだ。
そのことを知ったのは彼女と付き合って半年がたったある日のことだった。
僕は街中で彼女の姿を見つけ、声を掛けようとした時、その隣には自分の見も知れない男が隣に並んでおり、その男に向ける彼女の笑顔は僕に向けるものよりもきれいで、可愛げのあるものだった。
翌日、そのことを彼女に尋ねてみると案の定の答えがそこにはあった。
自然と涙は出ず、取り乱すことなく落ち着いていたと思う。しかし、この時僕には人を信じることに忌避感を覚え始めていた。同時に僕は独りを好むようになり、自然と周りとの距離を置くようになっていった。
そんな時、彼が僕に声をかけてきた。
周りの声がまるで自分のことを馬鹿にしたり、悪口を言っているのではないかと疑い、常にその耳をふさぎながら過ごしていた時のことだ。
彼は独りの僕に声をかけ、その淡白な口調は僕の疑う心を、警戒する目を一気にほどき、解いていった。
次第に深まっていく中で、変化が現れたのは知り合ってから一つの季節が終わろうとしていた時のことだった。
足を滑らせ、階段から落ちそうになったとき彼はその長い両腕で僕を抱きかかえるように支えた。
細身に見えて、意外と腕力はあり、その表情に焦りの影を見せることなく僕の全体重を支えている。
瞬間、僕は不思議な包容力に包まれ、その意識を彼のその顔にひきつけられていた。その力は神秘的で、息をするのも忘れるくらいに僕は一心に彼を見つめ続けていた。
「……大丈夫?」
線の細い声でそう言う彼の表情には遅れてやってきたのか、やっと焦りや心配といった表情が見え始め、その淡白さゆえの暗明の差から、彼の隠れた優しさがその姿を現す。
「ん、あぁ大丈夫」
そう答えたのち態勢を立て直し、姿勢を正そうと思っていた。
しかし、僕はその体を動かさずに、いや、動かせずにいた。
ドクン、ドクンと胸の鼓動が大きく鳴り響き、僕はその動きに戸惑いを隠せないでいた。
どうしてこんなにも打ち鳴らされるんだろう、ひきつけられて仕方ないのだろう。不思議でたまらなかった。
気づくと彼の顔が眼前まで迫っていた。わずかに細めた目元、色白な肌、少し高めの鼻、薄い唇。
精細に整った顔立ちの彼がゆっくりと、僕の顔に影を落としていく。
そして……。
「ごめん」
「いや……」
唇がふれた。
僕の。彼のが。
不思議と抵抗はなく、容易に受け入れることができた。
それが僕と彼との初めてでもあり、異様の始まりでもあった。
「――痛いんだ」
彼に背後から抱きしめられながら僕はそう呟く。
すると彼は僕の心の内を察しているのか、また静かに微笑む。
「君は」
微笑みを少し引き締まった表情に移し、それから口に出される言葉の重みを体現させる。
「誰を信じる?」
それは理解の追い付きづらい質問だった。何を意図しているのか、言葉の裏に何があるのかその全容が全くつかめない。
「自分? 俺のこと? それとも他の人?」
ようやくその意図がわかってきた気がした。
人を信じることができなくなって、あまつさえ自分さえも信じられなくなって、自責の念にとらわれる。
この思いは本物なのに、自分自身を疑って、勝手に傷ついてその結果相手も傷つけてしまう。
僕は今までの余計な考えのバカらしさに思わず、声に出して笑いが漏れてしまう。それを見ると彼は安心したようにまたその顔に微笑みを取り戻す。
そして、彼の質問の答えはもちろん――
「僕と、君だ」
そうして互いに額をあわせ、心のままに笑いあった。




