6話:少しずつ、前へ
高校生活が始まって、まだ一週間も経っていない。
それなのに。
「眠い……」
朝から俺は机に突っ伏していた。
「またかよ」
隣の席の蓮が呆れた声を出す。
「昨日、何時に寝たんだ?」
「十一時くらい」
「普通じゃん」
「でも眠い」
「知らねえよ」
俺は顔を上げる。
昨日の武技部での練習を思い出す。
足運び。
棒の振り方。
相手の動きを見る練習。
どれもまだ上手くできない。
それでも、少しずつできることが増えている気がする。
「まあ、今日も部活あるしな」
「それでまた疲れるんだろ」
「……そうだった」
「学習しろよ」
蓮が笑う。
その時。
「おはよう」
教室の後ろから声がした。
振り向く。
「朝倉」
「おう」
高橋恒一が、自分の席に鞄を置いていた。
「朝倉、今日も眠そうだな」
「昨日ちょっと部活で疲れた」
「武技部?」
「うん」
「大変そうだな」
「高橋の方が大変だろ。野球部、朝練あるんだろ?」
「ああ」
高橋は何でもないように答える。
「朝からちょっと走ってきた」
「……元気だな」
「慣れてるからな」
「小学生からやってるんだっけ?」
「そう。もう何年目だよって感じ」
高橋が笑った。
そういえば、今朝学校へ来る途中にも、グラウンドの方から野球部の声が聞こえていた。
朝早くから練習していたらしい。
俺たちが校舎へ入る頃には、もう練習を終えて片付けていたようだった。
「俺だったら朝から運動したら、そのまま寝る」
「朝倉は絶対そうだろうな」
「なんでだよ」
「顔に書いてある」
「書いてねえよ」
蓮が横で笑った。
「でも高橋、朝練してから授業って結構すごいな」
「まあ、野球好きだから」
「好きだから続くのか」
「そういうもんじゃね?」
高橋はそう言って席に座った。
「武技もそうだろ?」
「……そうかも」
俺は少し考えた。
武技を始めてまだ数日。
疲れる。
難しい。
上手くいかないことも多い。
それでも、放課後になると体育館へ行きたくなる。
「じゃあ今日も頑張ろうぜ」
高橋が言った。
「何を?」
「授業」
「そっちかよ」
三人で笑った。
◆
午前の授業が始まる。
国語。
数学。
英語。
まだ高校の授業には慣れていない。
教科書の内容も中学とは少し違って、思ったより難しい。
「……眠い」
「寝るなよ」
蓮に小声で注意される。
「寝てない」
「目閉じてるじゃん」
「考えてる」
「何を?」
「……数学について」
「絶対嘘だろ」
後ろから高橋が小さく笑った。
先生に見つからないように、俺も笑う。
そんなことをしているうちに、午前の授業が終わった。
昼休み。
「朝倉ー!」
高橋がこちらへやってくる。
「今日も一緒に食おうぜ」
「いいよ」
蓮も席を寄せる。
少し遅れて、莉奈と白石もやってきた。
「今日も五人?」
「五人」
莉奈が笑う。
「なんかもう定番になってきたね」
「まだ数回しか一緒に食ってないけどな」
白石が言う。
「でもいいじゃん」
莉奈は気にしていない。
「こういうの、私は好きだよ」
「俺も」
高橋が弁当を開く。
「いただきます」
「いただきます」
昼飯を食べながら、自然と話が始まる。
「そういえば高橋」
蓮が言った。
「朝練どうだった?」
「普通に練習」
「朝から大変だな」
「慣れてるって」
「眠くならないの?」
莉奈が聞く。
「最初は眠かったけどな。今は平気」
「すごい」
「水野だって武技部だろ?」
「私は放課後だけ」
「じゃあ朝はゆっくりできるな」
「そうでもないよ。朝は普通に眠い」
「それは分かる」
高橋が笑った。
「朝は眠いよな」
俺は頷いた。
「分かる」
「朝倉は寝不足なだけだろ」
蓮が言う。
「十一時に寝て眠いんだから」
「高校生なら眠いだろ」
「知らん」
そんなくだらない話をしていると、昼休みはあっという間に終わった。
◆
午後の授業も終わり、放課後。
終礼が終わると、教室の空気が一気に変わった。
生徒たちがそれぞれの部活へ向かっていく。
「じゃあ俺、野球部行ってくる」
高橋が鞄を持つ。
「おう」
「朝倉」
「ん?」
「今日も五十メートル、負けないからな」
「まだ言ってるのかよ」
「勝負は継続中だから」
「分かったよ」
高橋が笑う。
「じゃ、また明日」
「ああ」
高橋はグラウンドへ向かっていった。
俺たちは体育館へ向かう。
莉奈、白石、蓮。
そして俺。
昨日と同じ四人。
でも。
少しずつ、学校での毎日が変わっている気がする。
入学したばかりの頃は、教室にいても周りは知らない人ばかりだった。
今は違う。
昼休みに一緒に飯を食べる人がいる。
放課後に向かう場所もある。
そう考えると、少しだけ高校生活らしくなってきた気がした。
◆
体育館に入る。
「お疲れ」
隼人先輩が声をかけてくる。
「今日もよろしくお願いします」
俺たちは頭を下げる。
「うん。今日はちょっと内容変えるぞ」
「変える?」
「いつも足運びと武器の基礎ばっかりだっただろ?」
「はい」
「今日はそこに、相手を意識した動きを入れる」
俺は棒を握った。
「相手を?」
「ああ」
隼人が頷く。
「武技は一人で棒を振って終わりじゃないからな」
「確かに」
「相手がどう動くかを見る。自分がどう動くか考える。それができないと、実戦では何もできない」
隼人先輩はそう言って、体育館の床にある既存のラインを指差した。
「まずは二人一組。このラインを目安にして、相手との距離を一定に保ちながら動いてみろ」
「なるほど」
体育館には、もともといくつかの競技用ラインが引かれている。
今日はそれを目印として使うらしい。
「ただ立ってるだけじゃなくて、相手が前に出たら下がる。下がったら追う。距離を自分で調整してみろ」
「はい」
俺は蓮と向かい合った。
「また俺?」
「経験者だから教えてくれ」
「俺も一年なんだけどな」
「でも俺より上手い」
「それはそう」
「自分で言うなよ」
蓮が笑った。
「じゃあ、最初は簡単にやるぞ」
「うん」
二人で構える。
俺は棒を両手で持つ。
蓮は剣を構えた。
「最初は攻撃しない。俺が前に出たら下がる。俺が下がったら前に出る」
「分かった」
「相手との距離を見ながらな」
「おう」
「じゃあ行くぞ」
蓮が一歩前へ出る。
俺も一歩下がる。
さらに蓮が前へ。
俺も下がる。
「そうそう」
今度は蓮が下がった。
俺は一歩前へ出る。
「いい感じ」
「これはできるな」
「走るだけならな」
「どういう意味だよ」
「これからだよ」
蓮が笑う。
「次は少し不規則にする」
「え?」
蓮が急に前へ出る。
俺は下がる。
次の瞬間、蓮が止まった。
俺も止まる。
蓮がまた前へ。
俺は下がる。
そして。
突然、蓮が横へ動いた。
「うわっ」
俺の足が遅れる。
「今のだ」
「何が?」
「相手が正面から動くとは限らないだろ」
「ああ……」
「相手の位置だけじゃなくて、自分が次にどこへ動けるかも考えないといけない」
言われてみれば、その通りだった。
俺はただ蓮についていっていた。
自分から動いているようで、実際には蓮の動きを追いかけているだけ。
「もう一回」
「おう」
今度は俺が先に動く。
一歩。
蓮が下がる。
俺が追う。
蓮が横へ。
俺も動く。
少し遅れた。
「今のは惜しい」
「惜しいのか?」
「最初よりはな」
「それならいいか」
俺は少しだけ笑った。
「じゃあ次は、実際に攻撃を入れてみるぞ」
蓮が剣を構え直した。
俺も棒を構える。
「最初はゆっくりな」
「分かった」
「相手の武器を見るんじゃなくて、身体を見る」
「肩とか腰とか足だっけ?」
「そう」
蓮が頷く。
「武器は身体が動いた後についてくるからな」
「なるほど」
俺は蓮の身体を見る。
肩。
腰。
足。
全部見るのは難しい。
だから、まず肩を見る。
「行くぞ」
「来い」
一歩。
蓮が前に出る。
俺は反応しようとした。
けれど。
遅い。
剣が目の前まで来て、慌てて避ける。
「うわっ」
バランスを崩した。
「危な」
蓮が止まる。
「悠真、今どこ見てた?」
「剣」
「やっぱり」
「違うの?」
「武器だけ見てたら遅れる」
「じゃあどこを見るんだよ」
「肩とか腰とか足」
蓮が自分の身体を指す。
「武器はその後」
「そんなの分かるかよ」
「だから練習するんだろ」
「それもそうか」
俺は構え直した。
さっきより少しだけ意識を変える。
剣を見るな。
相手を見る。
「もう一回」
「おう」
蓮が動く。
俺は今度、剣ではなく肩を見る。
肩が少し動いた。
同時に足が前へ出る。
「……!」
俺は反射的に横へ動いた。
剣が目の前を通り過ぎる。
「お」
蓮が止まった。
「今のはよかった」
「ほんと?」
「ああ」
ほんの一瞬。
ほんの少し。
でも。
今までとは違った。
相手が動いてから反応したんじゃない。
動く前の兆候を見て、先に動けた。
「もう一回」
「おう」
今度は蓮が少し速度を上げる。
俺は肩を見る。
足を見る。
腰を見る。
でも。
分からない。
「うわっ!」
今度は普通に当たった。
俺は一歩後ろへ下がる。
「……難しい」
「そう簡単にはできないって」
「だよな」
俺は苦笑する。
「でも、さっきはできた」
「だから、それを繰り返せばいい」
「一回だけじゃ意味ないもんな」
「そういうこと」
蓮が剣を構え直す。
「もう一回やる?」
「ああ」
今度は俺から少しだけ前へ出る。
蓮が下がった。
俺が追う。
蓮の肩が動く。
俺は横へ。
今度は少し早く動けた。
「おお」
「今のもいい」
蓮が笑う。
「二回目」
「よし」
俺は少しだけ自信が出てきた。
けれど。
その次は、また失敗した。
さらに次も。
動こうと思った瞬間には、もう遅い。
何度も失敗する。
足がもつれる。
身体が先に動きすぎる。
相手との距離を見失う。
たった一つの動きを覚えるだけでも、思っていたよりずっと難しい。
「……武技って難しいな」
「今さら?」
「今さら」
二人で笑った。
◆
隣では莉奈と白石も同じ練習をしていた。
「白石、今の速くない?」
莉奈が言う。
「莉奈がさっきより動けるようになってる」
「ほんと?」
「ああ」
「やった!」
莉奈が嬉しそうに笑う。
「じゃあ、もう一回!」
「いいぞ」
二人はすぐに次の練習へ入る。
莉奈は相手との距離を取るのが上手い。
風属性による身体操作の補助もあるのだろう。
ほんの少し身体を傾けたり、踏み込む方向を変えたりするだけで、位置が変わる。
白石は白石で、動きに無駄が少ない。
槍を扱う経験もあるからか、間合いを取るのが上手い。
「二人とも上手いな……」
俺が呟くと、蓮が言った。
「悠真も最初よりは良くなってるぞ」
「ほんとに?」
「ほんと」
「でも全然できない」
「そりゃ数日でできたら苦労しないだろ」
「それもそうか」
俺はもう一度棒を握った。
その時。
「朝倉」
声をかけられた。
振り向く。
美月先輩だった。
「はい」
「今の練習、どうだった?」
「難しいです」
「そうだね」
美月先輩は少し笑った。
「でも、一回できたでしょう?」
「……はい」
「なら、それをもう一回できるようにしてみて」
「はい」
「相手の動きを見るのは、最初は全部見ようとしなくていいよ」
「全部?」
「肩でも足でもいい。自分が一番見やすいところを一つ決めて、そこから相手の動きを読む」
「なるほど」
「慣れてきたら、少しずつ見る範囲を広げればいい」
美月先輩はそう言ってから、少し考えるように俺を見る。
「あと、今は反応しようとして身体に力が入りすぎてる」
「力……」
「うん。動こうとする瞬間に身体が固まってる」
「……分かります」
「だから、最初は『避けよう』じゃなくて、『見る』だけ意識してみて」
「見るだけ?」
「そう。避けることまで考えると遅れるから」
「分かりました」
「じゃあ頑張って」
美月先輩はそれだけ言って、別の一年生のところへ向かっていった。
特別扱いされたわけじゃない。
他の一年生にも同じように声をかけている。
それでも。
俺は少しだけ嬉しかった。
「……よし」
棒を握り直す。
「見るだけ」
蓮が笑う。
「じゃあ、もう一回やるか」
「ああ」
◆
今度は、蓮がゆっくりと近づいてくる。
俺は肩を見る。
余計なことは考えない。
避ける。
攻撃する。
勝つ。
そんなことは考えない。
ただ見る。
肩が動く。
足が動く。
俺も動く。
今度は少しだけ自然に身体が動いた。
「お」
蓮の攻撃を避ける。
「今のいい」
「……できた」
「できたな」
俺は思わず笑った。
でも。
次の一回では、また失敗した。
「なんでだよ!」
「それが普通だって」
「さっきできたのに!」
「一回できたからって、毎回できるわけじゃない」
「厳しいな……」
「でも、そのうちできるようになる」
「……そうだな」
俺は頷いた。
不思議と嫌ではなかった。
失敗した。
でも、さっきよりは何が悪かったか分かる。
それだけでも昨日までとは違う。
◆
その後も練習は続いた。
距離を取る。
近づく。
相手を見る。
身体を動かす。
攻撃を受ける。
失敗する。
またやる。
何度も繰り返しているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
「はい、今日はここまで」
隼人先輩の声が響く。
「お疲れ」
「ありがとうございました!」
全員で挨拶する。
俺はその場に座り込んだ。
「疲れた……」
「今日は結構動いたからな」
蓮も隣に座る。
莉奈が水を飲みながらやってきた。
「悠真、今日どうだった?」
「難しかった」
「私も」
「でも、水野は結構できてたじゃん」
「まだまだだよ」
莉奈は笑った。
「白石の方が上手いし」
「経験の差だろ」
白石が言う。
「お前も最初より良くなってる」
「ほんと?」
「ああ」
白石は少しだけ笑った。
「昨日よりは」
「よし」
莉奈が小さく拳を握る。
「じゃあ明日は今日より上手くなる」
「俺も」
俺もそう言った。
その時。
「いいじゃん」
隼人先輩が笑った。
「その調子」
「はい」
「武技は、一日で劇的に強くなるもんじゃない」
隼人先輩が俺たちを見る。
「昨日できなかったことが、今日できるようになる。今日できなかったことが、明日できるようになる」
「……」
「そうやって積み重ねていけばいい」
俺は黙って頷いた。
武技を始めて、まだ数日。
俺は弱い。
蓮にも負ける。
白石にも技術で負ける。
莉奈にも動きで負けることがある。
先輩たちとの差なんて、もっと大きい。
だけど。
今日、一つだけできた。
相手の動きを見て、先に動けた。
それだけ。
たったそれだけだけど。
「……明日もやろう」
俺は呟いた。
「何?」
莉奈が聞く。
「いや」
俺は笑った。
「明日も頑張ろうって」
「もちろん」
莉奈も笑う。
蓮も立ち上がる。
「じゃあ帰るか」
「うん」
白石も鞄を持つ。
四人で体育館を出る。
外はもう夕方だった。
校舎の窓には、夕日の光が差し込んでいる。
廊下を歩いていると、まだ部活動へ向かう生徒たちとすれ違った。
吹奏楽部の楽器の音。
運動部の掛け声。
どこかの教室から聞こえてくる笑い声。
入学したばかりの頃は、全部が知らないものだった。
今は少しだけ違う。
俺にも、放課後に行く場所ができた。
そこで待っている人たちがいる。
まだ名前を覚えたばかりの先輩もいる。
少しずつ話せるようになってきた仲間もいる。
そして。
学校でくだらない話ができる友達もいる。
高校生活が始まって、まだ一週間も経っていない。
それでも。
毎日は少しずつ形になってきている気がした。
◆
校門へ向かう途中。
グラウンドから大きな声が聞こえた。
「おーい!」
見ると、高橋が野球の練習をしていた。
向こうも俺たちに気づいたらしい。
「朝倉!」
「高橋!」
「今日も武技?」
「ああ!」
「どうだった?」
「難しかった!」
「俺も今日、打撃で全然ダメだった!」
「高橋でもダメな日あるのか?」
「あるに決まってんだろ!」
高橋が笑う。
「でも、明日またやればいいだろ!」
「……そうだな!」
「じゃ、また明日!」
「ああ!」
高橋はグラウンドへ戻っていった。
俺たちはその背中を見送る。
「なんか、いい友達できたな」
蓮が言った。
「うん」
俺も頷く。
武技部には武技部の仲間がいる。
教室には教室の友達がいる。
それぞれの場所で、それぞれ頑張っている。
俺も。
俺の場所で頑張ろう。
まだ弱い。
まだ何もできない。
でも。
昨日より今日。
今日より明日。
少しずつでいい。
そう思いながら、俺たちは帰り道を歩いた。
高校生活は、まだ始まったばかりだった。




