4.弟子
結論から言ってしまえば、真っ黒の男はこの町に隠れる前に見ていた彼とまるっきり同一人物だった。変わったのは持っている杖くらいなものだろう。最後にあったのは半年ほど前だろうから、髪の長ささえ変わっていないところをみると小まめに維持を施しているらしい。
昨日会って、今日またあったような、新鮮味に欠ける再開となった。
「アナタは…」
ふと口をついて出そうになった言葉を、すんでのところで仕舞い込んだ。こんな緩やかに再開の挨拶を交わしている暇はないのだ。お互い。
「――わたしが、なんです」
と思ったのになぜ聞いてくる。
言いかけて止めた言葉が気持ち悪かったらしく、言葉の続きを待っていた真っ黒の男は続きを促した。
最近気を利かせては玉砕することが多い気がする。気の利かせ方が悪いのか、周囲が気の利かない連中が多いのか。どっちだろう。たぶん両方だろうな。
「いや? 変わらないなと思ってさ」
髪の長さ云々を話すと、話が余計ややこしくかつ長くなると思ったので、簡潔に話した。相変わらず表情に変化のない美しい顔≪かんばせ≫が、そうですか、といったん話を打ち切った。
沈黙が流れる。真っ黒の男は口数が多い方ではないから、沈黙には慣れているが、居心地のいいものではないのは確かだ。
早々にやることやって出て行って貰おうと、狭い部屋の入り口から、真っ黒の男のいる出窓の壁の側面に設置された机に近づいた。
引き出しに手をかけ、お目当てのものを取り出した。
ここ何日か寝ずに書き溜めた、悲運なお嬢様の物語。その原稿である。真っ黒の男はこれを求めてわざわざこの北はずれの小さな町にやってきたのだ。
しかし、彼は編集者でも私の小説のファンでもない。
「ありがとうございます。お預かりします」
詰めるほどの間もなかったが、真っ黒の男はこちらへ歩み寄り、ワタシから悲運なお嬢様の原稿を受け取った。
これは小説ではないし、彼は町娘の創作小説になんか興味はなかった。これは今から起こる歴史の一説であり、ワタシは平凡な町娘にはなれなかった。
原稿を仕舞い込むと、真っ黒の男はワタシの前にしゃがみこんだ。まぁ、なんだ、アレだ。現代でもプロポーズ時などに使われる、忠誠のポーズ、騎士のポーズ。片膝を立てて、真っ黒の男は相変わらず何を考えているかわからない表情で、ワタシの手を取った。
「お師匠様。戯れはもうお止しください。あなたがいない間、どれだけ首都が混乱に陥ったか。貴女はそのことを理解しておられないのです」
「混乱ってね、アナタ。ワタシはもう混乱が起きるほどあの国には関わっていないでしょ」
「いいえ。いるだけで、その存在が大きな影響を与えるのです。あの王が率いる微妙なバランスで保たれた政治を影で支えておられるのはお師匠様なのです」
本当にそう信じきっている口調で、真っ黒の男はワタシの手を片手で包み込んだ。体格差は認識していたが、手の大きさもここまで違うのか。
バスケットボール片手でつかめるなこりゃあ――と、関係のないことを考え込んでいると、お師匠様、と咎めるわけではないが、注意を促す声で言われた。
「なぁに」
「―――何かご不満があるのでしたら、わたしにお申し付けください。きっと気を晴らして差し上げます」
「ないよ。べつに。ただ、放っておいてほしいんだ」
痛くはないが、愛撫を楽しむ為ではない、相手の動きを捕捉するための接触を、ワタシは居心地悪そうに揺らした。
お師匠様、と真っ黒の男がワタシを呼ぶ。
ワタシは、何もかもを無責任に捨ててきたわけではないと、胸を張って言える。責務ともいえる仕事を一応全うし、親しくしてもらっていた友人、知人たちにも声をかけ、いつ再開するかもわからない別れを惜しんできた。ワタシが居なくても元々職場の働きは関係なく動いていたけれど、やはりいるといないでは変化のある部署もある。それに対してもまっとうな手段で対応し、そのことは現場の同僚たちにも賛同を得てのことである。
ワタシはあえて、真っ黒の男が騎士だかプロポーズだかの姿勢を取り出してからそらしていた目線をかっちり合わせてみた。
そうだよ。ワタシは十分仕事をした。その成果は今の時勢を見てもらえば確証に足りえるだろう。
北はずれの小さな町、クワンサー。
ワタシがあっちからこっちに降り立ったころには、こんなに安全で平穏で、人々が活気にあふれる姿なんて、想像にもできなかった筈だ。この町は、ワタシの成果の結晶ともいえた。その結晶に、なぜワタシが乗っかっちゃいけないのか、皆目見当がつかない。
「アナタはもう、ワタシをお師匠様なんて呼ばなくていいんだよ」
ワタシはワタシのしがらみを、一人の力で乗り越えてきたとは言わない。けれど、ワタシは確かにそれを乗り越えたのだ。
静かに燃える黒い瞳。無表情だけれど、そこに無気力や惰性の文字は似合わず、冷たく鋭い。自らの信念が凝り固まった形が、この変化のない形なのだろう。
「ワタシはアナタにすべてを押し付けて出て行った。そう思われてもしょうがないけど、そうじゃないことはアナタも知ってるでしょ? ワタシがアソコで必要とされている期間が終わったんだ。皆新しい人を期待してる」
喜怒哀楽、少しの反応さえ返さない真っ黒の男を見つめながら、ワタシは少し気が晴れたような気さえしていた。
職場や、真っ黒の男のテリトリーでは、きっとこんな話黙って聞いてくれなかっただろう。話を遮り、別のものに興味を向けさせようとする。ワタシは、彼に伝えたかった半分も言えないまま、逃げるようにあそこから出て行ったのだ。