2.冷たい目
もう何時間もそのままでいたような感覚だった。
手から血の気が引き、体は冷たくがちがちに固まっている。まだ気づかれていないのかと思おうとしたけれど、それには無理があった。木を隔ててその真後ろに、この光の持ち主がいることは確かだったし、何よりさっきから下種な男たちの笑い声も聞こえず、あたりはしんと静まり返っていた。この光さえなければ、ここには自分以外誰もいないんじゃないかと思うくらい、不自然なくらい人の声も足音も聞こえない。
おかしい。音だけじゃなくて、周りには人の気配さえしなかった。かすかな布切れの音もしない中で、そのまま静かにしていればなんとかやり過ごせるんじゃないかと、かすかな希望を持ち、私は動かず深く浅く、途切れないように静かに深呼吸を繰り返した。
静穏のなか、目をつぶって膝の間に顔を押し込め、ますますうるさくなる心臓の音を聞いていた。このままどうか、通り過ぎて……。
「―――もう、鬼ごっこはお終いですか」
冷たく低いバリトンが響いた。
今まで何の音もしなかった森の中に、枯葉を踏む足音がやけに大きく感じた。
次の瞬間、木に遮られていた私の顔に光があてられる。体の真横に、あの男がいるんだ。ひっ、と小さく悲鳴を上げ、反対側に体を倒した。遠くに行かなければ。少しでも。
もう逃げれるなんて思っていなかったけれど、この男から逃げる隙を与えてくれた少年のためにも、ここで諦めるわけにはいかなかった。
それ以上動かない体をそのままに、黒いブーツから視線をどんどん上に移す。全身真っ黒の、美しい顔の男。
「…かくれんぼにも付き合って差し上げたいが、あいにく、次の予定が差し迫っているもので」
丁寧な口調だが、こちらへの配慮や気遣いは一切伺えない、高圧的な物言いだった。人に命令する事に慣れている人のしゃべり方だ。
目の前の男は、こんな状況にあっても、見惚れるほどの美丈夫だった。先ほどからこちらを見つめる目にはなんの感情も浮かばない。この地で初めて見た、自分と同じ黒い瞳に、黒い髪。しかし、親近感を寄せるには状況があまりにも悪すぎた。
まだ一日も経っていない、つい数時間前、この男は私や私の妹に手を掛けたのだ。
「どうして…、なんで…」
それ以上の言葉が紡げず、先ほどから微動だにしない男を見上げた。
なぜ私が、妹が殺されなくちゃいけないんだ。私を助けようとしてくれたあの子だって、もうすぐ首都に行って騎士見習いになるんだと、言葉少なに話してくれたのに。ただ静かに暮らしていたかっただけなのに。
「知る必要はありません」
「あ、っあの子はどうなったの、男の子、それに、私の妹、は………」
「…ふたりにも、後で会えるでしょう」
喉からしゃっくりのようにひきつった声が漏れる。それを抑えて、問いかけても、真っ黒な男は何の反応も示さず、答にもならない答で返した。
いや、違う。わかろうとしていないだけだ。
妹は外傷のほとんどないまま、おそらく魔法の攻撃を受けて、見た目はきれいなままで、私の腕の中で息を引き取った。
まるで眠ってるんじゃないかって、きっと、時間がたてば起きるんじゃないかって思ったけど、少年は呆然としている私を連れて、この男の攻撃をよけながら逃げたのだ。走って逃げているときに、ふわっと後ろから風がふとももを撫でたと思ったら、いきなり声を上げて少年が崩れ落ちた。つないでいた手にひかれ、私もその場に倒れこむと、少年の、足が、右足が、片方なくて。
右足の残ったふとももをつかんで、少年が唸って、転げまわっているのが見えた。急いで近くに寄ろうとすると、また先ほどの風がふわっと首をかすめる。
ぎゃ、と声を出した少年の額に、また新しく傷ができていた。その延長線上の前髪もすっぱり切られている。
何かが彼を攻撃しているのだ。恐ろしくなって必死に彼の上に覆いかぶさり、盾になろうとしたが、また、ふわっと今度は二の腕を風がかすめる。
その瞬間、自分の下にいた少年がうめいた。二の腕にまた新しい裂傷ができていた。私は盾になることもできないのか。怖くて情けなくて、少年に縋り付いた。
本当なら、立ち向かわなければいけないのに。彼を連れて逃げなければいけないのに。私は恐怖で動けなかった。少年が妹のようにこのままここで死んでしまうと思った。
自分の下で唸っていた少年が、不意に顔をあげた。
「逃げろ………。あいつが来る。お前ひとりで………」
後ろには真っ黒な男が、一人立っていて、こちらを見ていた。少年は男を見ながら、目をそらさず、逃げろ、と繰り返した。
そんなことは出来ないと、少年に張り付いていればよかった。どうせ死ぬのなら一緒に死にたかった。必死で森の中に逃げ込んでも、体中泥だらけで、途中で靴の脱げた足は傷だらけだった。一人ぼっちでこんな恐ろしい目をした男に、殺されるくらいなら、あそこで死にたかった。
ほとんど絶望に浸りながら、止めることのできない涙を恐怖で見開いた瞳から流し続けた。そんな私を真っ黒な男はただ感情のない黒い瞳で見下ろしていた―――――。
「いやぁ~、相変わらずネッペリおじさんの作るフライは最高だね!」
「はっはっはっ、おうともよ! 俺の作るフライは首都一だぜ。なのに最近来てくれなかったじゃないか、嬢ちゃん。さては男でもできたかなぁ?」
にやにやと食材を扱う手は止めずに、熟練の確かな技を見せつけつつおっさんはこちらを見てきた。
まったく井戸端会議開いてるおばさん連中並みに恋愛沙汰が好きなおっちゃんだ。顔見知りの人全員の恋愛事情を聴きださなければ気が済まないのだ。ワタシは曖昧な笑いを返し、『ネッペリ特製フライ』を口に放り込んだ。うううぅん、この安っぽい油の味、効きすぎた塩がダンダン芋のホクホクした触感と甘さをサポートして、なんて素敵なハーモニー――――。
一本ずつにこにこしながら食べるワタシに、「まだ色気より食い気かねぇ、ネンネちゃんは」と笑いながらおっさんは新しい客の対応に移った。聞こえてないとでも思ったのか、それとも聞こえるように言ったのか、失礼なビール樽腹である。
いつかおっさんが「うちのフライほどビールが合う食べ物はないわな!!」と豪語していたが、その発言通り、フライはビールにもよく合うのだ。アルコールとフライをセットにして食べると、フライの塩辛さを薄いビールで流し込んでこれまたうまいのだ。
いかんせんワタシはアルコールに強くないので、あまり飲まないのだが。フライは単品でも十分すぎるほどおいしいから、問題はない。