第1話 異世界に来たら、まず営業をする羽目になりました
営業マンにとって、笑顔は武器である。
たとえ取引先から理不尽な要求を突きつけられても、上司から達成不可能なノルマを押しつけられても、決して笑顔を絶やしてはならない。
笑顔は相手の警戒心を解き、交渉を円滑に進め、時には怒り狂った顧客を落ち着かせる。
もっとも、刃物を突きつけられたときにも有効なのかどうかは、入社四年目の小日向奏斗も知らなかった。
少なくとも、日本では試したことがない。
「兄ちゃん、笑ってんじゃねえぞ」
「い、いえ。決してそういうつもりでは……」
「だったらなんで笑ってんだ、ああ?」
「申し訳ございません。職業病でして……」
奏斗は深々と頭を下げた。
その首筋には、よく研がれた短剣が押し当てられている。
目の前には、筋骨隆々とした大男が一人。背後には、いかにも人相の悪い男たちが三人。全員が革鎧を身につけ、腰には剣や棍棒を提げていた。
どう見ても、普通の取引先ではない。
そもそも、ここは日本ですらなかった。
*
小日向奏斗、二十六歳。
東京都内の企業に勤める、ごく普通の営業マンである。
ただし、勤務先が普通ではなかった。
朝八時出社、終電帰宅は当たり前。休日出勤は自主的なものとされ、残業代という言葉は社内で禁句に近かった。
先月、同期が退職した。
先々月、後輩が退職した。
その前の月には、直属の上司が突然いなくなった。
人事部に尋ねたところ、「新しい人生を歩み始めた」と説明された。退職したのか、転職したのか、それとも何か別の事情があったのか、奏斗はいまだに知らない。
そんな会社で四年間働き続けた結果、奏斗は一つの境地に達していた。
大抵の理不尽には、笑顔で対応できる。
その日も、夜遅くまで取引先への提案資料を作っていた。
ようやく会社を出たのは、日付が変わる少し前だった。
駅へ向かう途中、妙な眩暈に襲われた。
視界が白く染まり、足元の感覚が消えた。
そして次に目を開けたとき、奏斗は見知らぬ街の裏路地に立っていた。
石畳の道路。煉瓦造りの建物。遠くから聞こえる馬車の車輪の音。
通りを行き交う人々は、マントやチュニックを身につけている。中には腰に剣を提げた者までいた。
奏斗はしばらく、その光景を眺めていた。
「……あの、これ、どちらの撮影現場でしょうか」
返事はなかった。
スマートフォンを取り出したが、圏外だった。
地図アプリも使えない。
駅もコンビニも見当たらない。
代わりに、道端では大きなトカゲのような生き物が荷車を引いていた。
「……海外、ですかね」
現実逃避も、ここまで来ると立派な才能である。
ともあれ、まずは状況を確認しなければならない。
奏斗は通行人に道を尋ねようとした。しかし、スーツ姿の自分を見た人々は、なぜか不審そうに距離を取る。
ようやく話しかけられそうな相手を見つけたところで、今度は背後から肩をつかまれた。
「おい、兄ちゃん」
振り返ると、そこには熊のような大男が立っていた。
「見ねえ顔だな。どこの組の者だ?」
「えっ、組、ですか?」
「とぼけんな。さっきからうちの荷馬車を嗅ぎ回ってただろうが」
「いえ、あの、荷馬車というのは……」
「こっち来い」
有無を言わさず、路地裏へ連れ込まれた。
そして現在に至る。
*
「もう一度聞くぞ。お前、灰蛇団の回し者か?」
大男が低い声で尋ねた。
「ハイダダン……?」
「灰蛇団だ! 知らねえとは言わせねえぞ!」
「申し訳ございません。存じ上げなくて……」
「てめえ、俺を馬鹿にしてんのか!」
「滅相もございません!」
奏斗は反射的に頭を下げた。
まずい。
非常にまずい。
何がまずいかといえば、相手が何に怒っているのか、まるで分からないことだった。
取引先からのクレームで最も厄介なのは、問題の所在が不明確な場合である。
こちらに落ち度があるなら謝罪できる。商品に問題があるなら交換できる。納期が遅れたなら代替案を提示できる。
しかし、何を解決すればいいのか分からなければ、交渉のしようがない。
奏斗は慎重に口を開いた。
「あの、差し支えなければ、まず詳しいお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「……あ?」
「こちらとしても、状況を正確に把握したうえで、ご納得いただける対応をしたいと考えておりますので」
大男が眉をひそめた。
背後の男たちも顔を見合わせる。
「おい、ガルドの兄貴。こいつ、何言ってんですかね」
「知らねえ。だが、妙に落ち着いてやがる」
落ち着いてなどいない。
奏斗の心臓は、今にも肋骨を突き破りそうな勢いで暴れていた。
ただ、顔だけは笑っていた。
四年間の営業生活が生んだ、悲しい条件反射である。
「……いいだろう」
ガルドと呼ばれた大男が、短剣をわずかに引いた。
「今朝、俺たちの荷馬車が襲われた。積荷を丸ごと持っていかれたんだよ」
「それは……大変でしたね」
「大変どころじゃねえ! ボスに知られたら俺たちの首が飛ぶ!」
「それは文字どおりの意味でしょうか」
「当たり前だろうが!」
「……なるほど」
なるほど、ではない。
奏斗は帰りたかった。
しかし、帰ろうにも帰る場所がない。
ならば、目の前の問題を解決するしかない。
「ちなみに、襲撃されたのはどちらでしょうか」
「東門の外だ」
「積荷の種類は?」
「香辛料と絹織物だ。全部で十二箱」
「荷馬車は何台でしたか?」
「三台だ」
「護衛の人数は?」
「六人。俺を入れりゃ七人だ」
「なるほど。では、荷馬車そのものも奪われたのでしょうか」
「いや、馬車は残ってた。荷物だけだ」
奏斗は小さく頷いた。
話を聞く限り、少々妙だった。
「その襲撃というのは、皆さんが直接目撃されたんですか?」
「……いや」
ガルドが口ごもった。
「俺たちが東門に着いたときには、荷馬車だけが残ってたんだ。護衛の連中は酒場で寝てやがった」
「酒場、ですか?」
「ああ。全員酔っ払ってた。だから灰蛇団にやられたに決まってる」
「なるほど……」
奏斗は考え込んだ。
荷馬車が三台。積荷は十二箱。
護衛は七人。そのうち六人が酒場で寝ていた。
しかし、荷馬車は残されていた。
「ガルドさん。一つ確認してもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「その荷物、最後に確認されたのはいつですか?」
「昨夜だ。倉庫を出るときに積み込んだ」
「倉庫から東門までは、どのくらいの距離でしょう」
「馬車で半刻もかからねえな」
「では、倉庫を出てから東門に到着するまでの間に、どこかへ立ち寄りましたか?」
「……おい、ニコ!」
ガルドが背後の少年を振り返った。
まだ十代後半と思われる、そばかす顔の少年がびくりと肩を跳ねさせる。
「は、はい!」
「お前、昨日の荷運びに付き添ってただろ。どこに寄った?」
「えっと……西の酒場です。護衛の人たちが、ちょっと一杯だけって」
「やっぱり酒か!」
「す、すみません!」
ガルドが怒鳴り、ニコが縮こまる。
奏斗は慌てて割って入った。
「あ、あの! 責任の所在は後ほど整理するとして、まずは荷物の行方を確認しませんか?」
「……どういう意味だ」
「荷馬車が残されていて、護衛の方々も無事だったんですよね。でしたら、必ずしも襲撃とは限らないのではないかと」
「何?」
「その酒場で、荷物を降ろした可能性はありませんか?」
ガルドが目を細めた。
「……続けろ」
「例えば、荷物を一時的に預けたとか、別の馬車へ積み替えたとか。十二箱もの荷物を運ぶには、それなりに人手が必要でしょう。誰にも気づかれずに持ち去るのは難しいと思うんです」
奏斗はあくまで一般論として話していた。
しかし、ガルドの表情が変わった。
「おい、ニコ。昨日、酒場で何か変わったことはなかったか」
「変わったこと……あっ!」
少年が声を上げた。
「酒場の主人が、荷物を裏の倉庫に置いといてやるって言ってました! 雨が降りそうだからって!」
「……なんだと?」
「そういえば、護衛の人たちが積み下ろしをしてたような……」
沈黙が落ちた。
ガルドはしばらく少年を見つめ、それから低い声で尋ねた。
「お前ら、今朝その倉庫を確認したか?」
「……してません」
「…………」
ガルドは天を仰いだ。
「おい。二人、酒場へ走れ。荷物が残ってるか確かめてこい」
部下たちが慌ただしく駆け出していった。
残された奏斗は、ようやく短剣が首筋から離れたことに気づいた。
助かった。
少なくとも、今すぐ殺されることはなさそうだ。
十分ほどして、部下の一人が息を切らして戻ってきた。
「あ、兄貴!」
「どうだった!」
「ありました! 十二箱、全部!」
「…………」
「酒場の親父が、いつ取りに来るんだって怒ってました!」
ガルドは両手で顔を覆った。
ニコはその場にへたり込んだ。
奏斗も、思わず安堵の息を漏らした。
「よかったですね。無事に見つかって」
心からの言葉だった。
しかし、ガルドは笑わなかった。
むしろ、恐ろしいものを見るような目で奏斗を見つめていた。
「……お前」
「はい?」
「最初から分かってたのか?」
「いえ、今のお話を伺って、可能性の一つとして……」
「俺たちが灰蛇団の仕業だと思い込んでることも?」
「それは、まあ……最初にそうおっしゃっていましたので」
「……なるほどな」
ガルドは腕を組んだ。
この男は、刃物を突きつけられても笑っていた。
しかも、こちらの失態を見抜きながら、あえて責めることなく、質問だけで真相へ導いた。
つまり、自分たちの間抜けさを最初から承知していたということだ。
それでいて、まったく動じていない。
底が知れない。
「兄貴……」
ニコが小声で囁いた。
「この人、すごくないですか?」
「ああ。とんでもねえ奴かもしれん」
奏斗には、二人が何を話しているのかよく聞こえなかった。
ただ、問題が解決した以上、これで解放してもらえるだろう。
そう思って、改めて頭を下げる。
「それでは、こちらの件は無事に解決ということで……」
「おう。助かったぜ、兄ちゃん」
「いえいえ、とんでもございません。それでは私はこれで……」
「待ちな」
ガルドが、奏斗の肩をがっしりとつかんだ。
「ぜひ、うちのボスに会ってもらいてえ」
「……はい?」
「これだけ頭の切れる奴を、そのまま帰すわけにはいかねえからな」
奏斗の笑顔が引きつった。
「あの、私、ただの営業マンなんですが……」
「エイギョーマン? なんだそりゃ。どこかの組織の役職か?」
「いえ、職業です。物を売ったり、お客様とお話ししたり……」
「なるほど。交渉専門の人間ってわけか」
「まあ、そういうことになりますけど……」
ガルドは満足げに頷いた。
「決まりだな!」
「え、何がですか?」
「ボスに紹介してやる!」
「いや、あの、お気持ちだけで……」
「遠慮すんな! うちのボスは人を見る目がある。きっと気に入るぜ!」
「いえ、本当に、遠慮しておきたいのですが……」
「おい、ニコ! この兄ちゃんを本部まで案内しろ!」
「はい、兄貴!」
話がまったく通じない。
前の会社の上司を思い出した。
あの人も、人の話を聞かないことで有名だった。
しかし、少なくとも刃物は持っていなかった。
奏斗は二人に挟まれながら、石畳の通りを歩き始めた。
やがて、大きな建物が見えてきた。
重厚な石造りの三階建て。正面には立派な看板が掲げられている。
そこには、翼を広げた黒いフクロウの紋章が描かれていた。
「ようこそ、黒梟商会へ!」
ニコが嬉しそうに言った。
「こくろう商会……?」
「この街じゃ知らねえ奴はいねえ。裏社会でも指折りの組織だぜ!」
「……裏社会?」
奏斗は立ち止まった。
ニコが不思議そうに振り返る。
「知らなかったのか? うちは犯罪組織だぞ」
「…………」
犯罪組織。
その四文字が、頭の中でゆっくりと意味を結んだ。
そして奏斗は、人生で初めて、以前の勤め先に戻りたいと思った。
いや。よく考えれば、あそこも大概だった。
どちらがましかと問われれば、まだ判断材料が足りない。
そんな自分の思考に気づいて、奏斗は少しだけ悲しくなった。
「さあ、行こうぜ。ボスがお待ちかねだ!」
ガルドが背中を叩いた。
奏斗は、引きつった営業スマイルを浮かべたまま、黒いフクロウの紋章を見上げた。
異世界に来て、まだ一日も経っていない。
それなのに、もう就職先が決まりそうだった。
しかも、犯罪組織に。
「……せめて、労働条件だけでも確認させてもらえませんかね」
その呟きに答える者は、誰もいなかった。




