観察記録7_舞台(1)
「自分はルルセラの補佐官だ。それ以外の何者でもない。」
――あの日から一体何度、この呪文を頭の中で唱えただろう。
そうでもしなければ、色んなことが上手くできなくなりそうだった。今ほど、自分の至らなさを思い知らされたことはない。今ほど、マスターを恨んだことはない。
マスターが悪いわけではない。あの人だって自分の職務を全うしているだけだ。なのに、腹が立つ。何故いちいち連絡を寄越してくるのだ、と苛々する。連絡さえこなければ、もう少し呪文がうまく働いて、心安らかでいられるのに。そんな風に思い悩む自分は、諜報員として本当に至らない奴だと思う。苛々する。
とにかく、あの日から今日までの数日間は、ずっとそんな風だった。ルルセラのために働き、時々会話を交わし、胸中の暗雲のようなものを必死で振り払っては、マスターに横槍を入れられる。
それでも、その感情の波濤の全ては、少なくとも仕事中は、胸の奥に押し込めておけた。しかし、春祭の当日ともなると、それもいよいよ難しくなってきた。
今日まで何事もなく過ごせたせいで、今日何かが起きる可能性が高いだろうと、身構えてしまう。一体、依頼人は、何を思ってあんな依頼をしたのだろう――などという疑問は一番のタブーのだから、せめてそれについては深く考えないようにして、ただ、自分の上官たる人を全ての危険から守ることに徹しようと、心に決める。
とにかくそれで、頭がいっぱいで、基本的なことが頭から抜け落ちていた。つまり、彼女がカリスマ的なアーケストであるということを。
身支度を済ませて現れたルルセラは、呆気に取られるくらい、美しかった。綺麗にまとめあげた髪に生花を散らし、趣向を凝らしたドレスを身に纏っている。カラフルなのに、うるさくない。むしろ、彼女のはんなりとした笑顔に、よく似合っている。
「行きましょうか」
にこやかに声を掛けられて、そういえばこういう人だったと思い出した。
家での振る舞いがどうであれ、ルルセラは、プロだった。プロのアーケスト。一歩家を出ればおしとやかになるし、会場に着けば麗しさを増す。羨望の眼差しに、余裕の笑顔を返していた。
それで隣に立つ補佐官に、「ドゥブル様は、どんな催しをするのかしら。楽しみね」なんて囁きかけてきたりする。今までそんな話をしたことなどなかったのに。
実際ルルセラは、ドゥブルのことをどう思っているのだろう。仮面を貼り付けた今の状態では、まるで読み取れそうもなかった。
「そうですね」
俺も、何てことないような調子で、相槌を打つ。
ドゥブル……全ての元凶たるアイツの催しが始まるまで、あと僅か。その後には、ルルセラの番が続く。
全て終わるまで、気は抜けない。ドゥブルがステージに細工を仕掛けたりしないか、よくよく見張っていなければならない。今のところ、問題はなさそうに見えるが。天候も良好、雨の降る気配はなし。異臭などもなし。
「緊張しているんですか?」
ふいにルルセラが、問うてきた。
「えっ、俺がですか?」
どちらかといえば、ルルセラの方が緊張して然るべき場面のように思うが、何故そんなことを聞いてくるのだろう。
「あんまり険しい顔をされると、こっちも緊張してくるのですが」
少し、いつものルルセラの表情が垣間見えた気がした。どうやら俺は、相当不穏な顔をしていたらしい。申し訳なくなる。意識して、笑顔を浮かべる。
「緊張だなんて、そんなまさか。少し、眩しかっただけですよ。私は、ルルセラ様の努力も、実力も、誰よりも知っていますから。あとはここで、大手を振ってその勇姿を見届けるまでです」
そう返すと、ルルセラはにこりと笑って頷いた。
間も無く、ステージに司会者が現れた。口上を述べる度、取り囲む観衆たちが歓喜の声を上げる。それが済むと、司会者が引っ込み、入れ替わるように煌びやかな男が現れる。黄色い声援を浴びて、美しく微笑むこの男こそ――ドゥブル・ジャンだった。
ドゥブルが恭しく腕を広げると、知らず知らずのうちに目に力が入った。
そして――
虹が出た。キャーッとまた、黄色い声が上がる。
キャー、キャー、キャー……
疑いようもなく鮮やかなショーを前に、音だけがだんだんと遠く聞こえていくようだった。なんだ、これは……。
虹が形を変えて飛び立つと、もはや、表情を取り繕うなんて、不可能だった。
アイツ……あろうことか、内容を被せてきやがった。完全に、ルルセラを潰しに来ている。どこまで汚いんだ。
わあああと声が上がり、盛大な拍手が響き渡る。その中で、
「じゃあ……行ってくるわね」
ルルセラが、そっと俺の隣を離れた。
上手く見送ることができなかった。できるはずもなかった。ルルセラの顔を見ることも、自分の表情を取り繕うことも……とてもじゃないが、上手くできそうになかった。
歓声と拍手が落ち着くと、ステージにルルセラが現れた。にっこりと微笑み、手をかざす。
そして、本当に美しい、虹がかかった。
会場は少しの歓声と、どよめきに包まれた。
こちらが、本物なのに。ドゥブルが見せたものは、けばけばしいネオンサインに他ならなかった。ただ、高出力に任せただけ。華やかに空を照らし上げたが、それだけだ。なのに。
何故ルルセラの方が、二番煎じのような扱いをされなければならないのだろう。
ルルセラの方が、ずっとすごい。あんなに嫌がっていても、本物のアーケストだ。オリジナルの構築魔法と、自身を一体化させて魅せる、アーティスト。こんな場面でも最高のパフォーマンスと、最高の笑顔を忘れない。
暖かな風と共に、春告鳥が過ぎ去った後、誰よりも大きく、拍手をした。ルルセラがこちらを見て微笑んだ、ような気がした。
自分はルルセラの補佐官だ。それ以外の何者でもない――もしそうでなかったとしても、ルルセラの努力も実力も、俺が、誰よりも知っている。




