観察記録16_個人的希望(2)
まずい、と慌てて手を動かし始めるが、影はなかなかどかない。なんか変だな、と思って手を止めると、声が降ってきた。
「あの、アルト」
ぱっと顔を上げると、ルルセラがこちらを見下ろしていた。怒っているような、困っているような、複雑な表情だった。ぐるぐると考えながら「はい」と答える。すると、
「これ」
目の前に、白百合のような拳がずいと差し出された。ほんの一瞬、ひょっとして殴られるのだろうか、という思いが頭をよぎったが、もちろんそれが現実になることはなく、鼻先でぴたりと止まった。そこに黒い布の塊のようなものが握られている。というよりむしろ、握りつぶされている。拳の左右から黒羽根のように扁平な布が飛び出ていて、全容は見えない。一体、何なのだろうか。
「手を出して下さい」
「……はい」
大人しく両の手のひらを差し出すと、固く閉じられていた拳が花開き、その黒い何某がぽとりと俺の手の内に落ちてきた。――全貌が明らかになって尚、これが何なのかわからず、首を捻った。
「これは、何でしょうか」
「腹巻きです」
当たり前でしょう、と続きそうな口調で言われた。しかし俺にしてみれば、これが腹巻きという事実も、俺が腹巻きを渡されているという事実も、全くもって理知の及ばない話であった。
「腹巻き、ですか……」
「いいから、使って下さい」
またしても、きっぱりと吐き捨てられた。俺が使うためのものなのか……何故?
「ありがとうございます……?」
と返すほか、なかった。
ルルセラは、すぐには立ち去らなかった。変な間が空いた。何か尋ねた方が吉なのだろうか……。そう思った時、ルルセラの方が先に、「あの」と口火を切った。
「実は、打ち上げの幹事の大変さは、私も少しくらいは知っています。だから、店を決めてもらうお駄賃としてこれを渡そうと思っていたのに、さっきは渡しそそびれました。……できれば使って下さい。今すぐ」
「は……ハイ」
何がなんだかわからないが、ルルセラが圧のある目でじっと見つめてくるので、慌ててその腹巻きとやらを持ち上げる。何分使ったことがなく、特段知識があるわけでもなかったので少々不安があったが、縦一直線に走るジッパーを見つけて、なるほどこれを開けて輪を開いたあと、腹に巻いて、再度ジッパーを閉じれば良いのだな、と理解した。
瞬時に取り掛かる。開けて、巻いて、閉じて、ルルセラを見上げる。
「ぷっ」
いきなり吹き出された。ひょっとしてからかわれたのだろうか。あるいは、俺のやり方が間違っていたのだろうか。変な汗が出てきた。
「ジャケットは、外に出した方が良いと思いますよ」
笑いを堪えるようにして言われて、頬が熱くなった。慌てて、ジャケットを引っ張り上げる。腹巻きは、シャツとジャケットの間に収まり、色んな意味で違和感が和らいだ。くそ、俺としたことが、勉強不足だった。こんな変な場面で、こんな恥を晒すなんて。
熱が冷めるのを待ってから顔を上げると、ルルセラはもう、ずっと向こうの方にいて、仕事人の顔に変わってしまっていた。くそ……何をちんたらやっているんだ、俺は。
ため息をついて、今度こそ真面目に仕事に向き合った。
そして、すぐに気が付いた。
ずっと重だるかったみぞおちが、嘘みたいに軽くなっていた。
それはどうも、ルルセラが笑ってくれたから、とかそういう精神的な理由だけではないようだった。腹巻きに、魔法がかけられているのだ。
偶然とも思えなかった。かと言って、不調を表に出したつもりもなかったのだが、一体どうして気付いたのだろうか。いつ見ても、そして今見ても、仕事しか目に入ってなさそうだというのに。
ただ、ひとつだけ確かにわかったことは、この慰労会は必ず成功させなければならない、ということだった。




