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観察記録10_不審者

 定時をまわり日が暮れ始めても、

 

「ここで解散でも良いのよ?」

 

 と言われても、俺の意志は変わらなかった。

 

 こんな中途半端なところで帰れるか。

 

 俺が帰った後でルルセラに何かあったら困る。物理的に傷付けられるならまだ良いが――いや、全然良くない。良くないけど、頬を腫らすような傷を付けられたなら、その気になればいくらでも復讐してやれる。でも、俺が気付き得ないような、心の内側を傷つけられてしまったら、困るのだ。きっとルルセラ本人はひた隠しにするだろうし、そうなれば俺は途方に暮れるしかない。

 

 ともかく、今帰るわけにはいかなかった。両手に書籍やら雑貨やらを抱えて、ルルセラの右隣に着いて歩いていた。

 

 その時――

 

 一瞬で、色々なことが起きた。

 

 まず、ルルセラの左側を、びゅんと人影が通り抜けた。

 

 スリだ、と思った。

 

 しかし俺の両手は塞がっていたし、何より隣にルルセラがいた。追えば良いというものでもなさそうだった。

 

 ひとまず目を凝らして走り去る男の姿をしかと目に焼き付けようとした。

 

 そこではっとした。そいつは見知った顔をしていた。

 

 その姿が建物の影に隠れるか隠れないか、見計ったかのようなタイミングで、別の影がまたびゅんと同じ軌道で走り去って行った。かと思えばすぐに、ひょこっと顔を出して戻ってきた。ルルセラの目の前まで。

 

「すみません、犯人は取り逃してしまいました」

 

 そう言って、ルルセラに財布を差し出す。申し訳なさそうな表情、少し乱れたライトブラウンの髪、でも額や首筋に汗のようなものは見当たらない。

 

 一見すると、謙虚で格好良い救世主だった。

 

 でも事実は、絶対に違う。この人は諜報員を束ねる人物――要するに俺のマスターだ。マスターのことは良く知っている。今回のことは、マスターの自作自演に違いない。

 

 けど、今日の外出についてはまだ報告していないはずのに、何故ここにいるんだ?

 

 そして、何のために……?

 

 薄気味の悪い居心地の悪さを感じる。だけど俺は、黙って成り行きを見守るほかなかった。

 

「ありがとうございます、助かりました」

 

 ルルセラが、にこやかに応じる。

 

「何か、お礼をしなければなりませんね」

 

 断れ断れ、と念じる。謙虚な紳士なら固辞するはずだろ、そうだろマスター。その努力が実を結ぶことなどありはしないと察しつつも、健気に念を送り続ける。

 

「でしたら、食事にご一緒していただけませんか」

 

 マスターは、はにかみながら答えた。くそ……。

 

「つまり、その、初対面でこんなことを言って変に思われるかもしれませんが、もう少しだけ、あなたとお話ししたくなってしまったのです」

 

 今目の前にいる男には、美しい女性に一目惚れした謙虚な男、そのものだった。普段の尊大さなど、微塵も感じさせない。大した手腕だ。腹が立つ。全く見習いたいと思えない。

 

 そんな態度を取ったりして、もしルルセラが惚れっぽかったりしたら、どうするつもりなんだ。相思相愛のように振る舞って、時期がきたらポイと捨てるつもりだとでも言うのか? そんなの、ありえないだろ。

 

 というかルルセラは、惚れっぽかったりしないよな?

 

 おそるおそる、隣を窺い見る。

 

 ルルセラは、じっとマスターを見つめていて――そこに惚けたような色が浮かんでいないことに、ひとまずは安心した。

 

 ……よく考えてみたら、そうだよな。ルルセラは大スターだ。きっと、言い寄られることには慣れている。こんなベタな口説き文句で、口説き落とされるような人じゃないか。

 

 とはいえ、問題が全て解消されたわけではない。お礼にかこつけた姑息な誘いを、きちんと捌いてもらわなければならない。

 

「うーん……」

 

 ルルセラは、こてんと首を傾げた。

 

「私の名前を当てられたら良いですよ」

 

 そして、にこっと笑った。

 

 おお!

 

 心の中で勝鬨かちどきを上げた。拍手したい気分だった。俺は、ルルセラを侮っていたみたいだった。俺が思うよりもずっと、ルルセラは「慣れている」。

 

 マスターは今、固まったままルルセラを見つめてはいるが、頭の中はフル回転しているに違いなかった。ここで「ルルセラ」と答えれば、ルルセラと食事が出来る。しかし、怪しいことこの上ない。かの有名な「ルルセラ」嬢だと知りながら、素知らぬ顔で近付いてきたということになるのだから。

 

「ヒントが必要ですか? 三番目の文字はセです」

 

 何とも絶妙なヒントだ。「ヒントを聞いて思いつきました、ルルセラですね!」となる人はなかなかいないだろう。けど、いないとも言い切れない。騙し切れる自信があるのなら、あるいは。

 

 マスターはしばし考え込む素振りを見せた後、眉尻を下げてフッと笑った。

 

「……ルルセラ・レーグス嬢です」

 

 実に潔い答えだった。観念したのだ、ルルセラの全てを見透かしたような目を前にして。

 

 ルルセラはふふん、と笑った。

 

「それじゃあ、食事に行きましょうか」

 

 え?

 

 マスターもぽかんとしている。

 

「良いのですか?」

「良いも何も、約束したじゃありませんか。それに、私はお礼をしなければなりませんし」

 

 ……前言撤回。ルルセラは何も見透かしたりしていなかった。どうしてこの怪しい男に着いて行こうとするのだ。それも、何も聞かずに。

 

「私の行きつけの店で構いませんか?」

 

 ルルセラが尋ねる。

 

「ええ」

「アルトも一緒で構いませんよね?」

 

 マスターが俺を一瞥した。

 

「ええ、もちろん」

 

 腹の中では何を考えているんだか。にっこりと爽やかな笑みを浮かべて答えた。

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