事件の終わり、白影の生き残り
「サラ」
推し声優のイケメンボイスでハッと意識が戻り、その瞬間、碧眼と目が合った。その目が見開かれ、二三度まばたきする。
「良かった、幽霊に戻りましたね」
長い黒髪にシャープな顔立ちをした推しキャラは、いつか見た黒に近い濃紺のローブをはおっていた。あたしの足元には頬を赤く火照らせたナリッサが額に氷嚢をのせて眠っている。苦しそうな息遣いで、熱はかなり高そうだった。
「幽霊に憑りつかれたらこんなことになるんだな」
ノードの足元にいたジゼルがひょいとベッドの上にジャンプし、つんつんとナリッサの頬をつついた。
「あたしのせい?」
「そうですね。サラさんのせいです」ノードが断言する。
「あたしが憑りついたから?」
「サラさんの冷気で体が冷えて風邪ひいたんです」
あ、そういうこと……。
部屋を見回すと、ノードとジゼルの他には熱に浮かされるナリッサしかいなかった。室内に変わった様子はないけれど、ノードがソファーの傍に移動したスツールがドレッサーの前に戻されている。窓から見える木々が違って見えるのは日差しの角度かもしれない。
「あたしが眠ってからどれくらい経ったんですか?」
「五時間ほどです」
「たったそれだけ? 十日くらい眠った気分」
体が軽くなったのはナリッサの肉体から離れたからだろうか。脱ぎ捨ててしまった重力と気圧が少し恋しい。
心臓は今も動いているような気がするけれど、あたしが感じている〝生きてる感覚〟は、きっと幻肢痛のようなものだ。ないのにあると脳が勘違いしているだけ。その脳すらもあたしにはない。
ぼんやりするあたしの頬に、ノードの手が触れた。
「肉体が欲しくなりましたか?」
魔塔主の言葉は生々しくて、あたしは反射的にブルブルと首を振った。肉体を欲して彷徨う幽霊なんて想像するだけでゾッとする。
そうですか、とノードは満足げにほほ笑んだ。
あたしが肉体に執着しないでいられるのは、こんなふうにノードの指先を感じられるからだ。
どうしてノードはあたしに触れられるんだろう?
魔力があるからだと分かっているけれど、魔力があったらあたしに触れられるのはなぜ?
ノードはあたしの状態を前代未聞と言っていた。
これはきっと、不運にも召喚に巻き込まれて小説の世界で死んでしまったあたしへの、小説の神様の慈悲。だって、今のところあたしに触れられるのは推しキャラのノードと、ちゅ~るで釣ろうとしていたジゼルだから。
あたしの頬に添えられたノードの手に自分の手を重ねたら、「冷たいですね」と彼は皮肉も嫌味もない笑顔をあたしに向けた。キュン。
「ノード、色々聞きたいことがあるんですけど」
「どうぞ。でも、その前に場所を移動しましょう。ユーリックや獣人が来たら困りますから」
そうですね、とあたしがうなずくと、ノードはドアの方へと歩いて行く。
「ゲートで帰るんじゃないんですか?」
「治療のために人払いしていたんです。ですから、治療が終わったと伝えないと」
「でも、ナリッサはまだ熱がありますよ」
「それはただの風邪です。わたしが施した治療はナリッサ様の憑き物を祓うことです」
「あたし、祓われたんですね。どうやって?」
「さあ? ナリッサ様の体から抜け出したときのことを思い出せばわかるかもしれませんよ、サラさん」
相変わらずあたしをからかって楽しんでいる。
ノードはドアを押し開けると近くに控えていたポピーを呼んで、「終わりました」と声をかけた。ポピーは初めて窓越しに見かけたときとはまったく違い、「姫様はもう大丈夫ですか」と心配そうにノードに問いかける。
「魔術の残滓は取り除きましたから、あとは薬を飲んで眠れば大丈夫です。氷嚢がぬるくなっていたようなので変えてあげて下さい」
「わかりました。ありがとうございます」
ペコリと頭を下げ、ポピーはナリッサの眠る寝室に入っていった。
数時間前にユーリックとあたしを先頭に大名行列で降りていった階段は、今は誰の姿もなかった。エントランスロビーの奥に数人の侍女の姿が見えたけれど当然そこにアンナの姿はなく、みんな情報を得ようとノードの後ろ姿をうかがっている。勇気を出して声をかけてくる者はなかった。
ちょうど扉を開けて入って来た執事が、ノードに気づいて近寄ってきた。ノードは笑顔のままだったけれど、面倒くさそうにため息をついたのをあたしは聞き逃さない。
「魔塔主様、皇太子殿下は何かおっしゃっていませんでしたか?」
情報が入らなくて焦るのは分かるけれど、ナリッサの心配もしないで魔塔主相手にずいぶん不躾な態度だ。あたしがもう一度ナリッサの体に入ったら、「クビよっ」って言ってあげるのに。
「執事殿、何かとは?」
「この宮のことです。それと、アンナが辞めたというのは……」
どうやらアンナが死んだことは伏せられているようだった。ローナンド侯爵家の麻薬違法取引が公になったら、きっとまた根も葉もない噂が広がるのだろう。ポピーは「今日で宮は変わる」と言っていたけれど、本当に変わるだろうか。とりあえずこの執事はクビよ、クビ。
「皇太子殿下があとでナリッサ様のご様子を見に来るとおっしゃっていました。それまでは普段通り、ご自分のすべきことをしていればよいと思います」
皮肉を込めたノードの言葉に執事は視線を泳がせ、居心地悪そうにペコリと頭を下げた。
「では、わたしは失礼します。帰りますよ、ジゼル」
ノードが呼びかけると侍女たちのいる方からジゼルがタタッと駆け出してきた。そのままあたしたちを追い越し、閉じられたドアの前で「開けろ」というようにひと鳴きする。
ノードとジゼルを置いてあたしが先にドアをすり抜けると、石榴宮が北寄りに位置しているせいか前庭も門のあたりもすっかり丘の影に覆われていた。夕暮れの空がほんのり赤く染まっている。
「もうじき向こうの空から青い月が昇ります。石榴宮からは少し見えづらいですが」
背後から現れたノードは、あたしの隣に並んで空を指さした。そして門の方へと歩いていく。
「ゲートで帰らないんですか?」
「皇宮内での魔術の使用は制約が多いんです。月光の庭園に行った時のような緊急時でない限り、魔術の使用は前もって皇族の許可が必要なんですよ」
「それでここに来た時も門の前にゲートを開いたんですね」
「まあ、バレなければ問題ないんですが」
不敵な笑みを浮かべると、門を出るや否や手をかざして青い光の渦をつくった。そのまま入ろうとしたノードはふと足を止め、その隙にジゼルが彼を追い越し光の中に消える。
「体から抜け出す方法はわかりましたか? サラ」
彼はそう言ってあたしに手を差し出した。意識を取り戻した瞬間のことが頭の中に蘇ってきた。
――サラ、と呼ぶ声。
ノードはいつからあたしのことを呼び捨てにするようになったんだっけ、と考えていたら、「帰りますよ、サラさん」と彼は言う。あたしは彼の手に自分の手を重ね、眩暈のあとには見慣れた山積みの本が目の前にあった。
妙にセンチメンタルな気分のあたしは、繋いだままのノードの手をギュっと握り締める。気をきかせてハグしてくれたらいいけれど、ノードは「お疲れさまでした」と頭を撫でてくれただけだった。それでも十分だよ。
「ノード、あたしのことは呼び捨てでいいんですよ」
「それは、万が一の時のためにとっておきます」
「呼び捨てにするのが、体から出る方法なんですか?」
「そういうわけではありませんが、サラさんが願う呼び方で呼ばれたとき、幽体の自我と肉体の自我が切り離されるようです。少し調べたら研究論文が出てきました」
ノードは本のタワーの一番上に置かれた紙の束を「これです」と指で弾いた。
「それなら、あたしはサラって呼び捨てにされたがってるってことですか?」
「きっとそうなんでしょうね。でも」
「主はぼくの声じゃ起きなかったぞ。サラって呼んだのに」
ジゼルが不満げな声で割り込んできた。
「そうなんですか? ノード」
「そうなんです。理由は分かりません。機会があれば検証してみたいのですが、そのためにナリッサ様にまた風邪をひかせるわけにいきません。くれぐれもわたしのいないところで憑依しないでくださいね、サラさん」
あたしも入った体から出られなくなると困るし、ナリッサだったから良かったものの、ダンみたいな人に憑依したらどうすればいいか分からない。大人しくノードの言うことに従っておいたほうが良さそうだ。でも、
「あたし、どうやって憑依したんだっけ?」
触れたら誰でも彼でも憑依するというわけではなさそうだった。昨日の朝ひとりで市場を歩いたとき、何回かうっかり人の体をすり抜けてしまったけれど、その時は何も起こらなかった。朝は冷え込むなあって、白髪のおじいさんに言わせてしまったくらいだ。
「サラさん」
「はい」
「くれぐれも試してみようなんて考えないで下さいね。特にわたしの目の届かないところでは」
「だったら、ノードが調べて下さい」
あたしが山積みの本を指さすと、ノードは「ふむ」と考える。
「麻薬の件が片付いたら調べてみましょう。正直なところ、今はそれどころではないので」
切羽詰まっているのはおそらく、
「逃げた魔術師のことですか?」
あたしが問うとノードは「ええ」と頷いて、床に辛うじて空いている五十センチ四方のスペースに右手をつけた。床はブウンと音を立てて青と黒の光を発し、彼がその手を持ち上げると背丈くらいの高さの書類が現れる。
「これは?」
「イブナリア王国の魔術師に関する資料のごく一部です」
「イブナリアって、幻の亡国ですよね。……ってジゼルが言ってたよね」
うっかり発言をジゼルに押し付けると、ジゼルは機転を利かせて「ああ」と頷いた。さすが主想いのジゼル。
「魔塔主が亡国の魔術師だってことは悪魔たちの間では有名な話だ」
どうやらそれは本当のことっぽい。
「ノード、もしかしてあの魔術師もそうなんですか?」
「そんなはずないだろ」と、ノードが答える前にジゼルが言った。
「魔術師は人間だ。三百年も生きるような例外が二人もいるはずない」
「でも、逆に言えば一人いるなら二人いてもおかしくないんじゃない?」
「そんなヤツがいたら悪魔の情報網に引っかかるはず」
どうなんだ? とジゼルが山積みの資料をパラパラめくるノードに返答を求めた。
「なんとも言えませんが、調べてもいない時点で否定するわけにいきません。何より、〝シド〟という名前には聞き覚えがあるので」
その言葉にあたしとジゼルは顔を見合わせる。
「魔塔主、あの死んだ侍女はその男がバンラード王国から来たと言っていたぞ」
……そうだ、思い出した。〝バンラード〟。
聞いたことがあると思ったら、魔獣討伐エピソードに出てくるグブリア帝国の隣国がたしかバンラードだった。魔獣生息域があり、魔獣討伐のための攻撃魔法が発展していて、魔剣士による討伐隊も編成されている、血の気の多い魔術師たちが集まる国。
ローナンド侯爵がバンラード王国からシドを連れてきたということは、きっと貿易で訪れたときに見つけてスカウトしたのだろう。グブリア帝国の魔塔から引き抜くよりよっぽど足がつきにくい。
「ジゼル殿、バンラードから来たからといってバンラード生まれとは限りませんよ。魔獣生息域を渡り歩いて金を稼ぐ魔術師はかなりの数いるんです。正規の手続きでグブリアに入国していたら魔塔の管轄になるのですが、おそらくローナンドが手配して密入国したのでしょう」
「バンラードの件は納得できたが、さすがに死なない魔術師がいたら噂になるだろう?」
「どうにでもなります。わたしがこうして自分が長命であること公にしているのは、皇室との契約があるからです。しがらみなく自由に生きるなら、わたしだって定期的に顔を変えるくらいのことはします」
「それなら、魔塔主殿の知っているシドという魔術師はどんなやつだったんだ?」
「魔術解析と結界解除能力が突出してました。グブリア帝国とイブナリア王国の最後の決戦のとき、彼がその場にいたのを目撃したという証言はいくつかあるのですが、敗戦後の捜索で死亡と記録されています。実際は火災のため身元確認できない遺体が多く、その記録はあまり当てにならないんですが」
わたしが書いた記録なんですけどね、とノードは苦笑した。
グブリア帝国とイブナリア王国の戦争のことを、あたしは教科書一、二行くらいの知識でしか知らない。その場であったことはどれだけ想像力を膨らませてもきっと本当には理解できない。現代に生きていたときも、自分が生まれる前のことは現実というより歴史だった。
たぶんノードはその戦争で大勢の仲間を失い、そしてまだ一人生き残っている。彼以外にもその戦争を経験した魔術師が今も生きていると仮定して、過去を語り合いながら酒を交わせるようならまだいいけれど、二人目の生き残りが白影の魔術師だったら――
……生き残り? 白影の?
その言葉が引っかかり、小説の一文が文字のまま頭を過ぎっていった。
――彼はわたしを見下ろし、「俺は白影の生き残りだ」と吐き捨てるように口にした。――
連鎖反応のように脳に浮かぶ映像は、小説を読んであたしが想像した戦闘シーン。傷ついたユーリックを守るため両手を広げて立ちはだかるナリッサ、対峙するのは隻眼の黒龍とその背に立つマントの男。
これはおそらく魔獣討伐エピソードだ。ということは、討伐戦で黒龍を操っていたあの男がシド?
ラブコメ小説クライマックス直前、「今さら名前つけても」とか、「あっ、〝白影〟が伏線に使えそう」とか、作者がそんなノリでキーボードを叩く姿が目に浮かんでくる。
どうやら白影の生き残りの魔術師〝シド〟とはこの先も関わることになりそうだった。それが亡国イブナリアの魔術師かどうかは謎だけど。
「主、ぼくは林に行ってくる」
ジゼルがあたしの目の前で羽をパタつかせていた。首に巻いていた青いリボンはカウチソファーに放り投げてある。
「行ってらっしゃい」
尻尾をユラリとしならせて書斎から寝室へと飛んでいくジゼルの毛が、採光窓から差し込む夕暮れに一瞬だけ茜色に染まった。ジゼルの姿が見えなくなると、どうしてなのかホームシックみたいな気分になる。
黄昏にふと去来する漠然とした不安は、幽霊になっても変わらないらしい。この後やってくる夜は幽霊の時間だというのに。
ノードは知らぬ間にローブを脱いでカウチソファーにかけ置いていた。石榴宮に行ったとき着ていたタキシードは見当たらないけれど、着替えたわけではなさそうだ。袖口がレースのフリルになったシャツと、膝下丈のズボンに白タイツ。青いスカーフは首から外してローブの脇に置かれている。
せっかくお揃いの青いリボンだったのに、あたしだけマジカル戦士ラブルーンのままなのが悔しいような寂しいような夕暮れセンチメンタル。気分転換にラブルーン制服バージョンに着替えたら、書類に没頭していたノードがパッと顔をあげた。
「便利ですね」
「何がですか?」
「一瞬で着替え終わるのが」
「魔法でできないんですか?」
「できなくもないですが……」
考え込むノードは、実際に手足を動かして着替えるのと、着替えるための術式を構築するのとどっちが楽か頭の中で天秤にかけているようだった。
「めぼしい資料は見つかりそうですか?」
「特に整理することもなく亜空間に押し込めていたのでそんなにすぐには」
「魔法で検索できないんですか?」
「どんなふうに?」
「特定の言葉が記述された紙を抽出する魔法。例えば、シド、魔術師、結界解除、とか」
グー〇ル検索に慣れた現代人思考だ。ノードはあたしを意外そうな顔で見て、「ふむ」と思考モードに入った。
彼はしばらくすると詠唱をはじめ、光の文字が書類の塔の周りをぐるぐると回り出す。床に近いあたりから一枚の紙がするりと抜けて宙に浮かんだかと思うと、次々と色んな場所から紙が舞い、光の文字が消えるとともにノードの手には十枚ほどの薄っぺらい紙の束があった。
「このやり方は良さそうですが、言葉をどう指定するかが問題ですね」
ノードは手の中の紙をパラパラとめくりながら言う。
「お目当ての資料はありそうですか?」
「ええ。わたしが探していた〝シド〟のものはありました。でも、個人的に知っているというだけでこの男が白影の魔術師かどうかはわかりません。漏れのないように、検索する言葉の組み合わせを変えて試してみる必要がありそ……」
語尾が途切れ、あたしが見つめている前でノードの動きがピタっと止まった。手の中の最後の一枚に、彼の目が釘付けになっている。
「ノード、何か見つけたんですか?」
あたしが問うと、ノードはパッと取り繕うような笑みを浮かべた。
「いえ、シドとは関係ない魔術師の資料が混ざっていただけです」
彼は手の中に青い光を呼び出し、その中に紙を隠してしまう。あたしの胸がズキンといつもと違う音をたてた。
「何が書いてあったか聞かない方がいいですか?」
「……そうですね。そうしていただけるとうれしいです」
彼の隠した資料が誰のものなのか、八割くらいの確信をもって想像がついている。だからこそ踏み込むことができない。
「いつか、教えてくれますか?」
「……そうですね。わたしがそんな気分になれば」
わかりましたとあたしが言うと、ノードは検索ワードを変えて先ほどと同じ魔術を構築し始めたようだった。あたしは光の文字を避けて梯子をのぼり、寝室のベッドに仰向けになる。
窓からのぞく空にはまだかすかに夕暮れの名残があった。
頭を過った魔術討伐シーンのナリッサのように、あたしはベッドの上で両手を広げる。目を閉じると黒龍の片目が赤く光り、その光がシドの黒いマントをかすかに赤く染めている。……違う、風にはためくマントに赤い光を映すのはジゼルの火炎魔法だ。
あたしのこんな想像よりよっぽど生々しい記憶がノードにはあるはずだった。よく知りもしない一人の侍女の死を目の当たりにしただけであたしはこんなに胸が痛いのに、何百人、何千人の死を経験した魔術師の心は、二百年経ったからといって癒えるのだろうか。
ノードが隠したあの紙には、きっとミラニアのことが書かれている。彼が愛したミラニアは、一体どんな人生を送ったのだろう。
戦争で死んだ?
その前に死んだ?
それとも戦後まで生き残ってこの魔塔にいた?
とめどなく湧きあがる疑問とともにあたしの頭に浮かぶのは、小説には一切描かれないノードとミラニアの死別シーンだった。彼女は苦しまずに逝っただろうか。
あたしの正体がユーリックにバレないよう咄嗟に「ミラニアに似ていた」と誤魔化したノードの胸には、噂通りきっと今もミラニアが生きている。二百年経っても変わらずに。
心臓が苦しかった。
これは推しキャラの切ない想いに同情した読者の感情――そう思いたかったけれど、胸に穴があいたようなこの感覚をあたしは生きているときに経験している。失恋ってやつだ。
推しに恋して見返りを求めるなんて、やっちゃダメなやつ。
肉体のない幽霊に恋なんて、そんなの無理なのに。
「サラさん?」
目を開けると、ノードの紺碧の瞳にあたしが映っていた。彼の長い髪があたしの頬を掠める。
「幽霊も眠れるようになったんですか?」
「考えごとしてました」
「そうですか」
ノードがベッドに腰かけると、窓の向こうに赤銅色の月が見えた。ということは思いのほか時間が経ったようだ。
「このベッドで眠るのは数か月に一回くらいだったのに、サラさんが来てから三日連続で眠ることになりそうです。ベッドはサラさんが冷やして下さったようですが」
「カウチソファーで寝落ちしたらよかったのに」
あたしの言葉が意外だったのか、ノードは目をしばたかせた。
「そうですね。でも、サラさんが大人しくしてるか確認しておかないと。しばらくのあいだユーリックや獣人が頻繁に魔塔に出入りすることになるでしょうから」
「魔塔の魔術師になら見られてもいいんですか?」
「ダメです。面倒なので見られないでください。偶然サラさんを見かけた魔術師がユーリックにうっかり話してしまわないとも限りません。魔塔主が女を連れ込んでいる、くらいの噂話ならまだしも、その女が空を飛んでいたら怪しいことこの上ないですから」
いいですね、と念を押されてうなずいたら、彼の手が寝転がったままのあたしの頭を撫でた。
慣れてくると案外スキンシップの多い魔塔主様は、あたしの恋心にいつか気づいてくれるだろうか。ノードの耳に光る妹を見つめながら、あたしはそんなことを考えている。
ゴロンと寝返りをうって、あたしはベッドに半分スペースを空けた。
「ノード、あたしと一緒に寝ますか?」
「寒いからどいてください」
「そんなこと言うと散歩に行っちゃいますよ」
「気をつけると誓って下さればサラさんの自由です。束縛する権利はわたしにはありませんから」
つまんないの、とベッドからあたしが飛び上がると、ノードはすかさず布団に包まった。彼の慌ただしい一日がようやく終わって、あたしの長いんだか短いんだか分からない曖昧な夜がこれから始まる。
「おやすみなさい、ノード」
「おやすみなさい、サラさん」
ノードはもう目を閉じていた。ジゼルが魔力を付与してすり抜けられなくなった窓を避け、あたしは壁抜けして円錐屋根に腰をおろす。いつからいたのか、窓の縁の少し平らになったところでジゼルが丸くなって眠っていた。
遠くの皇宮の丘に、菫色に染まった紫蘭宮の壁が見えている。チラチラと尖塔に明かりが見えるのは、ユーリックたちがまだ働いているのかもしれない。ローナンド侯爵家に捜査が入ったのなら、明日には彼らの悪事が巷間に知れ渡ることになるだろう。
数日前までフィクションだったこの世界のことを、こんなに真面目に考えている自分に現実感がなかった。
菫色の壁を眺めながら、星を観察するように林に蠢く魔力の気配を肌で感じる。そうしているあいだに青い月は沈み、赤銅色の月が皇宮の丘へと傾いていく。紫蘭宮の壁が朝日を反射して白く輝きはじめた頃、ジゼルが目を開けてあくびをし、その夜が終わりを迎えた。




