02-26:もう一人の自分を救えと魂が叫んでいる
その女は結界という閉じられた世界の中を必死に逃げていた。形振り構わず、とにかくこの場から離れることだけを考えて、ただただ必死に逃げていた。
その女、召喚獣といわれる異能により召喚士の魂から生まれた存在。淫魔と呼ばれる悪魔にカテゴライズされた魂の一部。身体能力はさほど高くはなくとも異性の精神に干渉出来るという強力な異能を携え、こと男性を相手にする場合、負けることなどあり得ない、はずだった。
そう、はずだった。
淫魔の精神干渉能力は性という生物の本能に由来するものであり、こと男性を相手にする場合、まず防ぎようのない能力であり、抵抗すらさせずに屈服させることが出来る。そういう能力のはずだった。
けれど実際はそうならなかった。
異能者相手だ。多少は抵抗されようとも、本能に直接訴える精神干渉能力、その影響を受ければ男性は自らの意志とは関係なく勃起し、射精し、やがては屈服する。快楽神経を刺激され続け、射精を強いられること、初めはその極上の快楽に酔いしれるが、何事にも限度というものがあり、度が過ぎればそれは苦痛以外の何ものでもない。
女の能力は男に死ぬまで射精を強制できる。快楽神経を刺激し、快楽漬けになりその過程で自我が崩壊することもある。その上、淫魔の特性上、射精させたことにより自身の能力が強化されていく。性的興奮を力に上乗せできるため、こと男性相手にした場合、反則級の異能であった。
当初の予定では、女のその異能で全ての男を無力化できることが前提とされており、それ以上何かしらのプランは存在しなかった。相手が女であればその対策はいくつか用意されてはいたが、計画を頓挫させたのは男であり、前提そのものが覆ってしまった。
男が抵抗できるなんて思わないじゃない。
女の異能であれば、例え不能となった股間であってもたちまち元気を取り戻す。姿を見せるだけで快楽神経を刺激して快楽漬けにし、人格だって破壊できる。なのにそれが効かない存在が現れた。
可能性としては確かにそんな存在は考えられた。けれどこの世界のレベルを観察したらそんな存在がいるとはとてもでないが想像できなかった。
女が思い出すのは自らの計画、その前提を狂わせた一人の鬼。
そう、鬼だ。
女が悪魔であるようにその男は鬼だった。
召喚アプリにより召喚される召喚獣。あれは召喚獣とは言うもののその本質は召喚士の魂である。召喚士が現社会に生きて行く上で消してしまった可能性やこうなりたかったという憧れ、また心の傷など、無意識化に抑圧され、沈められてしまった召喚士の魂の発露である。
ほとんどの場合が動物の形をとるため召喚獣という名前になっただけである。
ちなみに動物の召喚獣の場合、無意識化とはいえ表層に近い願望や欲望といったものが反映されることが多い。肉食動物なら他者を屈服させたいなどの攻撃的な欲望、また小型の動物であれば愛されたいなどの願望だろうか。爬虫類や虫など多岐にわたるが大抵の場合は分かり易く、浅い。それ故に然程強力な異能を持ち合わせない。
けれど当然例外もある。それが悪魔などの現実には存在しない、幻想種とカテゴライズされたものだ。
幻想種は召喚士の無意識、深層心理のより深い所に眠る根源的な衝動、感情から生みだされる。
女の場合、召喚士の無意識化に眠る女性への恐怖心から誕生した。
召喚士は、心の奥底、本能で女性に対して恐れを抱いていた。
それは桜薙という特殊な環境下に身を置いた故に根付いてしまった恐怖。
どれだけ自身が強くなろうともそれよりも強い女達が存在する。その者たちに比べれば有象無象の一人でしかなく、軽く捻り潰されてしまうという暴力への恐怖。
女の召喚士は本能で理解してしまっていた。女性が弱くないことを、可憐などではないことを。強かで悍ましい、可憐に擬態した化物であると。
無意識化に抱えた女性への劣等感、恐怖心を召喚士はセックスという行為で克服しようとしていた。女を抱き、喘がせ、屈服させることで、心の奥底で、自分は女性よりも強いんだと、そう思わせようと必死に抗っていた。無論本人はそんなことを意識したこともないだろうが。
そんな心の奥底に眠る女性に対しての劣等感、恐怖心が淫魔という、一種の女性の象徴的な形で召喚獣として形作った。
誰も知る由もない。本来の召喚アプリの用途とは、実は人間をより高位の存在へと引き上げるための、自身の欠点を克服するための道具だったのだ。
その観念から見た場合、女の計画を破綻させた鬼という存在は悪魔よりもより重症であった。何せ心の傷、その原因が無意識化で収まっておらず、表層に浸食し、何かしらの強迫観念に駆られ、常軌を逸した行動を強いていなければ鬼になどならない。深層意識に眠っている衝動が、感情が一樹の行動にも現れているはずなのだから。
一樹の場合、一見して分かり難いが殺人への心理的抵抗が極端に低い。むしろ問題解決の手段に殺人を用いることが多いことからもその歪さが窺い知れる。
何が一樹をそうさせるのかは不明なれど、より深い心の傷がより強力な異能を引き出す。
鬼となった一樹に純粋に性能面で女は劣っているのだ。
それを理解してしまった。敵わないという諦めに逆らうはずの心が、より強大な力を前にして委縮してしまった。
女は逃げるしかなかった。女が逃げてさえいれば、召喚士は死なない。もう一人の自分は生きていられるのだから。
これが動物型の召喚獣ならそんな考えは抱かなかっただろう。動物型は所詮は表層。社会生活の中で抑圧された欲望の具現だ。召喚士を思う気持ちなどさらさらない。
けれど心の傷より生みだされる幻想種の場合、召喚士を思う気持ちは自身と同じかそれ以上だ。
今は何としてでも生き延びなければ。
そうは思うも女は不安に駆られっぱなしだ。何せ召喚士を捕まえたのは鬼なのだから。
女が逃げている限り召喚士が死ぬことはない。けれど言い換えれば死ぬことが許されないのだ。死ぬことも許されず与えられ続ける苦痛に、その精神が、心が、魂が耐えきれなくなれば例え召喚獣が補完しようとも修復は不可能だ。
召喚士の自我が崩壊すれば、補完機能があろうともやがて魂は朽ち、女諸共消滅するだろう。
女が逃げている今この時、召喚士が拷問を受けているかもしれない。竜の召喚獣を殺し続けた鬼が相手だ。召喚士の身を案じる女は気が気ではない。
何とかして助け出さなくては。
とはいえ圧倒的に戦力が足りない。異能探偵の助手がやっていたように召喚士と融合するという手もあるがその場合、補完機能がなくなり、殺されれば死んでしまう。同格の相手ならば融合して戦力的に上回れば問題ないが、あの鬼相手では融合しても上回れる気がしない。
女の異能が向上したところで相手は鬼だ。射精はさせれても、させ続けるまでは干渉出来ない、そんな気がする。
一つの賭けだけど可能性があるとすれば、アレしかない。
女は自身の異能を限界まで広範囲に広げ、手当たり次第に男共を射精させるという、一種の地獄を想像する。射精させればさせただけ女の能力全てが上乗せされる。今この結界内にいる全ての男共を射精させ続ければやがてあの鬼にも届きうるだけの異能に発展するだろう。
ただ、そんな悠長なことをあの鬼が許してくれるとは思えないけどね。
女は想像する。もし今、自身の異能を開放し、周囲にいる者を無差別に強制射精させ自らを強化したとして、あの鬼に対抗しうるだけの力に到達する前に、異変に気付いて駆けつけてきた鬼に切り伏せられる姿を。
もしやるとしたら、すぐに駆け付けてこれないくらいに離れるか、それとも何か時間を稼ぐ方法がないと。
女はいつの間にか次を考えるだけの余裕を取り戻していた。逃げ出してからそれなりに時間が経ち、もし鬼が追撃に来ていればとっくに目の前に現れていると考えられる。それがないということは追わなかったか、追うよりも優先すべき何かがあったかだろう。鬼の能力から考えて油断を誘うためにあえて、という可能性は低い。
女は近くにあったビルに入ると身を隠すようにして、適当な一室に身を潜めた。腰を据えて今後の行動を考える必要があるからだ。
ほっと一心地着いた女は違和感を覚えた。
自分以外誰もいないはずのビルの一室。そこに何らかの気配を感じる。けれど姿が見えない。
「⋯⋯⋯ひょっとして、既に先客がいたのかしら?」
――――――――――――――
異能探偵の助手こと虎雄は一樹と口論一歩手前までの話し合いをしていた。
虎雄の目的は一樹が捕らえた召喚士の確保である。この召喚士を追いかけて行方不明になった幼馴染を探す手掛かりを得なければいけない。もっとも幼馴染は既に死んでいるという可能性も濃厚ではあるのだが。
とにかくまずは話を聞かなければならない。先程は話を聞くよりも先に一樹が戦闘をおっぱじめ、そのまま亮二を無力化し捕らえてしまった。亮二の召喚獣はかなり知能が高いらしく、一瞬の隙をついて逃走し、姿をくらました。
召喚獣が生きている限り亮二も死なない。この状態から話が聞けるかは甚だ疑問である。
拷問は痛みと恐怖を与えながら情報を吐き出させるが、どれだけ身体を損傷させようとも修復される以上、問題となるのは痛みだけであり、人間が感じる痛みには上限がある。不屈の精神力を発揮されてしまえばそれまでだ。
案外あっさりと情報を吐いたり、何も知らなかったりするかもしれないため、とりあえず意識を取り戻すことを優先させなければならない。
けれど一樹は意識を取り戻させることは危険と判断し、亮二の身体が修復されるよりも先に破壊し、行動の一切を封じている。
とっとと始末してしまいたい一樹と、話を聞きたい虎雄とではどうしても平行線になり、その主導権は亮二を捕らえた一樹にある。
一樹の説得を試みるに小一時間経過しただろうか。一樹も亮二の召喚獣を補足できなくなり、とりあえず保留にしている状態になった。だからと言って亮二の意識を回復させるつもりはさらさらないらしく、今も亮二は眼窩から刀を差し込まれ、ぐりぐりとほじくられている。赤黒いペーストを涙の様に垂れ流す亮二の顔は夢に出てきたら跳び起きるくらい虎雄の脳裏に焼き付いてしまった。
「もうお前の頼みは聞いてやっただろう。あの竜を殺すのに一晩待ってやった。それでお前のターゲットが出てきた。ターゲットが俺に攻撃を仕掛けてきたから反撃した。その間、お前は何もしなかった。これ以上お前に譲歩したところで得る物はないし、被害が増える」
一樹の苛立ちが言葉の端々から感じられた。
迫力に押され頷きそうになるのを堪え、食い下がる。
「そうかもしれない。だが俺には亮二から聞き出さなければならないことがある」
「ダメだ。コイツの召喚獣が逃走した以上、始末できない。故にこうして封じ続けるしかない。どうしてもコイツの意識を覚醒させたいというのなら、まずはコイツの召喚獣を捕らえてこい。それが筋ってもんじゃないのか」
一樹の言い分は分かる。けれど亮二の召喚獣はどういうわけか虎雄の召喚獣では発見が困難だ。逃げに徹されるとまず見つからない。
一樹を説得しようにも主導権は一樹にあるし、一樹は妥協点も示した。それを蹴るというのは明確な敵対行動だ。一樹が殺すつもりで攻撃してくれば虎雄など召喚獣と融合していてもものの数分で殺されてしまうだろう。
穏便に済ますには一樹の言うとおりにするしかない。
虎雄が諦めて捜索用に多数の蝿を召喚した時、異変は訪れた。
突如として現れた巨大な竜の爪に一樹と虎雄は襲われる。
虎雄は迫り来る竜の爪が巻き起こす風圧に乗ってふわりと吹き飛ぶことで事なきを得た。
対して一樹は竜の爪を正面から受け止めていた。
「もう復活したのか、案外早かったな」
一樹のあまりにも無関心なそのセリフに虎雄は戦慄する。竜が姿を現し、攻撃に至るまでの時間は一秒もない。完璧な不意打ちだった。にもかかわらず一樹は当たり前のように受け止め、更には反撃さえしていた。
一樹は反撃で竜の動きを抑え、そのまま蹂躙を開始した。爪を剥がし、腹に無数の穴を開け、脚や翼と言った移動に関する部位には地面から生やした槍で貫き動きを封じると、竜を生きたまま解体し始めた。
鱗を落とし、皮を剥ぎ、竜が苦痛に叫ぼうとすれば巨大化した刀で串刺しにして地面に打ち付ける。
虎雄は竜の瞳の奥に恐怖にも似た感情を見た気がした。
あまりにも圧倒的な差に虎雄も首を傾げた。
異能を手に入れた者たちは皆どこか力に酔って少なからず増長する。虎雄が今まで見てきた異能者全員に共通する事柄。だというのにその中でも群を抜いて、別次元と表現してもいい程に圧倒している一樹にはその増長傾向がみられない。
むしろ追い詰められているのは一樹であるかのような強迫観念に駆られているかのように鬼気迫る、余裕のなさを感じる。
今だって、竜を甚振っているのではなく、真剣に、油断なく仕留めるために確実に一つ一つの部位を削いでいるのだ。
そうして一つ一つ削ぎ終わり、やがて竜はこの日何度目になるかも分からない一時的な死を迎えた。
その瞬間、虎雄は自らの失念に気付いた。
「くっそ!やられた!一樹!気を付けろ!淫魔がくる!」




