愛称
特設実験艦隊司令ニールズ・レンブラン少将は、実験用巡洋艦、エンブラヒムの司令官執務室で副官であるアン・スミス大佐から報告を受けていた。
「艦隊の離脱は順調か。」
レンブランの声は冷淡だった。オールバックを撫でつけながら、細い長方形の銀縁メガネが光る。
しかし、並の士官ならたじろぐようなその眼光もアンには効果がなく、むしろ、レンブランに負けないほど冷淡な声で答える。
「はい。閣下。ご命令通り、後方に展開中の艦隊にも撤退命令を出しました。しかしながら、水雷戦は後方艦隊にやらせれば、良かったのではありませんか。旧式とはいえ、15隻居た駆逐艦隊の内6隻が撃沈されました。」
「そうか。6隻失って相手が健在というのも癪だな。」
「研究者も失いました。基地の存在も明らかになったでしょう。」
「気づいていたからこそ、大規模演習中のこのタイミングで現れたのかもしれんな。」
「基地内に内通者がいると。」
あんな実験をさせておいて、内通者が出ないほうがおかしいとレンブランは思ったが、それを伝えることはなかった。
レンブランはアンに断ることもなくタバコに火をつけた。
エスクペリメント・ヒューマン―あらゆる軍務をこなせる完全体構想。
工作員としてのあらゆる技能を教え込み、軍の指揮系統も任せられるように戦術や指揮技能も叩き込んだ。額の真ん中で一直線に切り揃えられたつややかな褐色の髪も、モデルのような丹精な顔も、引き締まっていながら女性らしさを十二分に強調している身体も理想的な女性像になるように整形を繰り返した結果である。そして、その言わば、人間製造ともいえる過程を経てきたのがアンという女である。しかし、むりやり押し付けられた類まれな戦闘技術と指揮能力は育ての親であるレンブランへの異常ともいえる忠誠と引き換えにアンの人としての感情を奪い去っていた。
「閣下。どうかなさいましたか。遠藤艦隊との距離は順調に離れております。偵察機も高射砲にて妨害済みです。」
といったアンの顔は驚くほど無表情であったが、急に黙ったことを心配しているとレンブランはわかった。
アンが二十歳の時に大戦が終わり、戦争犯罪人になりかけたレンブランはアンに人を含む全ての証拠を抹殺させた。
それから、五年、偽の戸籍でアンはレンブランの副官として仕えている。レンブランでも、そのくらいは理解していた。
「あれは遠藤じゃないな。遠藤なら、挟まれた瞬間に、逃げの一手を打つだろう。」
レンブランに決して確証があったわけではなく、ましてや、遠藤が無能で臆病だとは思っていない。大戦中、幾度が砲火を交えた彼は、遠藤が不利な時には最小の被害で済むように退き、勝利の時は一気に攻めてくる時流を読む事に長けた司令官であることを知っていた。いくら座学や練習をしようと軍人の勘だけはアンにもまだ身についていなかった。
「それでは、新たな司令官が赴任したと。」
「うむ。まるで『道化』だな。」
「クラウンですか…。閣下。調べますか。」
「アン。沈没した艦の乗組員はリストは。」
アンを手元から出すのが惜しかったレンブランは否定も肯定もせずに、むりやりに話を変えた。
レンブランは七十もごく最近に差し掛かった自らの老いを感じていた。話を折られてもアンは何事もないかのように書類をレンブランに渡した。
「はっ。作成しました。こちらに。」
レンブランはリストをパラパラとめくっていくと、笑顔を浮かべた。
「邪魔な旧型艦艇は沈み、反逆者の研究者達も多くが死んだだろう。しかし、念には念を入れなくては。アン。ちょっと頼む。」
レンブランは手早くメモを書くとアンに渡した。




