第27話 突破口
石碑の前で自分たちは途方に暮れていた。
読める記号は確かに増えた。
「満ちる」
「巡る」
「固い」
だが、それだけだった。
拾える記号はあちこちに散らばっている。
なのにその散らばった記号をどう繋いでも一つの文章にはならなかった。
「……だめだ。読めない」
自分は額に滲んだものを手の甲で拭った。
「一つひとつの記号は、分かる。……でも、並びが、繋がらない。文章に、ならないんだ」
「ウチも……」
隣でヴェラが唇を噛んでいた。
「上から読んでも、横から読んでも、意味が繋がらない。……『満ちる』の次に『固い』が来て、その次が『巡る』。……そんなの文章になんてならないよ」
自分たちはこの石碑を書物のように読もうとしていた。
左から右へ、上から下へ。
人の言葉が並んでいるものと思って、その順に意味を拾おうとした。
だが、いくらやっても記号は文章に化けてくれなかった。
石碑の前に立ち、二人して同じ記号を幾度も指でなぞった。
読めた気になっては次の記号で行き詰まる。
その繰り返しが、少しずつ胸に焦りを積み上げていく。
鑑定をもう一度かけてみようかとも思った。
だが、見えている記号を鑑定で確かめ直したところで、返ってくるのは同じ「読める記号がある」だけだろう。
この壁を越える鍵は鑑定の力ではない。
——読み方そのものだ。
それが、まだ、どうしても掴めなかった。
「時間だけが、過ぎていくぞ」
ゴードンが腕を組んでそう伝えてきた。
その声に責める色はなかった。
ただ、事実をそのまま告げただけだったが、酷く心に響いた。
「読める記号が増えた。……それは、いい。だが、読めるだけじゃ、意味がない。この石が、何を言ってるのか。それが分からなきゃ、一歩も、進めん」
「……分かってる」
自分はもう一度石碑を見上げた。
人の背丈を超える記号の壁。
この中に答えがある。
それは盲信かもしれないが、確信に近かった。
だが、その答えへの入口がどうしても見つからない。
——言葉じゃないなら、これは何だ。
ふと、ヴェラの手が止まった。
石碑のある一画。
そこに寄り集まったいくつかの記号をじっと見つめている。
「……ねえ、ライル。これ」
「どうした」
「ここ。『満ちる』と、『水』の記号が、並んでる。……それに、この、器みたいな形の記号も」
自分はヴェラの指す先を覗き込んだ。
確かに、そこには見知った記号が三つ、寄り添うように刻まれていた。
「満ちる」
「水」
そして、何かを受けるような浅い器の形。
その並びを見た瞬間、自分の頭の中で何かが繋がった。
「……水を、受けて、満ちる」
思わず、声が漏れた。
「水を、受けて、満ちる、もの。……ヴェラ。これは——」
「盃だよ!」
ヴェラがはっと顔を上げた。
「これ、盃のことだ! 『水を受けて満ちる器』——そのまんまじゃない!」
自分は収納バッグに手をやった。
中からあの古い盃を取り出す。
用途も分からないまま持ってきた一つの器。
その浅い椀の形を石碑の記号と見比べる。
——同じだ。
石に刻まれた器の記号は、まぎれもなくこの手の中の盃の姿を写していた。
言葉ではなく——その"性質"で。
「……そうか」
背筋がぞくりとした。
「これは、言葉じゃない。……文章を、読もうとしてたから、読めなかったんだ。……この記号の並びは、物を、指してる。その物が、どんなものか——性質を、並べて、教えてるんだ」
「性質を、並べて……」
ヴェラがその言葉を噛みしめるように繰り返した。
そして、次の瞬間、その瞳が一気に輝いた。
「そっか……そうだよ! ウチたちが拾ってきた記号は、ぜんぶ、"性質"だった! 『満ちる』も、『固い』も、『巡る』も、物の、有り様を表す記号だったんだ! だから、それを並べれば——」
「その性質を、ぜんぶ、持つ物を、指せる」
自分は後を引き取った。
二日間、拾い集め、覚えてきた記号。
それは、一つひとつが物の性質を表す言葉だった。
「満ちる」器。
「固い」扉。
「巡る」流れ。
その性質の記号を、いくつか組み合わせれば——一つの具体的な"物"を名指しできる。
この石碑はその方法で書かれていた。
「……試してみよう」
自分は別の一画を指した。
「もし、そうなら。……別の並びも、同じように読めるはずだ。……これは、どうだ。『姿』の記号と、『据える』の記号」
「姿を……据える」
ヴェラが宙を睨んで考え込む。
そして、あっ、と小さく声を上げた。
「……あの、像だ。初日に拾った、あの、古い石の像! ああいう像を、"据える"! そう書いてある!」
合っていた。
一つ読めれば次が読める。
次が読めればその次が読める。
まるで絡まった糸の端を一本見つけたようだった。
だが——。
いくつか読み進めたところでヴェラの指がふいに止まった。
今度はその眉がわずかに寄せられている。
「……ねえ、これ。この並び」
その指の先には、また別の記号の群れがあった。
「『光』の記号と、『映す』の記号。……水でも、姿でもない。……何かを、映して、返すもの。……でも、ウチたち、そんな物、持ってないよね?」
自分はその一画をじっと見た。
確かにその並びも何かを指している。
「光」を受け「映す」もの。
だがそれが何なのか——収納バッグの中のどの品にも当てはまらなかった。
「……知らない物、だな」
自分は小さくつぶやいた。
盃でもない。
あの石の像でもない。
自分たちがまだ手にしていない、何か。
この石碑は——自分たちがまだ探し当てていない物さえ求めているのかもしれない。
その予感がちくりと胸を刺した。
だが今は深く考えている暇はない。
見つけられる情報を一つでも多く。
そうすれば、きっとこの違和感の意味も分かる。
「……なるほどな」
黙って聞いていたアッシュが腕を組んだまま石碑を見上げた。
その口の端に久しぶりにあの不敵な笑みが戻っていた。
「つまり、こいつは、書物でも、詩でもない。……指示書だ。何を、どこに、どうしろ——ってのが、記号で、書いてある。……道具の、使い方の説明書、ってわけだ」
「指示書……」
イングリッドがその言葉を低く繰り返した。
そして、石碑をあらためて見据えた。
「……もし、それが本当なら。この石碑には、あたいたちが、この先へ進むために、何をすればいいかが、書いてある、ということか」
「たぶんね」
ヴェラが勢いよくうなずいた。
その声には、もうあの震えはなかった。
「まだ、ぜんぶは読めない。……でも、読み方が、分かった。これは、"物"と、"やること"の、並びなんだ。……一つずつ、記号を、物に置き換えていけば——」
「この石碑が、何をしろと言ってるのか、分かる」
自分は静かに言った。
自分たちにとって、この石碑はただの壁だった。
だが、読める記号がいくつも浮かび、そして今——その読み方そのものが見つかった。
言葉として読むのではない。
物と、所作の、並びとして読む。
その発想の転換が、閉ざされていた扉を確かにこじ開けようとしていた。
ふと気づけば、イングリッドも、ゴードンも、いつのまにか石碑のすぐそばまで来ていた。
昨夜、泉のほとりで誰もが力なく俯いていた。
出られるのか、と、あのヴェラでさえ声を震わせた、あの夜。
その重い沈黙が、今は、遠い昔のことのようだった。
五人の視線が、一つの石碑にまっすぐ注がれている。
まだ、出口が見えたわけではない。
石に刻まれた道具の使い方が、ほんの少し読めてきた。
ただ、それだけのことだ。
だが、その"それだけ"が、暗闇に差した確かな一筋の光となって皆の胸を照らしていた。
「……時間はないぞ」
ゴードンが言った。
だがその声には、さっきまでの重さとは違うものが混じっていた。
「だが、初めて、道が見えた。……ぐずぐずしてる暇はない。読めるところから、片っ端から、読んでいけ」
「ああ」
自分はうなずいた。
そして、石碑の無数の記号にあらためて向き合った。
この中に自分たちの生還への道筋が記されている。
それを、一つずつ解いていく。
物と、所作の、その並びを。
拾い、読み、覚えてきた二日間の、そのすべてを賭けて。
——読み解けば、この先へ進む方法が、分かる。
自分は、ヴェラと肩を並べ、石碑の最初の記号へと指を伸ばした。
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