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第十三話 名前を売る店

黒いインクの台帳は、翌日には領主館の証拠室へ移された。


 ただし、カール名簿官をすぐ拘束することはできなかった。彼は「古い形式の仮登録だ」と主張し、台帳の写しだけでは商人との結びつきを示せない。奉公候補の印がある以上、どこかに契約書があるはずだが、それが見つからなければ子どもの名を売ったとは言えない。


 テオドール様は領兵を動かし、マリベルは保護院の出入りを制限した。


 私は保護院で子どもたちの名札を補強しながら、黒いインクの匂いを思い出していた。


 あれは普通の名簿所で作るものではない。少なくとも、誰かが意図して混ぜ物をした。名を保護する藍ではなく、名を縛る黒。


 夕方、テオドール様が作業部屋を訪ねてきた。


「エレノア様。領都の東市場に、古い名札や洗礼布を扱う店があります」


「名札を売る店ですか」


「表向きは遺品整理です。亡くなった家族の名綴り布を額に入れたり、古い家名の刺繍を修復したりする。ただ、以前から怪しい噂がある」


 私は針を置いた。


「子どもの名前を売っている可能性があるのですね」


「ええ。直接踏み込めば証拠を隠される。あなたに危険なことを頼むつもりはありませんが、店の商品を見て、黒インクと同じ系統か判断していただければ助かります」


 アンナが横からすぐ言った。


「奥様を一人で行かせるのは反対です」


「もちろん私も同行します」


「辺境伯様が同行したら、店が警戒します」


 アンナの指摘は正しい。テオドール様は黙った。


 私は二人を見比べ、少し考えた。


「では、私は名綴り師としてではなく、母親として行きます。娘の古い名札を額装したいと言えば、不自然ではありません」


「リネリア様を連れて行くつもりですか」


 テオドール様の声が固くなった。


「いいえ。娘の名札は持っていきません。似た布を用意します。アンナに同行してもらいます」


「私も近くで待機します」


「護衛がいることはありがたいですが、見える場所に立たないでください」


 テオドール様は苦笑した。


「あなたは、侯爵家から出て一週間とは思えないほど手際が良い」


「前世で保育士をしていましたから。子どもの安全確認と不審者対応は、身に染みています」


 彼は「ほいくし」という聞き慣れない言葉に首を傾げたが、深くは聞かなかった。


 翌日の午後、私は地味な外套を着て東市場へ向かった。リネリアは保護院で文字教室に参加している。出る前に「おかあさま、おしごと?」と聞かれたので、「名前を守る仕事」と答えると、娘は真面目な顔で「きをつけて」と言った。


 東市場は、領都の中でも古い区画だった。


 鍛冶屋の煙、革なめしの匂い、乾いた薬草の束。王都の整った市場とは違い、細い路地が複雑に入り組んでいる。問題の店は、古道具屋と蝋燭屋の間にあった。


 看板には「記憶縫い」と書かれている。


 店内には古い布が並んでいた。額装された洗礼布、破れた家紋の刺繍、子どもの産着の切れ端。亡くなった人の思い出を残す店なら、悪いものではない。けれど棚の奥に置かれた箱から、かすかに黒インクの匂いがした。


 店主は痩せた中年の男だった。目がよく動く。


「いらっしゃいませ。思い出の修復ですか」


「娘の名札を、旅の記念に残したいのです」


 私は用意してきた布を出した。リネリアの本物ではない。アンナが夜のうちに適当な文字を崩して縫ったものだ。


 店主は布を見ると、すぐに値踏みするような視線になった。


「お嬢様の名札ですか。お名前は?」


「リン、と呼んでいます」


「正式なお名前は?」


 早い。


 普通の額装なら、正式名を尋ねる必要はない。


「まだ登録を迷っています。夫の家名に入れるか、私の家名にするか」


 そう言うと、店主の目がわずかに光った。


「それはお困りでしょう。子どもの名は、早く安定させた方がよい。よろしければ、仮名の固定もできますよ」


「名簿所でなくても?」


「正式ではありません。ですが、奉公先や養家が決まるまでのつなぎとして、よく使われます。北境では皆様そうされています」


 嘘だ。


 少なくとも保護院では使っていない。


 私は不安そうに見えるよう、布を握った。


「費用は高いのでしょうか」


「お子様の将来を思えば安いものです。家名をお持ちでない子なら、商家の仮名に乗せることもできます。良い店に入れば、食べるものにも困りません」


「娘はまだ四歳です」


「なら、早い方がよい。幼い子は名を染めやすい」


 その言葉で、背筋が冷えた。


 染める。


 名を守るのではなく、別の場所の色に染める。


 店主は奥の箱を開けた。中には黒い細紐と、小瓶に入ったインクがあった。まさに昨日見た黒と同じ光を吸う色だ。


「これは特別な名安めです。迷っている子を落ち着かせます」


「名安め」


「ええ。子どもは新しい場所に行くと不安になるでしょう。あらかじめ名を結んでおけば、騒がずに済む」


 騒がずに済む。


 その言い方に、怒りがこみ上げた。


 泣く子どもを黙らせるために名前を縛る。帰りたいと言えないよう、名を商家に結ぶ。それを安めと呼ぶ。


 アンナが隣で、ほんの少し身じろぎした。彼女も怒っている。


 私は布をしまった。


「考えます。夫にも相談しなければ」


「早い方がよいですよ。良い商家の枠はすぐ埋まります」


 店主は笑った。


 店を出ると、路地の角に荷馬車が停まっていた。その荷台に、麻袋ではなく小さな木箱が積まれている。箱の隙間から、子ども用の靴が見えた。


 私は足を止めた。


 かすかに、声が聞こえる。


「……マイラ」


 アンナが私の腕を掴んだ。


「奥様、今は」


「でも」


「証拠を持って戻ります。ここで飛び出せば、子どもも奥様も危険です」


 正しい。


 けれど胸が裂けそうだった。


 その時、路地の向こうから、荷物を担いだ男が二人出てきた。木箱を動かそうとしている。


 私は手の中で、銀糸を一本ほどいた。


 名を呼ぶことはできない。子どもが中にいるかも確定できない。けれど、名綴り師としてできることが一つある。


 銀糸を指に絡め、私は小さく結んだ。


 迷子留め。


 前世の迷子札と同じ発想で、対象を縛るのではなく、場所を記録する印だ。木箱の角に触れた瞬間、銀糸の結び目がほどけ、荷台の下へ落ちた。


 これで、完全に見失うことはない。


 私たちは市場を出た。


 角を曲がると、地味な商人の姿をしたテオドール様が待っていた。普段の貴族らしさを消しているが、姿勢の良さは隠しきれていない。


「顔色が悪い」


「子どもが箱に入れられているかもしれません」


 彼の表情が変わった。


「場所は」


「銀糸をつけました」


「領兵を動かします」


「騒ぎにすれば、店主が証拠を消します」


 テオドール様はすぐ判断した。


「少人数で追う。あなたは保護院へ戻ってください」


「私も」


「ここから先は、あなたの仕事ではなく私の責任です」


 強い声だった。


 私は反論しかけて、やめた。


 子どもを助けたい気持ちと、自分の役割を混同してはいけない。私にはリネリアがいる。無謀に危険へ飛び込めば、娘をまた不安にする。


「では、これを」


 私は銀糸のもう片端を渡した。


「結び目が熱を持つ方向へ進んでください。ただし、糸が急に冷えたら拘束印が発動した合図です」


「分かりました」


 テオドール様は糸を受け取り、ほんの一瞬だけ私の手に触れた。


「必ず戻ります」


 その言葉は、約束というより報告だった。


 私はアンナとともに保護院へ戻った。


 中庭ではリネリアが、ノルと一緒に小さな石を並べて遊んでいた。私を見ると、娘は駆け寄ってくる。


「おかあさま、おしごと、できた?」


 私は膝を折り、娘を抱きしめた。


「ええ。できたわ」


「こわかった?」


 子どもは時々、大人が隠したものをまっすぐ見る。


 私は少しだけ迷い、正直に答えた。


「少し怖かった。でも、戻ってきた」


 リネリアは私の首に手を回した。


「おかえり」


 その一言で、私はようやく息をついた。

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