表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/69

第十二話 黒いインクの名簿

北境保護院には、月に一度、領都名簿所の出張窓口が来る。


 子どもたちの仮名登録、親族調査の進捗、養家候補の確認、薬帳の紐づけ。名簿の仕事は地味だが、子どもの生活の基礎になる。


 その日、私はマリベルと一緒に応接室で待っていた。


 やって来た名簿官は、王都で会った者より年配の男性だった。名はカール・メイソン。丸い腹と柔らかな笑顔の持ち主で、最初の挨拶だけなら親しみやすい役人に見えた。


「いやあ、辺境伯様の保護院はいつも書類が多い。子どもが多いと名前も多い。大変ですな」


 彼は笑いながら台帳を開いた。


 私は横からそのページを見て、すぐに違和感を覚えた。


 インクが黒すぎる。


 普通の名簿用インクは、登録時に青みを帯びる。洗礼名や保護名には微細な魔力を含むため、乾くと深い藍色になるのだ。けれどカールの台帳の一部は、光を吸うような黒だった。


「そのページは、いつの登録ですか」


 私が尋ねると、カールは笑顔のまま目だけを動かした。


「去年の冬です。何か?」


「保護名のインクが変色しています」


「古い紙ですからね。北境の湿気は厄介だ」


 彼は軽く流そうとした。


 マリベルが私を見た。彼女も違和感を持っているらしい。


 私は台帳へ手を伸ばす前に、カールへ確認した。


「触れてもよろしいですか」


「名簿師でもない方が?」


「名綴り師として、子どもの衣類と薬帳を照合します。登録名の状態を確認する職務があります」


 契約書に入れておいてよかった。


 カールは渋々台帳を回した。


 黒いインクの欄には、三人の子どもの名前があった。


 リタ、ヨハン、マイラ。


 いずれも保護院で暮らす子どもたちだ。登録自体は正しい。だが、名前の横に小さな記号がある。家名のない子を一時的に商家や工房へ働きに出す際に使われる、奉公候補の印だった。


「この三人は奉公登録されているのですか」


 マリベルの声が低くなった。


「候補ですよ、候補。北境の子どもたちには働き口が必要でしょう。善意の商人が引き取りを申し出ていましてね」


「保護院は同意していません」


「仮登録です。正式ではない」


「仮登録でも、名前に結びつけば子どもへ影響が出ます」


 私は黒いインクの部分を指した。


「これは奉公印ではなく、拘束印に近い。誰が使ったのですか」


 カールの笑顔が薄くなった。


「奥様。いや、今は名綴り師でしたかな。王都の貴族社会の感覚で、北境の実務に口を出されても困ります」


「子どもの名を拘束することが実務なら、困るのは子どもです」


 部屋の空気が張り詰めた。


 カールは台帳を閉じようとしたが、マリベルが手を置いた。


「この台帳は確認が終わるまで保護院で預かります」


「それは規則違反です」


「では辺境伯様に判断していただきましょう」


 カールの顔色が変わった。


 彼は何か言いかけたが、廊下の方から子どもたちの声が聞こえ、口を閉じた。大人同士の争いを子どもの前へ出したくないのは、彼にも分かるらしい。


 出張窓口は中止になった。


 カールが帰ったあと、マリベルはすぐテオドール様へ使いを出した。私は台帳の黒いインクを薄紙に写し取り、糸の反応を見た。


 銀糸を近づけると、わずかに縮れる。


 拘束印だ。


 子どもの名前を、本人や保護者の同意なく奉公先に結びつけるための古い術式。今では禁じられているが、貧しい村ではまだ使われることがあると聞いたことがあった。


 もし正式に発動すれば、子どもは「その店の者」として扱われる。逃げても名簿が戻るよう命じる。悪用すれば、人身売買と変わらない。


 私は寒気を覚えた。


 リタは夜泣きが減ったばかりだ。ヨハンは月の印を選んだばかりだ。マイラは最近、ようやく食堂で自分の席を決められるようになった。


 その子たちの名前が、知らない誰かの帳簿へ売られようとしている。


 夕方、テオドール様が保護院へ来た。


 彼は台帳を見て、表情を消した。怒鳴りはしない。だが、静かな怒りが部屋の温度を下げるようだった。


「マリベル。該当する子どもたちを今夜から職員棟側へ移す。外部訪問者の出入りは制限。エレノア様、拘束印は解除できますか」


「完全解除には元の契約書が必要です。ただ、発動を遅らせる補強はできます」


「お願いします」


 私はうなずいた。


 その夜、リタ、ヨハン、マイラの名札を補強した。子どもたちには詳しい事情を話さず、名札の定期点検だと伝えた。


 ヨハンは袖の月を見て、私に尋ねた。


「これ、取られない?」


「取らせないために、今から強くするの」


「俺の名前も?」


「ええ」


 彼は少し考え、弟のヨナの方を見た。


「ヨナのは?」


「ヨナの星も見ます」


 それを聞いて、ヨハンは安心したように腕を差し出した。


 作業が終わったのは深夜だった。


 テオドール様は最後まで灯りのそばにいた。私が針を置くと、温かい茶を差し出してくれる。


「また厄介ごとに巻き込んでしまいました」


「これは私の仕事です」


「仕事以上の危険があるかもしれない」


「それでも、見つけてしまった以上は放っておけません」


 私は黒いインクの写しを見た。


 名前は、守るものだ。


 けれど名前を扱う者が悪意を持てば、それは鎖にもなる。


 この北境で、私が向き合うべきものは、夫の後悔だけではないらしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ