第1話:朝風呂と、閃光の向こう側
「ツヨシ」シリーズ第9弾が始まります。
湯船に張られたお湯の温度は、きっちり四十一度。
この絶妙なぬるめのお湯に十分間、寸分たがわず浸かることこそが、還暦を過ぎてなお現役のエンジニア精神を燃やすツヨシの一日の絶対的なルーティンだった。立ち込める湯気の中で、目を閉じれば脳裏をかすめるのは昭和の特撮ヒーローたちの雄姿であり、ガチャンガチャンと重厚な金属音を響かせて大地を揺らす巨大ロボットたちの勇姿である。
「くぅ……やっぱり、ロマンってのは手足の関節の絶妙なモデリングと、あの無駄なまでの重厚感だよなぁ……。最新のツルッとしたCGアニメじゃあ、あの鉄の体温が伝わってこねぇんだよ」
ひとりごちながら、ツヨシは洗面器ですくったお湯をパシャリとかぶる。体中の毛穴という毛穴が喜んでいるのがわかる。これ以上の至福がこの世にあるだろうか。
その平和な宇宙が、一瞬にして音を立てて崩れ去ったのは、まさにその時だった。
浴室の換気扇の通気口から、あり得ないほどの強烈な青白い閃光が差し込んだ。
「ん……? 朝日はまだの方角じゃなかったはずだが……窓の向きを間違えたか?」
直後、ドンッ、という文字通りの地響きとともに、浴室のタイルがまるで焼きたてのビスケットのように盛大に砕け散った。地震か、あるいは近所のガスの配管でも爆発したのか。ツヨシが「おいおい、俺のこだわりのタイルが……!」と慌てて立ち上がろうとしたその瞬間、足元の床がごっそりと異次元へ吸い込まれるように抜け落ちた。
重力が消えたようなフワッとした浮遊感。
耳をつんざくような激しい風切音。
目を開けていられないほどの光の奔流の中で、ツヨシの脳裏をよぎったのは、恐怖でも絶望でもなく、なぜか幼い頃に白黒テレビの前で夢中になって観た『鉄腕アトム』のオープニングテーマだった。
――地球の上に、大きな未来がやってくる……。
「……って、俺の未来はどうなっちまうんだよ、これぇぇぇっ!」
盛大すぎるツッコミを置き去りにしたまま、ツヨシの意識はプツリと途切れた。
* * *
鳥のさえずりと、頬を撫でる妙に爽やかな風の感触で、ツヨシはゆっくりとまぶたを開けた。
そこにあったのは、見慣れた自宅の天井や、ヒビ割れた浴室の壁ではない。見上げるほどに巨大で、聞いたこともない形状をした大木がそびえ立ち、頭上にはどこか見慣れない星座が瞬くのか、あるいは二つの月すら見えるような青く澄み切った異国の空が広がっていた。
「……ここは、一体?」
上半身を起こそうとして、ツヨシは自分の格好にハッとした。家では風呂上がりに着るはずだったお気に入りの手ぬぐい一枚と、腰に巻いたバスタオルという、還暦の男としてはあまりにも心許ない、ほぼ全裸に近い姿のまま、ふかふかの青草の上に大の字で転がっている。
ガバッと反射的に立ち上がり、周囲を警戒して見回す。
遠くにはおとぎ話の絵本に出てくるような険しい魔の山脈が連なり、足元には現代の地球では絶対にお目にかかれないような、怪しく七色に光るキノコが不気味に群生している。
「マジかよ……これ、昨今の流行りか? 俗にいう『異世界転生』ってやつか?」
ライトノベルや深夜アニメの定番展開とはいえ、いざ自分がその当事者になってみると、ツッコミを入れる気力すら湧いてこず、ただただ呆れるしかなかった。神様からのありがたいお告げも、異世界言語の自動翻訳チートも、ここには一切ない。あるのは、手ぬぐい一枚と、四十一度の朝風呂でしっかりと温まったばかりの健康な肉体、そして頭脳の隅々にまで染み付いた数々の昭和ロボットアニメの記憶だけだ。
――ガサガサッ、バリバリッ!
突如、背後の深い茂みが激しい音を立てて割れた。
ビクリと肩を揺らし、警戒して振り返ると、そこから現れたのは――体長が軽自動車ほどもある、牙を剥き出しにした巨大な猪型の魔獣だった。野生のそれとは比べ物にならないほど分厚い外皮を持ち、赤い目をギラギラとぎらつかせながら、低い唸り声を上げてツヨシをじっと睨みつけている。
現地で『オーク・ボア』と呼ばれる、旅人にとっては悪夢のような凶暴な魔獣だった。
常人であれば、この絶望的な体格差と牙の鋭さに腰を抜かし、その場で失神している場面だ。だが、ツヨシの脳裏に浮かんだのは恐怖ではなく、なぜか全く別の、エンジニアとしての熱い情熱だった。
「……おいおい、嘘だろ」
ツヨシは思わず乾いた笑いをこぼし、ふっと腕を組んだ。
「こんな絶好のシチュエーションで、身を守る武器すらないのだと? いや、違うな……」
目の前の凶暴な魔獣を見据えながら、ツヨシの心の中で、かつて少年時代に忘れたはずの熱いエンジンがブルンと始動する。
「ここで十万馬力のジェットを噴射できりゃ最高なんだが……まあいい。まずはそのデカブツを丸裸にして、俺のガレージの最初の『素材』にしてやろうじゃねぇか!」
丸腰の初老オタク男が、手ぬぐい一枚で異世界の魔獣に挑むという、前代未聞のファーストコンタクト。
だが、この出会いこそが、静かなる異世界の生態系を根底から狂わせる大冒険の、記念すべき最初の一歩であった。




