第9話 手帳の走り書き 6
ほの暗い、マンションの一室に、麻知子は、いた。
間接照明が、柔らかいオレンジ色の光を、優しく放っている。
「お疲れさん」
と、麻知子の携帯電話越しに、男の声が、響いた。
男の声は、軽い感じだった。
声の主は、雨尾家という、麻知子の属する、組織の上司である。
「お疲れ様です」
と、麻知子は、不快感を隠さずに、言った。
「今日の釣果を、聞かせてもらおう」
「釣果は、そうですね……メダカ二十匹、あたりでしょうか」
「何だ、そりゃ。釣れたとは言えないってのは、何となくわかった」
と、雨尾家は、苦笑した。
組織の任務にあたる場合には、雨尾家の指示を受けることが、ほとんどだった。
雨尾家は、麻知子と能登の、実質的な上司である。
麻知子は、雨尾家と、対面したことはなかった。
連絡手段は、通話のみである。
いつも、こうして、電話越しに指示を受け、任務を遂行し、電話越しに報告するのである。
「能登ちゃんは、どうしてる?」
と、雨尾家が、聞いた。
「寝ていますよ。今は、マンションの私の部屋です」
「まあ、潜入捜査の初日だからな。緊張が解けて、疲れが、一気にきたんだろう」
「起こしますか?」
「いや、そのままで良い。代わりに、お前さんが、報告してくれれば、事足りる話だからな」
と、雨尾家が、言った。
「それで、能登ちゃんのことはきちんとサポートしてくれているのかな?」
「当たり前でしょう。それが、私の仕事です」
「いい返事だ。俺も、心配はしていない」
「心配はしていないが、念は押す。そういうことですね?」
「いちいちつっかなさんな。これも、俺の仕事なんだよ」
「第一、先輩に、潜入任務が向いているとは思えませんが。遂行するには、先輩は、素直すぎるし、無防備すぎます」
「がっちがっちの鉄壁ガードのお前さんよりは、周りのやつらもとっつきやすいだろう?そういうことだ」
「……」
麻知子は、黙ってしまった。
雨尾家の言うことにも、一理あるからだった。
「先輩には、甘くて、私には、当たりが強いような気がするのは、気のせいでしょうか?」
「どうだか。期待されていると思えば、良いんじゃないか?」
「物は考えようということですか?」
「そうそう、それ」
「ですが、物は言いようとも、言いますよ。うまく、ごまかしているだけのように、感じるのですが」
「まあ、その辺で、勘弁してくれ」
と、雨尾家は、言って、
「それで、結局、どいつが、怪しいんだ?」
と、聞いた。
麻知子は、心中、舌打ちをした。
(また、いつもの、無茶ぶりか)
と、麻知子は、思った。
ふと、麻知子は、頭頂部に、柔らかな感触を、感じた。
寝ぼけた能登が、麻知子に、抱き付いてきて、能登の胸が、麻知子の頭に、押し付けられていた。
「ちょ……」
「ん~……良い匂い……」
「寝ぼけないでくださいよ、先輩……ひゃあ!」
能登の手が、麻知子の胸に、伸びていた。
「……ん~?……何で、こんなところに、まな板、あるのかなあ……?きちんと……片付けなきゃ……」
麻知子は、能登の頬を、押しながら、寝かしつけた。
「今の言葉は、寝言ですから、聞かなかったことにします。おとなしく、寝ていてください」
と、麻知子は、静かに、言った。
「……ふぁ?今の言葉って、まない……」
「おとなしく寝ててください!」
麻知子は、布団を、能登の顔に、押し付けた。
「騒がしいな。どうかしたのか?」
と、雨尾家が、聞いた。
「いえ、何でもないです」
と、麻知子は、平静を装って、答えた。
「新たな"爛"の力の調査のための、潜入捜査の任務。潜入先は、出版社。能登ちゃんは、新人の編集者として、入社。その初日。社員数は、約三百人。怪しそうな奴の当たりを、つける必要がある」
「わかっていますよ」
と、麻知子は、不機嫌な調子を隠さずに、言った。
「それで、当たりは、ついたのか?」
電話越しの軽薄な調子の声は、麻知子を、からかっているようでもあり、試しているようでもあった。
「そんなのわかるわけないでょう」
と、麻知子は、反駁した。
「先輩が、潜入捜査の任について、まだ初日なんですよ。どうして、そこまで、特定できると、思うのですか?」
「"爛"の反応が、潜入対象の法人の敷地内で、確認されているんだろう?だったら、後は、経験と勘を便りにすれば、何とかなるだろう。」
と、雨尾家が、言った。
「無責任なことを、言わないでください。では何ですか、雨尾家さんなら、初日で、全て見通せるとでも、言うのですか?」
「そうかりかりしなさんな。でも、敵さんの大凡の姿は、当たりが、ついた」
「え?」
「能登ちゃんとお前さんが、ぱっと見で、感知できないほどには、敵さんも、巧妙ってことだ。もっとも、規模や強さは、まだまだ見えてこないから、油断は禁物だ」
麻知子は、口を半開きにして、一瞬、我を失いかけていたが、
「……私達を信頼してくれていると、理解して良いですか」
「調子にのりなさんな。あくまで、客観的に、分析しただけだ」
と、雨尾家は、笑って、言った。
「そう、ですか」
短く、言った、麻知子の口元には、柔らかな笑みが、浮かんでいた。
「じゃあ、電話、切るぞ。まな板」
雨尾家の忍び笑いと一緒に、電話が、切れた。
麻知子の微笑みは、もう消え去っていた。
麻知子は、小さく、呟いた。
「……いつか、ぶっ飛ばしてやる……」




