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第9話 手帳の走り書き 4

 能登と麻知子は、二つの顔を、持っていた。


 一つは、普通の学生としての顔である。


 通学をして、勉学に励む、学生である。


 もう一つは、世界の理の外の存在である"爛"の殲滅機関の一員としての顔である。


 能登と麻知子は、機関の中の、情報を扱う部署に、配属されていた。


 麻知子は、能登とコンビを組んでいて、能登の部下である。


 年は、能登が、二つ上である。


 麻知子も能登も、普段は、普通の学園生活を、送っている。


 今回は、新たな"爛"の力の調査の為、潜入捜査の任務に、就くことになったのである。


 潜入先は、ある出版社で、能登は、新人の編集者として、入社する予定である。


「新たな"爛"現象を、捉えました。会社、あるいは、それに関連する何かが、大きく、関与しているものと思われます」


「う……ん」


「今回の任務は、その調査です。先輩には、その会社に、潜入していただきます。なので、新入社員に求められるであろう、最低限度のスキルを、先輩には、身につけていただきたいのです」


 と、麻知子が、言った。


「どうしよう、麻知子ちゃん。私、はじめの挨拶とか、全然わからないよ」


 そう言った、能登は、すがるような声で、言った。


「わかっています。先輩は、そういうの苦手そうですからね」


 と、麻知子は、淡々と、答えた。


「新入社員の挨拶のポイントは、三つです。挨拶でしゃべる内容は、色々ありますが、最低限、この三つのポイントを、盛り込むことが、大切です。すなわち、第一のポイントは、自己紹介。第二のポイントは、入社に対する喜びのアピール。第三のポイントは、入社後の意気込み。それぞれに、コツがありますから、今から、説明します」


 うんうん、と、能登は、頷いた。


「第一のポイントである、自己紹介は、先輩が、何者であるかを伝える、一番重要な部分です。面接で顔を合わせた人以外の人達にとって、先輩の顔と名前を、挨拶の場で、初めて、見たり聞いたりすることが多いでしょう。ですから、いかに、顔と名前を、印象づけて、記憶してもらうかが、大切です」


「なるほどー」


 ですが、と、麻知子は、断りを入れて、


「これは、一般的な話で、今回は、潜入捜査ですから、あまり無理して目立つ必要も、ないでしょう。さらっと、名前を言えば、構いません」


 と、付け加えた。


「第二のポイントである、入社に対する喜びのアピールは、言わば、周りの人達との距離を近くすることです」


「……何か、下心がある感じで、嫌だな……」


「それで、周りとうまくいくなら、良いと思います。この会社に入れて嬉しいと言われると、その会社で働いている、社員は、親しみを、持つものです。先輩が、会社に感じた魅力も、併せて、しっかり、アピールして下さい」


「なるほど」


 ですが、と、麻知子は、断りを入れて、


「これも、一般的な話で、今回は、潜入捜査ですから、先輩に、潜入先の会社に対する喜びをアピールして下さいというのは、難しいかもしれません」


「そんなことないよ。この会社が出している、雑誌、良く見るよ。紹介している服も可愛いし、掲載されるショップもお洒落だし、お買い物で、助かっているんだよ」


 と、能登は、微笑みながら、言った。


 麻知子は、呆れたような視線を、笑顔の能登に、向けた。


「どうかした、麻知子ちゃん?」


「……それだと、単なる学生の普通の感想になってしまいますので、私が、会社の雑誌の発行部数や他誌との競合状況等のデータを教えますから、それを使って、会社の成果にフォーカスして、入社の喜びを、アピールして下さい」


 と、麻知子は、言った。


「第三のポイントである、入社後の意気込みですが、言い換えれば、仕事に対する意気込み、ですね。新入社員は、当たり前ですが、仕事はあまりできないです。にもかかわらず、給料が、支給される。新入社員の今後の伸びに期待しての投資というわけです。そうであるならば、投資をしてもらうことに対しての、意気込みを表明することが、必要です」


「なるほど」


 ですが、と、麻知子は、断りを入れて、


「これは、一般的な話で、今回は、潜入捜査ですから、無難にやり過ごしましょう。やる気を、アピールしてください」


 と、言った。


「以上が、新入社員の挨拶についてですが、いかがでしたか?」


 と、麻知子が、聞いた。


「わかったよ!」


 と、能登は、両手で、ガッツポーズを、見せた。


「三つのポイントも、理解できましたか?」


「三つ、ポイントがあったことは、何となく、わかったよ!」


「……」


「……麻知子ちゃん?」


「……いえ、何でも、ありません」


 と、麻知子が、言った。


(本当に、この素直さとやる気だけは、凄いと思う)


 と、麻知子は、思った。


「どうしよう、麻知子ちゃん。私、実は、電卓打つの、そんなに早くない」


 そう言った、能登は、机上の電卓を、右手で持って、麻知子に、見せた。


「それは、わかっています。でも、やるんですよ」


 と、麻知子は、淡々と、答えた。


「このボタンは、何だっけ?」


「ルートボタンですか。ルート計算でしか使いませんから、あまり、出番はなそうですが」


「……ルート9って、81だっけ?」


「3です」


「おかしいな……」


 と、言った、能登は、真剣な顔つきで、眉をひそめた。


「おかしいのは、先輩の計算知識でしょう。とにかく、実践してみましょうか」


 能登は、麻知子の無言の圧に、怯えた様子を見せながら、電卓のキーを、叩いた。


 電卓のキーが押し込まれる音が、ゆっくりと、響いた。


「どう……かな?」


「一つ、聞いて良いですか?なぜ、少し、満足げな表情なのですか?なぜ、やや、どや顔気味なのですか?」


 能登は、自身の髪に触れながら、照れたように、


「良くぞ聞いてくれました!」


 と、言って、


「実はね、電卓だけは、昨日の夜、一生懸命、練習したんだよ。それで、どうかな、私のキータッチ?様になってたんじゃないかな」


 と、続けた。


 麻知子は、目を細めて、 


「かなり、駄目ですね。なぜ、人差し指一本で、キーを、押すのですか?」


 麻知子の、鋭い口調に、能登は、困惑して、


「これが、正しい押し方じゃないの?麻知子ちゃ……」


「間違っているとは、言いません。ですが、適切な入力では、ありません。手元を見ずに、ブラインドタッチをしろ、とまでは、言いませんが、せめて、他の指も、使って下さい。それと、今、入力していただいたのは、百プラス七百でしたよね?」


「うん」


「それを、約三十秒かけて、やっと、入力しましたよね?」


「……うん」


「そして、それで、どや顔でしたよね?」


「……麻知子ちゃん、何か、怒ってる?」


 能登に、覗き込まれた、麻知子は、嘆息して、


「別に、怒ってはいませんよ。呆れているだけです」


 と、言った。


「あ、あはは。相変わらず、手厳しいねえ、麻知子ちゃんは。私、素早く、何かをやるの、すごく苦手なんだ……」


「わかっています」


 能登は、電卓を、机の上に、静かに置くと、横にあった、ノートパソコンを、眺めて、


「それと、パソコンのソフトの使い方とか、表計算とか、バックアップとか、良くわからない」


「それも、わかっています。先輩には、この前は、パソコンの電源を入れるところから、教えましたから。任務を、本格的に、開始するまでに、みっちり指導しますので、心配しないで下さい」


「……私は、麻知子ちゃんの指導のほうが、気になるよ」


 と、能登は、うなだれながら、就職活動者向けの小さな本を、取り出して、ページをめくった。


「それに、アポとかプレゼンとかリスケとか、片仮名だらけの言葉、良くわからない」


 と、能登が、言った。


「了解しています。必要最低限のものだけ、私が、教えます。ちなみに、アポイントメント、プレゼンテーション、リスケジュール、ぐらいは、覚えていてほしいですね」


 能登は、顔を上げて、


「でもでも、オーガニゼイションとオーガズ○だけは、良く覚えたよ!」


 と、自信ありげに、言った。


 麻知子は、顔をしかめて、


「……後者の言葉は、職場では、ほぼ百パーセント使いませんので。それに、その手にした本に書いてあるとは、思えません」


 と、言った。


「おかしいな。雨尾家(あまおや)さんが、『絶対に覚えておけよ。町村のやつも、べた褒めしてくれるぞ』、って、言ってたけど……」


 雨尾家は、能登と麻知子の属する、組織の上司である。


 組織の任務にあたる場合には、雨尾家の指示を受けることが、ほとんどだった。


 雨尾家は、麻知子と能登の、実質的な上司である。


(また、冗談半分に、余計なことを、してくれる)


 と、麻知子は、内心、苦々しく思った。


「TPO、私、美味しくて、大好きです!」


 と、能登が、はきはきと、言った。


「……TPOは、食べ物では、ありません。以前、お話ししました。Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)です。時と場所と場合を考えて、行動せよ、という意味です。ちなみに、和製英語ですから、海外では、通用しにくいです。今の先輩が、まさに、それです」


 能登は、はっと息をのんで、


「前に、教えてもらっていたんだ。オーガズ○……」


 麻知子は、顔を紅潮させて、


「私が言ったのは、TPOのことです!」


 と、声を荒げた。


 質問の声は、とても不安げで、応えの声は、かなり疲弊していた。


 麻知子は、眉間に、指を、当てた。


(本当に、この人と、話していると、自分を、見失いそうになる)


 と、麻知子は、思った。

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