第9話 手帳の走り書き 2
平日の夜の樋野川駅前は、人で、溢れていた。
仕事帰りのサラリーマンが、多い。
桶野川駅の改札は、北口と、南口の、二箇所である。
駅前ロータリーは、二層構造になっている。
下の層は、タクシー乗り場とバスの停留所があり、上の層が、デパートなどの商業施設やオフィス街に、繋がっている。
少女が、声をかけられたのは、駅前のロータリーの広場だった。
広場の時計台の針は、夜の九時過ぎを、指している。
学生である少女には、少し遅い時間帯だった。
「君、可愛いね」
と、少女の後ろから、声が、かかった。
少女が、振り返ると、小綺麗なスーツ姿の男性が、立っていた。
「今、一人?」
と、男性が、聞いた。
嫌味を感じさせない、落ち着いた印象の声である。
「見れば、わかるでしょ」
と、少女が、言った。
「待ち合わせをしているかもしれないしね」
と、男性が、言った。
少女は、男性の足元を見た。
少女は、革靴について、詳しくもないが、そんな彼女から見ても、男性の革靴は、しっかりと手入れがされていて、それなりに高価な品物であることが、わかった。
男性が左腕にはめている、腕時計も、安物ではなさそうだ、と、少女は、心中、値踏みしていた。
(お金持ちそうだな)
と、少女は、思った。
「こんな時間まで、遊んでいるの?」
と、男性が、少女に、聞いた。
「違うわ。予備校の帰りよ」
と、少女が、答えると、
「それは、違うと思うな」
と、言った、男性が、笑った。
「君の鞄」
「え?」
「見るからに、軽そうだ。勉強道具が、詰まっているとは、思えないな。参考書や筆記用具なしで、勉強はできないだろう」
男性の指摘に、少女は、肩をすくめて、
「当たっているわ。遊んでて、さっき、友達と別れたところ」
と、正直に、言った。
「なるほど。君のお洒落な恰好を見ると、遊びも、上手そうだ」
お世辞で、おだてられているのだとわかっていても、面と向かって褒められるのは、少女は、悪い気はしなかった。
「それで。話しかけてきたってことは、何か用?まさか、ナンパ?」
と、少女は、笑いながら、言った。
ナンパ目的で声をかけられたことは、何度も、あったからである。
「おじさん。そこそこ年いってそうだしなあ」
と、少女は、からかうように、男性に、言った。
少女は、自身の容姿に、自信が、あった。
百点満点でいえば、八十点は、いくと、少女は、思っていた。
「大丈夫。ナンパではないし、怪しい者でもない」
と、男性は、言って、名刺を、少女に、渡した。
少女は、名刺を眺めながら、
「ふうん。出版社の人なんだ。有名な会社じゃん」
と、言った。
「まあね。雑誌の編集者だよ」
「本当?」
少女は、少し、興味をもったようだった。
「何て雑誌?」
と、少女が、聞いた。
「Mという雑誌なんだが、知っているかな?」
と、男性が、言った。
「知ってる知ってる。友達で、読んでる子が、いる」
「そうだね。君達ぐらいの世代向けの雑誌だからね」
と、男性は、言って、
「アルバイトを、してみないかな?結構、割の良い、バイトだと思うよ」
と、続けた。
「へえ、いくら?」
「一回、五万円。場所は、ここから近い、ホテルで」
と、男性が、言った。
(……そっち系のバイト、か)
と、少女は、思った。
少女は、そういう経験が、ないわけではなかった。
五万円という金額は、少女にとって、悪い話ではないように、思えた。
(今月は、お財布、ピンチだし。まあ、良いか。でも、この人、馬鹿だな。名刺なんか見せちゃって、こんな話をふってくるなんて。何かあったら、名前ばればれだし、リスクは、少な目。これなら、この人も、あんまり、無茶は、言わないだろうし)
相手の身元が、名刺を見て、ある程度、わかっているということが、少女に、安心感を、与えた。
少女は、にっこりと笑って、
「良いよ。今から?」
「即決だね」
と、男性は、言った。
「そうよ。タイムイズマネー、時は金なり。迷う時間なんて、もったいないもの」
と、少女が、言った。
「若者らしい、良い答えだ。嫌いじゃない」
「ありがとう」
「でも、今日は、良いよ。一週間後に、しよう」
と、男性は、言って、黒い手帳と黒いボールペンを、少女に、手渡した。
少女は、少し、拍子抜けして、男性から、手帳を、受け取った。
少女は、手帳の中身を見ると、白紙の頁ばかりである。
「週単位で、予定を、入れられるようになっている」
「見れば、わかるわ」
「でも、書いてほしいのは、予定じゃない。一週間後に、会うまでに、日記を、つけてほしいんだ。内容は、何でも良い」
と、男性は、言った。
「何か、意味あるの?」
「僕は、真面目なんだ。君と遊ぶついでに、雑誌のネタ探しも、しておこうと、思ってね。最近の読者層の流行とかの調査の一環、アンケートだよ」
(真面目、ねえ)
と、思いながらも、少女は、ボールペンを、受け取った。
「何を、書けば良いの?」
と、少女が、聞いた。
「何でも良いよ」
「そういうのが、一番困るんだけど」
「なら、ファッションに、絞ろう。一日、一行だけ、書いてみて。君は、服、詳しそうだから。最近、これが気になっているとか、そんなことを、適当に、書いてくれれば良い。アクセサリーについてとかでも、オーケーだよ」
と、男性が、言った。
「わかったわ」
と、言った、少女は、軽く、頷いた。
「これを、あげる」
男性は、少女の手に、一万円札を、握らせた。
「前金?」
「いや。君が、即決してくれたお礼だ。五万円とは、別だよ」
「おじさん、お金持ちだね」
「そうでもないよ。余裕がなくても、余裕があるように、ふるまわなくちゃいけないのが、大人の辛いところでね」
と、男性は、苦笑した。
男性の態度に、少女は、相好を崩した。
「じゃあ、貰っておくわ。ちょうど、欲しかった服も、あるの」
と、少女は、笑って、言った。




