第5話 影のパーティー 1
大きな屋敷の一室に、少女は、いた。
その部屋は、高い天井を持ち、壁には淡いクリーム色の上品な壁紙が貼られ、窓辺には、風に揺れる薄いレースのカーテンがかけられている。
日差しは柔らかく、まるで少女を包み込むように、室内へ降り注いでいた。
美しい少女である。
腰までかかる柔らかなブロンドの髪である。
その髪は、陽光を受けるたびに金色の粒を散らしたように輝き、指先で触れれば、絹糸のように滑り落ちそうなほど、しなやかだった。
それは、西洋の赴きを感じさせた。
エメラルドグリーンの瞳である。
光の加減で、深い森の色にも、透き通る湖の色にも見えるその瞳は、幼いながらも、強い意志を宿していた。
端整な顔立ちの中でも、特に印象深い釣り目である。
それは、可憐さを思わせて、同時に、意志が強そうな印象である。
怯えているわけでも、強がっているわけでもない。
ただ、何かを探すように、いつも真っ直ぐに見つめる眼差しだった。
それらがハーフを思わせる、美少女である。
屋敷は、西洋風である。
古い歴史を感じさせながらも手入れが行き届き、重厚な家具や長い廊下の先々に飾られた絵画は、少女の家の格式を、雄弁に物語っていた。
大きな窓の向こうに広がる、広大な庭園には、手入れの行き届いた、色彩豊かな見事なバラが、咲き乱れていた。
風がそよぐたび、花弁は揺れ、香りは、部屋の中にまで漂ってくる。
庭園の中央にある噴水が、太陽の光を受けて、輝いて、見えた。
水は、きらきらと弧を描き、まるで少女を誘うように明るく弾けていた。
少女は、
「お外には、出られないの?」
と、残念そうに、言った。
小さなエメラルドグリーンの瞳が、同じ色をした母親の瞳を、じっと見つめていた。
静かな、しかし拭いきれない切なさを秘めた視線だった。
答えは、わかりきっている。
それでも、諦めきれずに、淡い期待をかけて、聞いている。
そんな感じだった。
少女の母親は、
「ごめんなさいね、綺亜」
と、柔らかく、言った。
少女の頬にかかる前髪をそっと指で払う仕草には、深い愛情が滲んでいた。
「ううん」
と、少女は、首を横に振った。
「ママのせいじゃない」
と、少女は、俯き加減に、言った。
「私の身体が、あんまり丈夫じゃないからだよね。わかってる」
その声には、子どもとは思えないほどの達観があった。
「もう少し、身体の具合が、良くなったらね」
と、少女の母親は、言って、娘のブロンドの髪に、そっと触れた。
指先が髪を梳くと、少女は目を細め、ほんのりと笑った。
少女は、嬉しそうに微笑んだ。
その笑みは小さかったが、精一杯の強さを宿していた。
「どこか痛いところは、ない?」
「うん。今日は、大丈夫」
「咳は、出ていないけれども、胸は、苦しくはない?」
と、母親が、聞くと、少女は、わずかに目を逸らした。
「……」
「綺亜」
「……うん」
母親は、身を屈め、少女の顔と視線を合わせた。
「ママには、本当のことを、きちんと言う約束でしょう?」
少女の母親の問いかけは、穏やかな調子だった。
母親は、返事を待った。
急かすわけでもなく、ただ待っている。
やがて、
「……ちょっと、苦しいかも……」
と、少女が、答えた。
嘘をつきたかったのではない。
ただ、母を心配させたくなかった。
それだけだった。
「そう。今晩は、お薬の種類を少し増やしたほうが、良いわね」
「あのブルーの飲み薬、美味しくない……」
と、少女は、言って、頬を膨らませた。
「そうね。苦いわね」
と、母親が、笑った。
「私は、飲めないけれども、綺亜は、我慢して飲めてしまうのだから、凄いわ」
「……我慢して、飲む」
小さく呟く口元は、意地を張りつつも、誇らしげだった。
「良かった」
母親は、微笑んで、少女の頭を撫でた。
「……パパは、今日は、お家に帰ってくるの?」
と、少女は、気を取り直したように、聞いた。
「パパは、お仕事が、忙しくてね……」
母親は、
「ごめんね」
と、静かに、笑った。
その笑みの奥には、語り尽くせない不安と、疲れが潜んでいた。
少女は、伏し目がちだった顔を、上げた。
「そっか」
と、少女は、首を縦に振った。
少女は、目を輝かせて、
「パパは、この街の"シュゴシャ"のお仕事で、忙しいんだよね」
と、言った。
「そう……ね」
真っすぐな少女の瞳から、逃げるように、母親は、寂しそうに、笑った。
母親を元気づけようと思ったのか、少女は、笑って、
「私、頑張るから。私も、パパとママみたいな立派な"シュゴシャ"になる!」
母親のブロンドの髪が、揺れた。
「そうしたら、パパとママと一緒に、お外で、遊べるかな?」
その問いに、母親は、それには答えずに、少女の頬を、優しく撫でた。
少女は、その一瞬の沈黙に気づいたが、何も言わなかった。
カーテン越しに差し込む淡い光の層が、静かに室内へ沁み込むように広がっていた。
そのやわらかな明るさが、夜と朝の境界をぼかしながら、綺亜の閉じたまぶたを、そっと押し上げる。
薄い羽毛布団の温もりは、まだ身体にまとわりついていて、寝起きの曖昧な意識が、現実へと浮上するのをためらっているようだった。
綺亜は、ゆっくりと目を開いた。
視界がぼんやりと白んでいる中で、部屋の輪郭が、ゆっくりと形をとり始める。
「……夢……か」
と、綺亜は、吐息に似た声でつぶやいた。
その声音は、ぼんやりとしていた。
自分自身の耳にさえ、頼りなく聞こえる。
胸の奥に残っているのは、遠い日の温もりだった。
過去の記憶にしか存在しないはずのものが、まだ肌に触れているかのような錯覚を与えていた。
夢は、ただ優しいだけではなかった。
忘れたはずの痛みを、そっと呼び覚ましてくる。
胸の奥が、じんわりと痛んだ。
喉の奥に、熱が滲んでくる。
コツ、コツ、と正確に時を刻む時計の針の音が、いつもより鮮明に耳に届いた。
静まり返った寝室に、その規則正しい響きだけが、淡々と流れている。
綺亜は、ゆっくりと天井を仰いだ。
白い天井は無機質である。
何も語らないはずなのに、今日だけは、過去の影が薄く映っているように思えた。
(お母様の夢を見たのは、久しぶりね)
と、綺亜は思った。
思い出したくなかったはずの記憶は、夢という形で、容赦なく綺亜を捕まえていた。
胸の奥に薄い膜のように張りついていた哀しみが、温められた塵のようにふわりと舞い上がり、ゆっくりと広がっていく。
それを、綺亜ははっきりと感じていた。
「……」
ベッドから上半身を起こすと、空気がひやりと肌を撫でた。
綺亜は伸びをすることもなく、ほとんど機械的な動作で枕元の小さな棚に手を伸ばし、写真立てを手に取る。
冷たいガラス面が指先に触れ、現実へ引き戻される。
写真の中心に写っているのは、小さい頃の綺亜だった。
幼い少女は満面の笑みを浮かべている。
その笑顔は、眩しいほど無垢で、どこにも影がない。
場所は屋敷の庭園だった。
今も手入れはされているが、あの頃、綺亜が外へ出られたのはほんの数分だけだった。
限られた特別な日だけに与えられた、ささやかな自由だった。
それでも、その短い時間は、綺亜にとって宝物のように輝いていた。
写真の綺亜の左右には、父親と母親がいる。
父の大きな手が少女の肩に添えられ、母の細い腕は少女の手を優しく包み込むように握っていた。
その暖かな連なりを、今触れれば指がすり抜けそうなほど、遠い。
綺亜は目を細め、
(何を、感傷に浸っているのかしら、私は……)
と、自分に言い聞かせた。
しかし、胸に広がった痛みは、言葉だけでは散ってくれなかった。
「お嬢様。おはようございます」
控えめなノックの音とともに、メイドの声がした。
その瞬間、綺亜の意識は現実へと完全に引き戻される。
長いまつ毛が小さく震えた。
「もう起きているわ」
と、どこか面倒そうに答える。
感傷の余韻を他人に覗かれたくない、そんな気配がその言い方に滲んでいた。
ベッドから降り、薄いピンクの下着姿のまま姿見の前に立つ。
寝起きの自分の顔は、どこかまだ夢の世界に取り残されたようで、綺亜自身でもぼんやりしているのがわかった。
「……夢なんて……見れなければ、良いのに」
二の腕をさすりながら、小さくつぶやく。
鏡の中の自分は、まだ残る幼さと、少女らしからぬ強さ、そのどちらも隠せずに混ざり合っていた。
着替えを済ませ、長い廊下をゆっくりと歩いて食堂へ向かう。
屋敷の内部は朝の静けさに包まれており、使用人たちの足音すら控えめだ。
まるで屋敷そのものが、主の心の乱れを察して、遠慮しているかのようだった。
朝食をとり、そこそこの時間をかけて食後の紅茶に口をつけた綺亜は、湯気の向こうに立つ執事長の時田に視線を向けた。
「それで、操影の魔術"影法師"を使う"爛の王"の足取りは、つかめたのかしら?」
問いは淡々としている。
だが、言葉の端に鋭さが宿っていた。
「いえ」
時田の否定の言葉だった。
「残念ながら、つかめておりません」
と、時田は静かに答えた。
その冷静さは、綺亜が幼い頃から、変わらない。
綺亜は、紅茶を一口飲み、熱を感じる間を一拍置いてから、
「そう。最善を尽くしてくれているのは、わかってるから、これ以上は、言わないわ」
と、口にした。
しかし、その声には、抑え込んだ苛立ちが、微かに混じっていた。
「よろしいでしょうか、お嬢様」
と、時田が言う。
その前置きが、綺亜の不機嫌を、わずかに刺激した。
「何よ」
感情を隠さず、鋭い声で返す。
時田とは、短い付き合いではない。
この言い方のときは、何か言いにくい話が続くのだと、綺亜は、すぐに察した。
「かの"月詠みの巫女"は、"爛"の光……即ち、その所在を、ある程度、感知しうると聞き及んでおります」
と、時田は淡々と続けた。
「七色……御月七色のことを、言ってるの?」
綺亜の眉が、わずかに動く。
時田は、その反応を確かめるように、目を細めた。
「過日の北条製薬での出来事では、"月詠みの巫女"の動きもあり、人工の"爛"の精製研究の存在を暴くことができました」
と、変わらず静かに述べる。
「別に、あちらが自身の都合で動いただけのことでしょう?」
綺亜は、わざとらしく、肩をすくめてみせた。
「それとも、"月詠みの巫女"に感謝の意を述べることでも必要なのかしら?」
皮肉を込めた響きだった。
しかし、時田の返事は、迷いもなく、
「はい。必要です」
綺亜は、言葉を失った。
ティーカップの縁を指で触れ、気を紛らわせる。
時田は、いつでも綺亜に真正面から意見をぶつけてくる執事長である。
綺亜は唇を噛み、内心で、
(時田の言ってることは、正しい)
と、認めざるを得なかった。
だが、正しい、からといって、素直に飲み込めるものではない。
「"月詠みの巫女"と協力されては、いかがでしょうか?」
その提案に、綺亜は息をのみ、
「……共同戦線ということ?」
と、確認するように問う。
時田は、ゆっくりと首肯した。
綺亜は鋭い視線を向けるが、時田は、それを受け止めたまま動揺しない。
長年の信頼の形が、そこにあった。
「倉嶋は、この街、樋野川の"守護者"として、表からそして裏から、護ってきた」
綺亜は、ティーカップをゆっくりティーソーサーに置く。
その所作は、優雅だった。
だが、内心はざわついていた。
「さようでございます」
と、時田は、応じた。
「今までずっとそうしてきたし、これからもそう。この地を護る者は、"守護者"であって、それが、全てよ」
言い切った綺亜の胸の奥で、わずかな自負と焦りが、せめぎ合う。
「……私では不足って……! そう言いたいの、時田?」
声が、荒くなる。
しかし、時田は眉一つ動かさず、静かに答えた。
「そうではありません。何事も、お一人の力で為すことには、限界があることを、知っていただきたいのです」
そして、さらに踏み込む。
「協力に前向きになれないのは、お嬢様ご自身の気持ちがあるのでは、ないですか?」
「……何よ、それ」
綺亜の声に、棘が増した。
「お嬢様が、あの朝川という少年に、恋愛感情を持っていらっしゃることは、存じております」
「な……」
綺亜は、完全に、言葉が途切れた。
胸の奥が、跳ねるように熱くなる。
「私は、彼を全面的には認めておりませんが、見どころがある少年かと、思います」
と、続ける時田に、
「べ、別に、私は、彼方のことなんか……」
と、綺亜は、視線を泳がせた。
その否定は、弱々しく、説得力に欠けていた。
「そのあたりの問答は止めましょう」
時田は、まっすぐ綺亜を見据える。
「私の目が節穴だとお嬢様が断じない限りは、時間の無駄かと存じます」
綺亜も、負けじと睨み返すが、その視線はやがて揺れ、瞳を閉じてしまう。
「……否定は、しない」
綺亜は、かすれた声で、認めた。
「恋愛感情は、私情です」
「……」
「一方で、お嬢様には、"守護者"の使命があります」
「私情を挟むなと言いたいんでしょう。わかってるわよ、そんなこと」
綺亜は、冷たく言い放った。
しかし、時田の答えは予想外だった。
「いえ。逆です」
綺亜は、戸惑い、瞬きをした。
時田は、言葉を継ぐ。
「お嬢様のお年頃で、恋愛感情の類を拭い去ることは、決してできません。いろいろな感情が一緒くたになっていて当然なのです。それが許されるのが、思春期の特権です」
綺亜は、返す言葉を失い、唇を閉じた。
「"月詠みの巫女"ある御月七色も、朝川彼方に好意を抱いていると思われます」
「それは……」
綺亜は、再び言い淀む。
「お嬢様と御月七色は、恋敵というわけです」
淡々とした指摘なのに、胸に刺さる。
「相手に負けたくないというお気持ちはわかります。しかし、残念ながら今のお嬢様は意地を張られているだけです。ご自身のお気持ちから目を背けてしまわれています」
綺亜は、喉の奥が痛むのを感じた。
「……」
「ご自分の本心からも、逃げてしまっているだけです」
「……私のことを、わかってるようなこと、言わないで!」
叫び声が、食堂の空気を震わせた。
しかし、時田は、ただ静かに言う。
「わかりますとも。お嬢様を、ずっとお世話してきたのですから」
綺亜は、もう何も言えなくなった。
「負けたくないというのなら、正々堂々と、誇りを持って勝負をして良いのです」
と、時田は告げる。
「"守護者"として、"月詠みの巫女"と共に、仇敵を討てば良いのです」
綺亜は、唇を震わせる。
「……」
「そして、一人の女性として、恋敵と競えば良いのです」
その言葉に、綺亜は、思わず視線を逸らした。
胸がざわつき、深い呼吸がうまくできない。
「……もう行くわ。車を出して」
と、かろうじて絞り出す。
「承知しました」
時田が答える声は、変わらず落ち着いていた。
綺亜は席を立ち、背筋を伸ばした。





