第4話 巡り合いの交錯 10
北条製薬の桶野川研究所の落成式の事件の翌日になった。
社長である北条は、社長室で、煙草を吸っていた。
机には、新聞が、広がっていた。
北条が見ていた記事は、昨日の落成式での火災に関するものだった。
北条は、
(大々的に、書きたててくれるものだな)
と、思った。
出席者に怪我人が出なかったことは、不幸中の幸いだった。
だが、火災の件での悪印象は、しばらくの間、拭えそうになかった。
形式的には、火災を起こした犯人は、北条製薬の元社員である春野だったわけである。
公式発表的には、それが事実となっている。
マスコミ各社にも、そうアナウンスしている。
だから、マスコミ各社は、あることないことを含めて、好き放題に、記事を書いていた。
元社員が、自身の勤め先の会社に、火をつけたわけである。
社員の会社への恨みであるとか、社内の派閥争いが遠因であるとか、パーティー出席者の事情からの憶測など、ゴシップなネタまで、書かれる始末だった。
企業のブランドについたマイナスイメージは、当分の間、払拭できそうになかった。
情報社会の現代では、ブランドイメージが、重要である。
北条製薬の桶野川研究所の落成式でさらなるイメージの向上を狙っていた。
それが、イメージ戦略という点で言えば、裏目どころか、真逆の効果を生み出してしまった形である。
(臥薪嘗胆。)
と、北条は、苦々しく、思った。
(我慢の時、か)
現代は、情報社会だ。
情報が豊かだとも言えるし、情報が溢れているとも言える。
次から次に、新しいニュースが出てくる。
だから、今回の火災の一件も、今でこそ大いに話題になっているが、そのうちに、世の中の関心は次のニュースに移っていくだろう。
それを、待つしかない。
瀟洒なガラス製の灰皿には、二十本近くの吸い殻が、積もっていた。
「丹野のやつめ」
と、北条は、いまいましそうに言った。
「あれだけ、目をかけてやったのに。いざという時に頼りにならない男は、信用できんな」
丹野に一任していた、人工の"爛"の精製の資料は、今回の火災で、大部分が逸失した。
当の丹野も、死んでしまっている。
しかし、死因は、焼死ではない。
何者かに背後から鋭利な槍のようなもので貫かれた形跡があった。
しかも、その詳細がよくわからない。
ただ事ではない。
原因の把握や究明、今後の次善策、そういったものの目途がまったくたっていない。
北条は、
(態勢の立て直しには、相当期間を見込んだほうが、よさそうだ)
と、思った。
北条は、新たな煙草に、火を付けた。
考え事があると喫煙量が増えるのは、北条の昔からの癖だった。
女性秘書が、内線で、来客を告げた。
「今日は、誰も通すなと言っただろう」
と、北条は、苛立ちながら、言った。
「申し訳ありません」
と、そう言った秘書だったが、
「……松木リベラルの松木会長ですが、よろしいのですか?」
秘書の遠慮がちな確認に、
「……松木会長……だと?」
と、北条は、上擦った声を上げた。
北条製薬は、総合商社である松木リベラルの傘下に、おさまっている。
北条は、松木リベラルのトップである松木を、招かないわけには、いかなかった。
「お呼び立ていただければ、私が、参りましたのに。わざわざ足をお運びいただき、ありがとうございます」
と、北条は、言った。
松木は、落ち着いた声で、
「いや。そんなに、かしこまらないでくれ」
と、言った。
「お互い、多忙の身だからね。用件は、すぐ終わる」
「恐れ入ります」
「昨日は、大変だったね」
「いえ。松木会長にも、多大なご迷惑をおかけしまして、大変申し訳ございませんでした」
「煙草の匂いが、残っているな。まだ、やめられないのかね?」
と、松木が、聞いた。
「努力いたします」
黒革のソファーに、ゆっくりと腰をおろした松木は、
「単刀直入に、聞こう」
と、言った。
「"爛"の力に、手を出したかね?」
北条は、内心の動揺を殺しながら、松木を見た。
「……申し訳ありません。おっしゃられる意味が、わかりません」
と、北条は、堅い表情で、答えた。
「君は、優秀な人間だ」
と、松木は、笑った。
「私が言っている意味が、君なら、わかるはずだ」
「……」
北条は、押し黙った。
「だから、こうして、チャンスを、最後に一度だけ与えている。良く考えて、返答したまえ」
北条は、無言だった。
「君がいなくなると、それなりに、政財界に影響が、出る。なるべく、余計な波風は、立てたくないのだよ」
と、松木は、言った。
翌日の新聞に、北条製薬のことが、載っていた。
桶野川市の研究所の落成式での火災事件の続報と、北条社長の引責辞任の発表である。
北条社長は、退任後は、一切の職に就かず、引退すると表明した。
まだ五十二歳ということで、早い引退劇に、各界から、驚きの声があがった。




