第2話 夕暮れの贈り物 8
日は、すっかり落ちていた。
あたりは、もう暗い。
住宅街から少し外れた場所に位置する土手だった。
堤防道路に辿り着いた七色と彼方は、無言で、さらに進んだ。
「……」
「……」
やがて、河川敷まで辿り着いた。
雑草が生い茂っているところを抜けると、少し開けた場所に出た。
静かだった。
草の揺れる音。
川のせせらぎ。
それらが、はっきりと聞こえる程、辺りは静寂に包まれていた。
そこで、先程会ったばかりの少女が、棒立ちになっていた。
少女は、一人ではなかった。
少女の前には、三十代と思われるスーツ姿の男性が、尻餅をついていた。
男性は、大きく呼吸している。
それに、起き上がる気配はない。
どうやら立てないらしかった。
七色は、
「そんな……」
と、うめくように、言った。
その声は、強張っていた。
少女に見覚えのある彼方も、七色のその声に、言葉を失った。
「あの子から、"爛"の気配……」
「……」
彼方は、黙った。
いやな予感はしていた。
ただ、改めて七色の口からその言葉を聞くと、その予感が的中していたことを思い知らされた。
("爛"……)
知らない言葉ではない。
知っている言葉だ。
つい最近知った言葉である。
七色は、
「どうして……」
と、二の句を継げない様子だった。
「御月さん……」
彼方がそう言葉を投げかけると、七色は、小さくはっとしたようにして、すっと居住まいを正していた。
七色は、少女と男性の間に入ると、
「大丈夫ですか?」
と、男性に、聞いた。
男性は、
「ああ」
と、首を縦に振るのが、やっとの様子だった。
静かだった。
草の揺れる音。
川のせせらぎ。
それらが、はっきりと聞こえる程、辺りは静寂に包まれていた。
「何で……」
険のある声が、夜風に、響いた。
「邪魔をするの、お姉さん?」
そこで、先程会ったばかりの少女が、棒立ちになっていた。
「……」
答えない七色の代わりに、彼方は、前に進み出ていた。
「春野……美香ちゃん、だよね」
少女は、
「え?」
と、小首を傾げた。
意表を突かれたという感じですらある。
そんな少女の態度に違和感をおぼえながらも、彼方は、
「どうして、君が……」
と、言いかけたのだが、
「どうして、私の名前を知ってるの?」
と、逆に問われる形になった。
訝しげな顔をした少女である。
その表情に、彼方も、戸惑ってしまった。
「どうしてって……」
彼方は、口の中が乾いているのを自覚しながら、
「さっき会ったばかりじゃないか」
と、続けた。
「会ったばかり?」
少女は、怪訝そうに、眉をひそめた。
「私は、お兄さんたちなんか知らない」
少女は、彼方と七色を睨みつけて、
「……頭、痛い」
と、言った。
「……邪魔だから、そこをどいてよ」
彼方は、
「……何で……」
と、言い淀んだ。
「目の奥が、ずきずき……する」
少女は、こめかみを押さえた。
「……がんせいひろう……痛い……」
目の奥がずきずきしていて、少女は、うめいた。
「お薬、飲まなきゃ……」
少女の足取りは、おぼつかなかった。
少女の様子が、おかしいのは、明白だった。
七色が、
「あの子は、願いに、侵食されてしまっています」
と、七色が、言って、
「自身の記憶さえ、蝕まれはじめている」
と、続けた。
「記憶を失ってしまっている、ということ?」
彼方に聞かれた七色は、頷いた。
小首を傾げた少女は、
「……願い?」
と、にっこりと笑った。
「うん、あるよ」
少女は、一呼吸おいてから、
「パパに、昔の優しいパパに戻ってもらうこと」
少女が右手を開いた。
それと同時に、砂利が、竜巻のように舞い上がった。
「ああああああああああああああああああああああああああーーーーっ!」
尻餅をついて、立ち上がれない男は、叫んだ。
「やめろ! やめろ!」
「やめろ……?」
と、少女は、嘲笑した。
「やめてくれええええええええええええええええええええええ!」
「やめないよ」
少女は、宣告するように言った。
「私が、パパにお酒を止めてってお願いした時、パパは、私の言うことを、聞いてくれたのかな?」
少女の服は、破れかけていて、肌が、あらわになっていた。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「やめないよ」
少女は、宣告するように言う。
「私が、パパにもうぶたないでってお願いした時、パパは、私の言うことを、聞いてくれたのかな?」
少女の胸や腹には、所々に、痛々しい痣が、あった。
「私は、お星さまにお願いしただけ!」
竜巻が、一層大きくなった。
「ママが死んじゃって、とっても寂しかった!」
少女は、男性を見やって、
「でも、パパが優しくしてくれた……」
男性をにらみつけた少女は、
「でも、パパは変わっちゃった……!」
激高の声が、あたりに響いた。
七色が、立ち上がった。
進み出た七色に、彼方は、
「待って! 御月さん」
静かだった。
草の揺れる音。
川のせせらぎ。
それらが、はっきりと聞こえる程、辺りは静寂に包まれていた。
「……何か方法は……!」
「彼女は、"爛"、です」
七色の手には、双つの剣が握られていた。
「力の暴走、です」
「……」
「"爛"としての顕現に、身体が、耐えられなくなっています」
七色の双振りの剣は、西洋風の両刃のものだった。
「この子の自我は、もう消えてしまう」
「どいてよね、お姉さん」
七色は、答えずに、双剣を、構えた。
「私は、"月詠みの巫女"」
と、七色が、言った。
「世界の理の外の存在……"爛"」
宣告するような七色の声だった。
それは、澱みなかった。
そして、澄んでいた。
七色は、
「そを討ち滅ぼす者」
と、少女に向かって、言葉を続けた。
「この世界が、かく在るための理を祈る……それが、巫女の務めです」
七色の言葉は、静かだった。
少女、春野美香は、ゆらりとその小さな身体を傾かせた。
美香は、澱んだ目で、立ちふさがった七色を睨みつけた。
「私はね、パパを、懲らしめようとしているだけなんだよ?」
「……」
「悪い悪いパパをね」
美香が、一歩前に出た。
「それなのに、どうして、邪魔をするの?」
「そして、既に暴走してしまった"爛"は、討つしかありません」
七色の両手には、日常離れした、双つの剣が、鈍く、輝いていた。
「御月さん、それは……!」
「……それしかないんです!」
七色の大きな声に、彼方は、驚いて、言葉を失っていた。
七色は、そのまま、目の前の"爛"である美香に向かって、駆け込んでいた。
短く息を吐いた七色は、横薙ぎを、放った。
だが、少女に届く前に、
「……!」
その一閃が、停まった。
彼方が、目を凝らして良く見ると、少女と七色の間には、半透明に輝く大きな壁があった。
「これは……」
壁は、大理石のナクソスホワイトの色をした巨大な盾へと、その形を変えた。
「"乙女の涙"……」
美香は、宣言するように言って、
「この自由自在に操れる盾のことを、そう呼んでるの」
と、続けた。
「……」
七色は、構え直した。
ざりと砂利が音を立てる。
美香は、
「なんでそう呼ぶのかは、私も知らないし興味もない」
と、まるで他人事のようにそう言った。
「……」
「だけど、そう呼ぶんだってことはわかってるんだ」
「……そう、ですか」
言うや、七色は、駆けていた。
一瞬で、美香との距離が詰まる。
美香が、眼前の七色の姿を捉えながら、
「へえっ!」
と、嬉々とした声を上げる。
七色が、続けて放った、縦薙ぎだった。
そして、重たい鈍い音が鳴り響いた。
七色の斬撃は、美香の創り出した盾に簡単に弾き返された。
「……っ!」
攻撃を弾かれた勢いで、七色の身体が大きく後退する。
その隙を逃さずに、
「……えあっ!」
と、美香が、勢いよく、盾を突き出す。
ごっと、激しい風圧が、生まれる。
地面の土が、大きく削り取られた。
風圧によって、七色の身体が、押し出された。
風に吹き飛ばされた、という表現が適当かもしれない。
まるで、即席のタイフーンだった。
「……っ」
転倒まではいかないものの、七色は、片膝をついて着地していた。
「うん」
と、頷いた美香は、
「お姉さんの剣の威力は、もうわかった」
と、つまらなそうに短く言った。
美香は、ふらりと一歩、歩を進めた。
「すぐに殺してあげるよ」
柔らかい感情の声で、そう言う。
「全然怖くなんかないよ。痛いのは、一瞬だけだから」
美香は、盾を、軽々と扱って、両手を、広げた。
「それに、怖い思いをして欲しいのは、パパだからね」
「……」
七色は、美香の言葉には応えずに、ただ無言で剣を構えた。
その時、彼方は、七色の前に立った。
「朝川さん……?」
と、七色が、とまどった声をあげた。
彼方は、横目に七色を捉えて、
「待って、御月さん」
と、言った。
それから、彼方は、美香に向き直った。
「なに?」
美香は、立ちふさがった形になった彼方を見た。
うっとうしそうに、目を細めていた。
彼方は、
「美香ちゃん……やめるんだ」
と、呼びかけた。
「いやだよ」
美香は、あっさりとそう言った。
「やめるんだ」
「なんで?」
彼方は、美香の問いには答えずに、
「……やめよう」
と、言った。
「……やめないよ?」
美香は、けらけらと笑った。
「だって……」
激高したはずみで、美香の髪飾りが、外れた。
「私に、やめる理由なんてないもの!」
セミロングの髪が揺れて頬に触れても、美香は、一向に構わない調子で、
「さあ、続けようよ、お姉さんたち」
と、盾を前に突き出した。
彼方は、
「それでも……駄目なんだ!」
と、うめくように言った。
彼方は、美香の前に、走り出していった。
「駄目なものは、駄目だって?」
と、美香が、言った。
「笑わせないで!」
彼方の目の前に、盾が、迫っていた。
「理由も言わないで、言いたいことだけ言うのは! 子供の特権だよ、お兄さん」
次の瞬間。
七色の剣が、盾を受け止めていた。
「ばーかっ!」
美香は、吠えた。
七色は、
「……重いっ!」
と、うめいた。
盾は更に突き出されて、七色の身体が大きく弾かれた。
「御月さん……!」
七色の身体が、宙を舞っていた。
やがて、そのまま、地面に叩きつけられた。
「お兄さんのせいだよ」
美香は、せせら笑って、
「お兄さんを、庇おうとして、無理な体勢で、剣を構えたから」
彼方は、
「……っ!」
と、美香の両肩を掴んだ。
「……」
「……」
見た目通りだった。
見た目通りの、歳相応の小さな弱々しい肩だった。
美香は、彼方の行動に、戸惑ったように一瞬目を開いたようにした。
だが、すぐに、
「……触らないで……!」
と、叫んだ。
盾に、殴られた彼方の身体が、転がった。
身体が、悲鳴をあげた。
鈍痛。
そして、激痛。
今までに経験したこともない痛みである。
しかし、経験したことがないと言っても、深刻な事態であることは理解できた。
彼方は、
(……まず……い……)
と、思った。
起き上がろうとする。
しかし、起き上がろうとしても、背中と右肩に、激痛がはしって、どうにもならない。
「あ……」
意味をなしていない声だけが口からもれていた。
身体がいうことをきかなかった。
ふうん、と、美香は、鼻をならした。
「お兄さんは、お姉さんと違って、本当に、普通の人、なんだね」
「……」
「かわいそうだから、あまり痛くないようにしてあげる」
嘲りの色の込められた美香の言葉は、彼方の耳には、掠れて届いていた。
桶野川市と隣の市の境界である川を挟んだ対岸である。
静かだった。
草の揺れる音。
川のせせらぎ。
それらが、はっきりと聞こえる程、辺りは静寂に包まれていた。
河川敷には、人影が、あった。
ネイビーのトレンチコートを着た男が、立っていた。
男は、ネイビーの帽子を、目深に、被っていた。
その男は、
「面白いことになってきましたねえ」
と、誰に言うというわけでもなく、そう笑った。
「人工の"爛"の精製。しょせんは、急づくりの模造品にすぎませんが、我々の叡智を、人間風情が、ここまで活かせるとは、想像以上の成果だ」
男は、続けて、
「あの"爛"の少女の自己防衛の本能の投影が、あの盾か。中々のものです。一方、"月詠みの巫女"は、手痛い一撃を、受けたようだ。あの壊れかけの"爛"が、もしかすると、面倒な巫女を片付けてくれるのかな」
と、言った。
「それにしても、あの少年は、何だ。普通の人間が、"爛"の一撃を喰らって、生きているのは意外だし、妙でもある」
男の影が、蠢いた。
「まあ、良い。もう少し、手合いを、見物するとしましょう」
男の姿が、闇に、溶け込んだ。
"爛"の少女、美香は、
「大丈夫」
と、柔らかく、言った。
「苦しいのは一瞬だよ、きっとね」
彼方は、
「……く!」
と、何とか片膝をついて、身を起こした。
再び美香と向かい合った彼方だった。
それを遮るように、立っていたのは、七色だった。
七色は、
「朝川さん」
と、言った。
「御月さん……」
「お願いですから、そのままで、いて下さい」
七色は、剣を支えにして、立ち上がった。
七色の言葉は、身体の痛みではなく、心の痛みをごまかしながら、絞り出されたような調子だった。
「待って! 御月さん」
と、彼方は、言った。
「美香ちゃんは、まだ美香ちゃんなんだ」
「わかっています」
彼方は、七色を見て、
「声だって、届いているんだ」
「わかっています」
と、七色の前髪が揺れた。
その前髪は、その七色の表情を隠した。
「朝川さんの言っていることは、正しいと思います」
「……」
彼方は、七色を、見た。
「でも」
そう言って、一呼吸おいてから、七色は、
「朝川さんがやっていることは、偽善で無意味な行為です」
と、突き放すように言った。
「そう……言ったら、わかってくれますか?」
七色の声は、少し震えていた。
彼方は、悲しそうに歪めた七色の瞳の色を、看過できなかった。
「……御月さんは、わかっているよね」
「……」
「偽善や無意味なんかじゃないと、信じているよね」
「……」
「何で、そんなこと……」
彼方の言葉は、最後まで続かずに、
「こうでも……!」
と、七色が、叫んでいた。
「こうでも言わないと、朝川さんは、止まってくれないから……!」
七色は、声を、上げた。
彼方がはじめて聞く、七色の強い感情の声だった。




