第11話 組織のあり方 3
能登は、朦朧とした意識の中、雨尾家の声を聞いていた。
能登の位置からは、暗がりの中では、雨尾家の姿を捉えることができなかった。
(来て……くれたんだ)
と、能登は、思った。
「何なの、あんた」
と、能登に馬乗りになったままの木村が、苛立った声で、聞いた。
「正義の味方だよ」
雨尾家は、当たり前のように、言った。
「そいつから、離れろ」
「籠原さんの知り合いなのね?」
と、木村が、聞いた。
雨尾家の声が、一段と低くなって、
「聞こえなかったか?離れろと言ったんだ」
雨尾家は、大股で歩いてきた。
(まったくのノーガードで、ずかずかと……!)
新たに取り出したナイフを握って、木村は、立ち上がった。
木村の警戒心が、目の前に現れた人物は危険だと、自身に告げていた。
(まずは、距離をとるべきだ)
と、木村は、思って、忍び足で移動しはじめた。
「悪くない判断だ。相手の力量を推し量れる程度の力量は、あるみたいだな」
と、雨尾家は、言った。
「偉そうな口をきかないでほしいわ」
木村は、静かに、移動した。
「大体、何なのよ、あんた」
と、木村が、煩わしそうに、言ったのに対して、雨尾家は、苦笑して、
「おいおい、この流れからしたら、もう一つしかないだろう」
雨尾家は、重たい靴音を立てて、一歩進んだ。
「お前を、ぶっ倒す。それだけだ」
暗がりの中、木村は、笑い飛ばしていた。
「笑えない冗談だねえ」
「まあそうだろう。冗談じゃないんだからな」
と、雨尾家は、言って、
「そいつを人質に取られると厄介だなと思ったんだが」
と、続けた。
「あんたには、あまり効果が高くなさそうだもの。脅して武器を捨てさせると言っても、あなたは何も持っていないし、仮に武器を捨てさせることに成功したとしても、あんたは目的のためなら躊躇なくそれを遂行するタイプの人間よ。目を見れば、わかるもの。この場合、人質は、意味をなさないし、邪魔でさえあるわ」
「ほう、そう見えるのか」
「そうね。すごく薄情そう。それに、この人質は、このまま出血多量で、もうじき死んじゃうもの。利用価値自体、あまりないわ」
そう言って、木村は、暗がりの中に溶け込んだ。
もう、木村は、声を発しなかった。
「どうした。おしゃべりは終わりか?」
雨尾家の声だけが、静かな暗がりの中で、響いた。
雨尾家は、目を細めて、辺りを見回した。
「壁紙、フローリング、テーブルに椅子、全て、黒系統だな。お前にとっては、この暗がりの中では、有用な障害物になるな」
(こいつ……)
「この暗がりは、意図的に作ったんだろう。さしずめ、暗がりの中でも、平常時と変わらない視界を確保できる力、といったところか。俺が何の得物ももっていないのを、離れた位置から見えていたのが、何よりの証拠だ」
と、雨尾家は、淡々と言った。
暗闇で目が慣れてくるまでは、個人差があるが、一般的に言って、十分から三十分ほどだとされている。
暗いところに長い間いると、目が慣れてものが見えるようになる現象は、暗順応と呼ばれるが、これは、光を感じる桿体細胞の中で光を感じる物質が増えることによって起きる。
人間の目には、光が網膜に入る量を調節する虹彩という器官があり、暗くなると、虹彩が開いて、なるべく多くの光を取り込もうとする。
この反応は、すぐに行なわれるのだが、これだけでは、暗闇の中でものを見ることはできない。
網膜にある桿体細胞は、色を感じることができないかわりに、弱い光でも感じることが可能で、ロドプシンという光を感じるたんぱく質を含んでいる。
まわりが暗くなると、このロドプシンが増えることで、わずかな光でも感じることができるようになるのである。
木村は、手帳の紙片の力を利用することで、暗順応の時間を極端に短縮して、能登との戦いを、優位に進めていた。
(私の力を、一瞬で、看破した)
と、木村は、思いながら、静かに移動した。
「面倒なのは、嫌いでな。かたをつけさせてもらおう」
雨尾家は、歩き出していた。
靴音は、何のためらいもなく、木村の元に、近付いてきていた。
木村は、心中、呻いて、
(なぜ、こちらの位置が、わかるの?)
「それだけ、殺気が丸出しじゃあ、ここにいると教えているようなものだ」
勝負は、一瞬でついていた。
雨尾家が、木村を殴り飛ばしていた。
木村は、完全に、気を失って、倒れ込んだままだった。
雨尾家は、能登の身体を、静かに担ぎあげた。
「すまん。遅くなった」
と、雨尾家は、短く、言った。
組織の任務にあたる場合には、雨尾家の指示を受けることが、ほとんどだった。
雨尾家は、能登と麻知子の実質的な上司である。
能登は、雨尾家と対面したことはなかった。
連絡手段は、通話のみで、電話越しに指示を受け任務を遂行し電話越しに報告するのである。
だから、能登が雨尾家の姿を見たのは、はじめてだった。
雨尾家は、ダークグレーのスーツをかっちりと着込んでいた。
ネクタイと革靴も、スーツと同系色であり、暗がりの中、ステンレス製と思われるシンプルな腕時計が、銀色の光沢を放っていた。
シンプル・イズ・ベストを地で行くような恰好の雨尾家からは、どことなく武骨なイメージを受けた。
「い……え」
「首と肩をやられたか。出血もひどいな……」
雨尾家は、
「少し眠っていろ」
「で、も……」
雨尾家は、能登の髪を、なでた。
「後は、まかせろ」
「……はい」
能登は、瞳を潤ませて、安心したように、目をつむった。
「さて、後はどうするか」
雨尾家は、そう独り言ちた。




