第6話:琥珀色の追憶と、鉄の執事の茶会
雨上がりの屋上に、夜の帳がしっとりと降りてきた。
図書館の屋上の給水タンクの陰に作られたハルトの住処は、廃材を組み合わせて作られた小さなテントと、丁寧に手入れされたプランターの緑に囲まれた、ささやかな「箱庭」だった。
ハルトが、古びたアルコールランプでじっくりと沸かした湯を、白い陶磁器のポットへと注ぐ。
ルナの嗅覚センサーは、立ち昇る湯気と共に弾けた 4,500種類以上の芳香成分を、一瞬で識別した。
「……ダージリン。セカンドフラッシュ。……アキ。これは、三十年以上前の真空保存パックから抽出された、極めて希少な『本物』の茶葉です」
シロの声が、かつての殲滅プロトコルの冷酷さを脱ぎ捨て、どこか敬虔な響きを帯びて響く。
ハルトは少し照れくさそうに笑い、欠けたティーカップに琥珀色の液体を注いだ。
「……ずっと、一人の時に飲もうと思って取っておいたんだ。でも、雨上がりに君たちの音楽を聴いていたら……今がその時だって、思ったんだよ」
アキがカップを口元へ運ぶ。
熱い蒸気が鼻腔をくすぐり、花のような甘い香りと、わずかな渋みが舌の上で踊る。
それは、シロがいつも淹れてくれる「合成代替品」には決してない、太陽と土、そして人の手が介在した歴史の深みだった。
「……おいしい。……シロ、あなたもこの匂い、分かるでしょ?」
「肯定。……スキャン完了。……匂いの粒子が、私の深層ディレクトリ(隠しアーカイブ)にある、特定のログを呼び出しています」
シロの光学センサーが、ゆっくりと瞬くように琥珀色に明滅した。
その内部で、アキの父――カズマが、シロを兵器として調整する傍らで、家族と共に過ごしていた「最後の日曜日」の記録が再生される。
『——04、茶葉の温度管理を 0.1 度単位で頼むぞ。……アキ、ほら、お菓子だ。……世界が騒がしくなっても、このお茶の匂いだけは忘れるなよ』
スピーカーから漏れ出したのは、現在のシロの音声ではない。
二十年前、マイクが拾っていたカズマの笑い声と、幼いアキがはしゃぐ
の高い声、そしてカップがソーサーに当たるカチリという微かな生活音だった。
「……これ、お父さんの……」
アキの指が、シロの冷たい装甲に触れた。
シロの内部ファンが「ファン、ファン」と静かに回り、紅茶の香りをアキの方へと扇いで送る。
かつては毒ガスの散布や熱源探知のために使われていたセンサーが、今はただ、この小さな茶会の平穏を 0.01 秒単位で維持するためにフル稼働していた。
「ハルト。……あなたの淹れた紅茶は、私の元所有者・カズマが愛した配合と
一致します。……私の『盾』としての定義に、新たな項目を追加しました。……『この琥珀色の液体を守ること』」
ハルトは驚いたように目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
「……光栄だな。最強のボディガードに、お茶の仲間に入れてもらえるなんて」
屋上の暗闇の中、シロの巨体は月明かりを反射して銀色に輝き、三人(一人と一人と一台)を包むように静かに佇んでいた。
紅茶の香りが夜風に溶け、かつての殺戮兵器は、一晩限りの「鉄の執事」として、アキとハルトの語らいを静かに見守り続けていた。
それは、20年前の地獄を生き延びた機械が、初めて自らの意志で選び取った、最も「贅沢で非効率な」任務だった。




