第0話
物語を書くこと自体が10年以上ぶりなのでどうか温かい目で見守っていただけたら幸いです。
騎士として城に勤め、王を守る。
戦場に出て、一騎当千の活躍をする。
それは、男なら誰もが子供のころに一度は夢見る、栄誉ある生き方だった。
かつてそんな騎士に憧れた男は、今日も街の門に立っている。
煌びやかな甲冑も、称賛の声もない。ただの一介の兵士として、黙々と門を守る日々。
気づけば、彼がこの門に立ち続けて十年が経っていた。
若いころの彼は、恋に憧れるうぶな乙女のような心持ちで軍学校の門を叩いた。
訓練兵時代は真面目そのもの。誰よりも努力し、成績は常に上位。教官たちからは将来を嘱望されていた。
だが――時代が、彼を必要としなかった。
国同士の力は拮抗し、大きな争いは起こらない。平和が続き、戦場そのものが存在しなかった。
武功を挙げる機会どころか、実力の片鱗を示す場さえ与えられないまま、彼は年齢だけを重ねていく。
そして気づいたときには、彼は「門番」と呼ばれる立場に落ち着いていた。
それでも彼は腐らなかった。
陽が昇りきる前に起床し、ランニングと剣の素振りで身体を起こす。
訓練兵時代から続くその習慣は、今も一日も欠かさない。
安宿の美味しくない朝食で腹を満たし、仕事へ向かう。
陽が沈むまで門に立ち、帰りにはまた美味しくない夕飯を食べ、眠る。
酒も女もギャンブルも嗜まない。
一般的な兵士とはどこか違う、修行僧のような生活を、彼はもう十年も続けていた。
「おい、あいつって……門の……」
そんな彼が、ある日突然酒場に現れた。
見知った兵士たちが、信じられないものを見るようにひそひそと囁き合う。
「すまない。あまり酒を飲んだことがないのだが……よく皆が注文する定番のものを持ってきてはくれないか?」
周囲の好奇の視線や噂話を気にする様子もなく、彼は店員に控えめに声をかけた。
店員は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに柔らかく笑って頷く。
「定番ね。分かったわ」
木製のカウンターに置かれたのは、薄く泡立つ安酒と、塩気の強い干し肉、そして黒パン。
彼はそれらをじっと見つめ、まるで訓練兵時代に初めて実戦配給を受け取った日のように、背筋を正した。
酒を一口含む。
喉が焼けるように熱く、思わず咳き込む。
「……なるほど。皆が好むわけだ」
誰に聞かせるでもなく呟き、干し肉を噛みしめる。
決して美味ではない。だが、不思議と嫌ではなかった。
十年変わらなかった日常に、ほんのわずかな異物が混じったような感覚。
そのときだった。
――ズン、と。
地鳴りのような振動が、床下から突き上げた。
続いて、遠くから響く警鐘。
一拍遅れて、酒場の外が騒然とする。
「な、なんだ!?」
「門の方だ!」
彼は即座に立ち上がった。
酒はまだ半分も減っていない。だが、未練はなかった。
剣は腰にない。勤務外だったからだ。
それでも、身体は自然と門の方角を向いていた。
外へ出ると、夜の空気は異様なほど張り詰めていた。
赤黒い光が、門のある方角を不気味に染め上げている。
「……魔族か」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が冷たく凍る。
かつて討たれ、滅びたとされていた存在――その、生き残り。
門へと駆ける途中、彼は瓦礫の陰にうずくまる小さな影を見つけた。
「……子供?」
少女だった。
十にも満たない年頃だろう。恐怖に縛られ、声を上げることもできず、ただ震えている。
そして、その背後。
闇の裂け目から這い出るように、魔族の影が迫っていた。
考えるより先に、身体が動いた。
彼は少女の前に立つ。
武器はない。
素手のまま。
門番として。
兵士として。
「守って見せる!」
魔族は嘲るように歪んだ声を上げ、黒い刃を振り下ろした。
避けきれない。防ぐ術もない。
致命傷だけは避けるように一撃を受ける。
衝撃。
痛み。
熱。
視界が白く弾け、膝が崩れそうになる。
それでも彼は、最後まで少女を背に庇っていながら、素手で応戦する。できる限り致命傷を避け、隙を見て反撃する。人と魔族の急所が同じわけではないが、人体であれば急所となる場所をしつこく殴り続ける。そうしてなるべく騎士団が到着するまでの時間稼ぎを死に物狂いで行う。
しかしそれでも男にダメージと疲労はどんどんたまっていき、いつしか意識がほとんどない状態で戦っていた。
血まみれになった手にはほとんど感覚が残っていないがそれでもぐっと拳を握りしめて打ち込み続けた。
とうに限界を超えていたが気迫だけで戦っていた男も次第に意識が薄れていくが、意外にも彼の心中は不思議と穏やかだった。
――ああ。
――これでいい。
騎士にはなれなかった。
戦場で名を上げることもなかった。
だが今、確かに守っている。守れている。
可能性に満ちた未来を。
なによりいつしか自分が夢に見た光景が今ここにある。
半刻ほど戦ったころだろうか。遠くから大量の人の足音と鎧がガシャガシャと規則正しいリズムで聞こえてきた。
「王国に栄光あれ!」
――王国騎士団、現着。
目的は達成した。男はけして最後まで倒れることはなかった。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
王国最強の盾と称される騎士団が到着したとき、戦いはすでに終わりかけていた。
いや――正確には。
終わらせるだけの状態にまで、持ち込まれていた。
魔族はなおも顕在だったが、その動きは明らかに鈍っていた。
まるで、本来の目的を見失ったかのように。
「包囲しろ。逃がすな」
騎士団長の一声で、精鋭たちが一斉に展開する。
統率された動き。洗練された技。連携。
数瞬の後。
魔族は討ち果たされた。
静寂が戻る。
焼け焦げた石畳。崩れた建物。
そして――ひとつの光景。
騎士団長は、思わず足を止めた。
そこにいたのは、一人の兵士。
すでに息はない。
だがその身体は、崩れていなかった。
片膝をつき、前に身を乗り出すような姿勢。
両腕は広げられ、その背後を完全に覆うようにしている。
その内側に――少女がいた。
小さな体を震わせながら、泣いている。
守られている。
死んだあともなお。
「……」
騎士団長は言葉を失った。
一目で分かる。
武器もなく。鎧もなく。
それでも、この魔族をここまで引きつけ、時間を稼いだ。
それがどれほどのことか。
訓練を積んだ者ほど、理解できる。
「……おしいな」
ぽつりと、言葉が漏れた。
それは単なる感傷ではない。
敬意だった。
「これほどの者が……なぜ騎士でなかった」
誰に向けるでもない疑問。
だが答えは、すぐに出る。
――機会がなかったのだ。
それだけのこと。
平和が、彼を埋もれさせた。
騎士団長は、ゆっくりと膝をついた。
そして、亡骸に向かって頭を垂れる。
「彼の名を、聞こう――誰か知らぬか?」
だが返事はない。
周囲の兵士に視線を向ける。
「……知らぬのか」
誰も、答えられなかった。
門番として、そこにいた男。
だが、その名を知る者はいなかった。
騎士団長は小さく息を吐いた。
「……そうか」
静かに立ち上がる。
そして、少女へと視線を向けた。
彼女は涙に濡れた目で、必死に言葉を絞り出そうとしていた。
「……あのひとが……」
声にならない声。
それでも、伝わる。
この子は、忘れない。
ならば――それでいい。
騎士団長は、部下に命じた。
「手厚く葬れ。名は……分からぬままでよい」
兵士が戸惑う。
「よろしいのですか」
「ああ」
迷いはなかった。
「名がなくとも、この者の成したことは消えん」
少女を一瞥する。
「……未来が、覚えている」
夜が明ける。
赤黒かった空が、ゆっくりと白んでいく。
門の前には、名もなき兵士の亡骸。
その背に守られた、小さな命。
やがて少女は立ち上がるだろう。
泣くのをやめ、前を向き、歩き出す。
その胸に、この光景を刻んで。
後に人々は、彼女をこう呼ぶ。
――勇者、と。
だが。
その始まりに、名もなき門番がいたことを。
彼が最後まで立ち続け、守り抜いたことを。
知る者は――ほとんどいなかった。




