7 『狂犬の雷鳴』
夜明けを知らせる鐘の音が、ゲヘナに響く。
実際には空の見えないこの地に、夜明けは訪れない。
それでも、半日ごとに鳴らされる鐘は、確かに夜明けを告げていた。
空が見えず、常に夜のように暗いゲヘナで、その鐘がエデンと同じく時間を知らせているのか――誰にも分からない。
現にシュカも、ゲヘナに来る前は、時間の感覚を失うほど拘束され、外の景色など一度も見られなかった。
あれほど当たり前に過ごしていた朝も昼も夜も、唐突にその存在を奪われたのだ。
薄暗い部屋で目を覚ましたシュカは、目をこすりながら上体を起こす。
ベッドはエデンで使っていたものと比べれば簡素で、体のあちこちが軋んだ。
それでも、悪くはなかった。
昨夜、アステリア旅団の仲間たちと賑やかに食卓を囲んだ記憶が、まだ温かく胸の奥に残っている。
客用として普段使われない部屋を借りていたシュカは、ベッドから降り、ヒビの入った鏡を覗き込みながら寝癖を撫でつけた。
だがすぐには直らず、ぴょこぴょこと跳ねる髪に苦戦していたところで、扉を勢いよく叩く音が響いた。
「シュカ!朝だぞ、起きてるか!」
驚いて振り向くと、扉の向こうからレイドの元気な声が続く。
「今日からバディだってよ、俺たち!」
扉を開けると、満面の笑みを浮かべたレイドが立っていた。
寝起きの目に、そのテンションはあまりにもまぶしい。
「バディ……?」
「そう!ルーガンさんから言われたんだ。今日からシュカと俺で行動することになった!」
レイドは胸を張って言う。
「つまり――俺に初めて後輩と相棒ができたってことだ!」
どこか誇らしげで、少し浮かれ気味。
その姿に、シュカは思わず笑ってしまう。
「……よろしく、相棒?」
「よーし!言ったな!?じゃあまずは朝メシだ!」
✻✻✻
食堂では、湯気を立てる皿がいくつも並んでいた。
パンに似た焼き菓子、豆のスープ、香草で味付けされた肉。
レイドは勢いよく席に着き、あっという間に食べ始めた。
「なあシュカ、アステリアの飯、うまいだろ?これ、全部ナヴァル隊長の手作りなんだぜ」
「すごいですね……ナヴァルさん、料理が上手なんだ」
「上手どころじゃねえよ。ナヴァルさんの特殊能力が使われてるから、回復力とか攻撃力まで上がるんだ」
そんな話をしながら、レイドはなぜかスプーンを取り、「シュカ、あーん!」と笑顔で差し出した。
「……え?」
「え、じゃない!後輩の世話するのが先輩の務めだろ!?」
「いや……そこまではいいかな……」
「なんでぇ!?」
レイドが焦っていると、背後からあくび混じりの声が響く。
「お前ら、朝から元気だなぁ……」
寝ぼけ眼のルーガンが食堂の入口に現れた。
髪はぐしゃぐしゃ、シャツのボタンも半分開いたまま。それでも様になる姿に、シュカは自然と自分の体に視線を落としていた。
ルーガンは、そのままレイドの隣にどかりと座ると、テーブル上のデザートに手を伸ばした。
「あ、それ俺の!」
「朝飯前の糖分は大事だろ」
そう言って、ルーガンはレイドのプリンをひょいと口に運ぶ。
ショックで固まるレイドを見て、シュカは笑いをこらえた。
グラスの水を一口飲んだルーガンが、シュカに視線を向ける。
「ああそうだ、シュカ。レイドと行動するって話はもう聞いたか?」
「はい、さっき聞きました。……でも僕、まだ何もできないのに大丈夫なんでしょうか」
「そのためのレイドだ。レイドはこの旅団の中で、シュカの次に新人だから、話しやすいとこもあるだろ。歳も近そうだしな。それにこう見えて特攻部隊の隊員だ。“特殊能力”について学べることも多い。レイドの隣で、自分にできることを探してみろ」
そう言いながら、ルーガンは指を軽く鳴らした。
そうすれば、ぴょこぴょことしていたシュカの寝癖が一瞬で綺麗に整えられた。
「もともとレイドが一人で担当してる、ゲヘナ西三区と四区の警備に同行してもらう。ゲヘナを知らずに動くのは危険だ。見て、感じて、覚えろ。お前がどんな場所に落ちてきたのかをな」
その言葉には、静かな重みがあった。
シュカは小さくうなずく。
「わかりました」
ルーガンは満足そうに頷き、再びレイドの皿を物色する。
「あっ、ルーガンさん!それ俺の肉!!」
「食べるより喋るほうが早ぇな、レイド」
朝の食堂には笑い声が満ちていた。
灰色の世界の中でも、そんな音があるだけで、ほんの少しだけ光が差し込む気がした。
✻✻✻
通りを歩くたびに、焦げついた鉄の匂いが鼻を刺す。
油と硫黄、そこに人の営みが混ざり合ったような異質な空気。
ゲヘナ西三区は比較的治安がいいと言われているのだが、それでも壊れかけた建物と、煤で黒ずんだ路地ばかりが目に入る。
「どうだ、これがゲヘナの街ってやつだ」
レイドが笑いながら言う。
「綺麗とは言えねえけど、ここも俺たちにとっちゃ生きる場所だ。慣れれば悪くねえぞ」
シュカは小さくうなずきながら周囲を見回した。
屋台のような店が並び、客引きの声が響く。
どれも食材の端くれ程度しかないが、それでも生きるための仕事だ。
中には、明らかに“普通”ではないものを扱う店もあった。
瓶詰めにされた血のような液体、武器の部品、どこから持ち込んだのか分からない金属の義肢――。
「……ここ、全部“商店街”なんですか?」
「ん?ショウテンガイ?あー、エデンでの呼び方か。ゲヘナじゃ“ブラックマーケット”って言うんだ。どんなもんでも、金さえ出せば手に入る」
「金……」
レイドは懐から黒く光るコインを取り出して見せた。
掌にのるそれは、どこか冷たく、重みを感じさせた。
「でもな、シュカ。わかってるとは思うが、どんなに金があっても、“宵闇の不死鳥”には近づくなよ」
レイドの声がわずかに低くなる。
「宵闇の不死鳥……って、あの……」
「ああ。この辺じゃ有名な組織だ。あいつらに目をつけられたら厄介だ」
軽い調子の中にも、確かな警告があった。
歩くうちに、シュカの胸には重いものが沈んでいく。
エデンとはまるで違う。ここでは正しさも優しさも、何の保証にもならない。
それでも――
「……レイドは、どうしてそんな場所で笑っていられるの」
ふと、そう口に出していた。
レイドは少し驚いたように振り向き、にっと笑う。
「簡単だ。俺は“生きてる”からだよ」
「生きてる……?」
「この街じゃ、生きるってだけで立派な才能だ。だから笑っとかねぇと、すぐに呑まれる」
その言葉の直後だった。
曲がり角の向こうから、甲高い悲鳴が響いた。
「……今の、子供の声?」
「ああ、悲鳴だな」
レイドが駆け出す。
シュカも慌てて後を追った。
狭い路地に入ると、数人の大人が小さな子供たちを取り囲んでいた。
手には刃物や鉄パイプ。
子供たちは布袋を抱きしめ、怯えきった顔で後ずさっている。
「待てよガキども、それよこせ!食いもんなんざガキが持ってても無駄だろ!」
「――やめてッ!」
シュカが思わず声を上げた。
だが、その声より早く、レイドが一歩前に出る。
「お前ら、朝っぱらから見苦しいな」
その笑みはさっきのものとは違う。
冷たく、底に雷鳴の気配を宿していた。
「誰だテメェ」
男の怪訝そうな声に、鼻で笑うレイド。
「この街で俺を知らねえのは、ただのバカか?」
レイドが左手を軽く掲げた。
次の瞬間、空気が裂けた。
バチン、と乾いた音とともに、青白い稲妻が路地を駆け抜ける。
男たちの手の鉄パイプが一斉に弾け、火花が散った。
焦げた空気の匂いが広がる。
「っ……ひ、ひぃっ……!」
「お、おい……! こいつ、“アステリアの狂犬”だ……!」
逃げ出そうとした男たちの足元に、雷光が落ちる。
──特殊能力『雷鳴ノ慟哭』。
電流が走り、地面が黒く焦げた。
レイドは表情一つ変えず、掌から残光を散らす。
「次、動けば当てる」
静寂。
一瞬前まで暴れていた男たちが、怯えたまま動けなくなっていた。
「……子供を狙ったんだ。自分が同じ目にあっても仕方ねぇよな」
低く呟く声に、雷の残響が混ざる。
子供たちは涙目でシュカの背にしがみついた。
シュカは何も言えず、ただその光景を見つめる。
男たちは何度も謝りながら、怯えきった表情で逃げ去った。
恐ろしいと思った。
だが同時に、羨ましいとも思った。
「……これが、特殊能力……」
「そう。俺の特殊能力だ。これのおかげでアステリアに入れたし、今を生きてる。このゲヘナじゃ、生きるために必要な力だ」
レイドは雷光を収め、手を下ろす。
子供たちに向かって軽く笑った。
「ほら、もう大丈夫だ。家に帰れ」
子供たちは何度も頭を下げ、走り去っていく。
その背を見送りながら、シュカは胸の奥で何かがざらつくのを感じた。
――自分にも、力があるはずだ。
けれどまだ、それが“何”なのか分からない。
レイドのように誰かを守れるわけでもない。
むしろ、使ってしまったとき、自分は自分でいられるのだろうか。
「なあ、シュカ」
レイドが振り向き、少し優しい声で言う。
「お前にも、いつか見える時がくる。自分の“力”が、どんな形で息してるのか」
その言葉が、なぜか深く胸に残った。
灰色の街の空気の中、稲妻の匂いだけが、まだ消えずに漂っていた。




