第九章 白鳥の歌 場面四 永遠の都(四)
「ティベリウス」
吐息のように、養父は言った。
「はい」
「そなたほど、わたしの手を焼かせた者はいない」
ティベリウスは黙ってアウグストゥスを見つめた。養父は微笑している。
「誰もいない。わたしは、大抵の者なら御す自信はあったのだよ。わたしは彼らに夢を見せた。豊かさを、繁栄を、平和を―――永遠の都という夢を。共和政信奉者には共和政体復活という夢を。
わたしは中々の劇作家だったとは思わないか。劇作家にして役者であったと。人を動かすのは、現実ではなく幻想なのだ、ティベリウス。覚えておけ。それが死にゆく者からそなたに遺してやれる、最後の助言だ。そなたは夢を見ない男だ。そうだろう? 舞台の演出もからくりも全てを見抜いていた。どんな心地よい音楽にも酔わず、どんなリズムにも踊らぬ、扱いにくい観客にして役者だった。それでいて全く腹立たしいことに、欠くことのできぬ重要人物の一人だったな。その鋭い醒めた目に、わたしの芝居はどう映っただろうな? 滑稽であったろうか?」
アウグストゥスは一方の手をまるで鳥が翼を広げるようにゆっくりと動かした。この小柄な老人を、人々は賛嘆の思いをもって仰ぎ見たのだ。眩しく輝く、優美な白鳥。死に臨んで白鳥が歌うのは、死を嘆く悲しみの歌ではなく、アポロ神のもとへ帰ってゆく歓びの歌である、と言ったのは、泰然と死に臨んだ古代の哲学者、ソクラテスだった―――
「だが」―――と、柔らかな響きで役者は続けた。
「だが、不確かなときにこそ、人は最も確かな友を見つけるという。イリュリクムの反乱のとき、わたしはようやくそなたを見つけた。わたしの真の友を。そなたはわたしが送り込んだ十万の兵を、丁寧な感謝の言葉と共に返してきた。わたしは書簡を一読するや、己の軽率さに恥じ入った。そなたがどれほどの忍耐をもってローマのために戦ってきたか。そして、正しいと信じるもののためにならどんな悪評にも圧力にも微動だにせぬ鉄の意志の持ち主であるか。
傲岸不遜とさえいわれるクラウディウス一族―――ローマを背負ってきた生粋の貴族の、その誇り高さ、剛直さ、確固たる公共心、己を偽れぬ誠実さ、それはわたしとは全く異質なものだった。わたしは夢から醒めたように、初めてのものを見るようにそなたを見た。そなたはローマが持った最良の守護者であり、わたしのかけがえのない同士であり、最高の息子だった。後を頼むぞ。イムペラトル・ティベリウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス―――そなたがいる限り、ローマは繁栄し続けるだろう」
再び、室内に沈黙が下りた。稀代の役者にして劇作家であった一人の男が、世界国家ローマという壮大な舞台から、今退出しようとしている。
ティベリウスは、ただ養父の言葉を聞いていた。アウグストゥス。養父上。百万言を費やそうとも、ティベリウスがこの老人に対して抱いている思いを語りつくすことなど出来ないだろう。感謝と尊敬、反発と失望、そして愛情と責任感―――小柄な背を見つめて過ごしたこの長い歳月で、様々な感情がティベリウスの中を過ぎては消えていった。