第九章 白鳥の歌 場面一 アウグストゥス(四)
ティベリウスを共同統治者に昇格させた養父は、はっきりと死の準備を進めていた。少しでも空いた時間を使い、自分がこの四十年間に成し遂げた成果を、書記係に口述筆記させる作業に没頭していた。アウグストゥスはもはや自分で字を記すことはほとんど出来なかったのだ。口述筆記の作業も、大抵は書記係と文書係を傍らに置き、寝台か寝椅子に横たわったまま行われた。ティベリウスも時折、その作業中にアウグストゥスを訪れることがあったが、突然質問を投げかけられて困ったことが何度かあった。
「略式凱旋式が二回、凱旋式が三回は覚えているが、「最高司令官万歳」の歓呼は何回だったかな」
「わたしが大神祇官長になったときの執政官は、誰と誰だったかな」
といった具合で、大抵はティベリウスが即答できないものだった。
恐らくアウグストゥスはティベリウスをからかっていたのだろう。記述の正確を期すために、わざわざ文書係を傍らにおいていたのだから。
書きかけの文章をティベリウスも少し見たが、それはよく言えばアウグストゥスらしく飾り気のない、悪く言えば、確かに文意は明確で判りやすいが、それにしてももう少し「書き方」、ないし「文章そのもの」に気を使ってもいいだろう、と思わせるものだ。大体この養父は、ティベリウスの文章を高尚過ぎて難解だ、とか、カタすぎて読みづらい、言い回しが回りくどい、などと言ってよく注意をする。だが、ティベリウスに言わせれば、文章のリズム感もなければ変化もない一本調子の、「一足す一は二」的な文章もいかがなものだろう。
「わたしの名で三度、わたしの息子らや孫たちの名で五度、剣闘士試合を開催した。これらの見世物で約一万人が試合をした。わたしの名で二度、そして三度目は孫たちの名で、世界中から呼び集めた体育競技者の見世物を国民に提供した。わたしの名で四度、他の政務官の名で二、三度、見世物(劇と戦車競走)を提供した」―――こんな具合だが、何というか、もう少し工夫があってもよいのではないか。
「これをどうなさるのです」
尋ねると、アウグストゥスは頬笑んだ。
「老人は時々こういうことをしたくなるものだ。自分の生涯を辿りなおしてみたくなるのだよ」
「編年体ではないのですね」
「以前、回想録を編年体で書こうとして挫折した。このほうがよい」
「書き上げたら、青銅板に刻み、邸の中と、市民たちによく見える場所とに掲示いたしましょう」
提案すると、アウグストゥスはティベリウスの腕を軽く叩いた。
「ありがとう。ただし、わたしが死んでからにしてくれよ」
※