第八章 テウトブルクの森 場面一 ウァルスの悲劇(一)
属州の反乱を三年半をかけて鎮圧したティベリウスは、ローマへ帰還する準備を進めていた。そこへ、レーヌス河の軍団からの急使が訪れる。ゲルマン人の奸計により、三個軍団が全滅したという知らせだった。死者の数はおよそ三万五千人。ティベリウスはただちに首都のアウグストゥスの元へと向かった。
【主な登場人物】
〇ウァルス:レーヌス河防衛戦を守る三個軍団の指揮官。ゲルマン人の奸計にはまり、三個軍団の全滅を招いた。
〇アルミニウス:BC16-AD21。ゲルマンの一族、ケルスキ族の族長。ローマ軍の一員として従軍した経験があり、ローマ市民権を持つ。ウァルスの信用を勝ち取り、その指揮下の三個軍団を全滅させた。
建国暦七六一年(紀元九年)九月九日という日は、後に「テウトブルクの悲劇」、ないしは敗将クインクティリウス・ウァルスの名をとり、「ウァルスの悲劇」としてローマの歴史に記録されることになる。
戦役が終わって五日後の陣営では、降伏したダルマティアの反乱軍への対処にも一区切りがつき、既に撤退の準備が進められていた。ゲルマニアからの急使を、ティベリウスは司令官の天幕で迎えた。天幕にはゲルマニクスと副官のアプロニウスもいた。
第五アラウダエ軍団第五大隊所属のロリウスは、黒髪のまだ若い男だった。
「報告いたします」
ロリウスは緊張した様子で、ティベリウスを真っ直ぐに見つめて言った。
「九月九日、ウィスルジス河近くのテウトブルクの森にて、ウァルス司令官指揮下の第十七、十八、十九の三軍団が、ゲルマン人の襲撃を受け、全滅いたしました」
一瞬、誰も口をきかなかった。大抵のことには動じないティベリウスでさえ、この時は使者の言葉の意味をすぐには理解できなかった。
ゲルマニアは、今戦争状態とは考えられていなかったのだ。―――一般的には。
ゲルマニクスが何か言いかけたが、ティベリウスはそれを手で制した。
「ロリウス」
「はい」
「三個軍団が全滅したというのか」
「バカな!ありえない!」
ゲルマニクスの声が、その場に白々と響く。ロリウスははっきりと答えた。
「はい。三個軍団、補助部隊六個大隊、騎兵三個中隊、及び随行していた女や子供、奴隷に至るまで、ほとんどが命を落としました。銀鷲旗も全て敵の手に奪われ、死者の数は、およそ三万五千人に達するとのことです」
三万五千人………!
ローマの全軍団の数が、二十八個軍団なのだ。それを、三個軍団に補助部隊六個大隊に騎兵が全滅とは!しかも女子供まで、レーヌス河沿いの基地に置かず、ゲルマニアの奥深く付き添わせたのか。
ティベリウスは深く息を吐き出した。
「首謀者は判っているのか」
「ケルスキ族のアルミニウスとセギメルスです」
「司令官ウァルスはどうした。彼も戦死したのか」
「敵に囲まれ、もはや全滅必至と見た将軍は、自ら剣を取って自害致しました」
その言葉に、ティベリウスは拳を握り締めた。
プブリウス・クインクティリウス・ウァルス!
アウグストゥスに取り入り、私服を肥やすことしか頭にない、あの卑怯者め!
敗将の自殺は、何も珍しいことではない。だが、奇襲を受け、戦闘のさなかに戦況に絶望し、部下をおいて自殺するとは!総司令官に自殺された兵士たちに、一体それ以上何が出来るというのだ?降伏でもよい、突撃でもよい。全員で死ぬならばそれも致し方ない。だが、たとえ全滅を免れないとしても、ひとり総司令官だけには、部下の行く末を見届ける義務があるのだ。軍団兵たちこそ、どれほどの絶望にまみれて死んでいっただろう。