幼馴染の想い
「よかったのか?本当に…今なら、まだ戻れると思うけど…」
アパートの2階の一室で、小さなベランダから下を見下ろす、制服姿の少女に問いかける。
「…えぇ、良いの。後悔なんか、してないわ」
こちらに背を向け、外を見つめたまま答えるその声は決意に溢れているようでもあり、自分に言い聞かせるようでもある。
何より、その後ろ姿は言葉とは裏腹に儚げで、小さい。
小さい頃から見てきたのだ。
今茉莉花が考えていることなんて簡単に想像できる、はずだ。
周囲には知られていないが、茉莉花とは、幼馴染だ。
初めて会ったのは3つ年下の茉莉花が、まだ5歳だった頃だ。
柵に囲まれた鳳家の大きな庭で、一人で遊んでいる彼女を見て、その天使のような姿に一瞬で恋に落ちた。
完全な一目惚れだった。
柵の外から見られていることに気づいた彼女が、近くまで来て話しかけてくれたが、彼女のお世話係がすぐに気づき、怒りながら茉莉花を部屋に連れ戻してしまった。
それきり、もう会うことはないだろうと思っていたが、その1年後に偶然、同級生と公園で遊んでいる彼女と再会した。
それ以来彼女と仲良くなり、ひと月に1回のペースで、密かに会うようになっていったのだ。
付き合いも長く、茉莉花の事ならなんでも分かっているつもりだが、昨日彼女から届いたメールにはさすがに驚いた。
―明日家出するの。こうくんの家に、泊まっても良い?
いきなり知らないアドレスから届いたこのメール。
名前はなくても、すぐに茉莉花からだということは分かった。
この福田光輝のことを“こうくん”と呼ぶのは彼女だけだからだ。
ただし理解できたのはそこまでで、突然の家出発言に戸惑っていた。
知らないアドレスから届いたのは、家出にあたって彼女がスマートフォンを変えたからだということは聞いた。
同じ部屋に彼女がいることも正直嬉しい。
しかし、本当に、家出をしたかったんだろうか…
「…もう決めたのよ」
「え、何?」
呟く彼女の小さな声が、うまく聞き取れず思わず聞き返す。
「後悔してるのは、こうくんのほうじゃない?」
「え…」
こちらを振り向き悪戯な笑顔で尋ねてくる茉莉花に、思わずどきっとする。
「そ、そんなわけないだろ」
「そう?」
慌てて否定するも逆に不自然になり、茉莉花は小首を傾げた。
可愛すぎるだろ…
「っそれより、これからどうするんだ?」
「これから…」
照れ隠しついでに今後の計画を尋ねてみると、少し思案した後、彼女はとびきりの笑顔で言った。
「この街を探検したいわ!」
「きれい!」
日が暮れ始める中、風にスカートや髪をなびかせながら、先程のアパートがある街を見下ろす茉莉花。
あの後、制服じゃ目立つからと私服に着替えた茉莉花と共に商店街を回って食べ歩きをしたり買い物をしたりして過ごし、街全体が見渡せるお気に入りの場所へと、原付で彼女を連れてきていた。
「…風邪ひく」
「ありがとう」
まだ春先で夕暮れということもあり、少し冷えてきた。
茉莉花の肩に、自身が腰に巻いていたパーカーをかけると、天使のような笑顔でこちらを振り向き礼を言ってくれる。
幸せ、ってこういうことなんだな、と改めて実感する。
「でも、こうくんは寒くないの?」
「いや、俺は大丈夫。知ってるだろ?」
光輝が半袖である事に気付き、心配げな顔をする茉莉花を安心させるように肩を竦めてみせる。
「あ、そうだったわ。こうくんって暑がりだものね。ふふ」
思い出したように顔を綻ばせる彼女に、自身もつられて笑顔になる。
元々、暑がりなのにパーカーを持ってきていたのも、好意を寄せる彼女のため、いつでも貸すことができるようにと思ってのことだった。
尤も、賢いがその辺の事には疎い彼女は、気付きそうにはないが。
「…」
「…」
黙って景色を眺める彼女をみつめ、暫く、心地良い沈黙に身を委ねる。
「…あのね、こうくん、私…」
「…うん?」
漸く話しかけてきた茉莉花の声を聞き逃すまいと、慎重に聞き返す。
「…私、本当は、昨日まで家出することを決めてなかったの…」
「…うん」
内心驚きはしたものの、彼女の話の腰を折らないように相槌だけに留める。
「もちろん、前から家出の計画はしていたわ。お姉ちゃんはいつも自由にしてるのに、私は、将来進む道も、許嫁も、両親に勝手に決められて…ずっと、逃げ出したいと思っていたの」
「…うん」
「でも、お姉ちゃんのことが大好きだったから、離れたくなかったの…。それで、適当に作った理由で家出のことを話して、お姉ちゃんが少しでも私の肩を持ってくれたら、家出はやめようと思っていたの。ただ、お姉ちゃんが私の事を大切に思ってくれているか、知りたかっただけなの…」
「…うん」
「…お姉ちゃんは、少しもまともに取り合ってくれなかったわ…。1つも肯定してくれなかったの…。それで私、悲しくて、お姉ちゃんにひどいことを言ってしまったの…」
「茉莉花…」
「私、もう完全にお姉ちゃんに嫌われてしまったわ。どうしよう…!」
「茉莉花」
声を震わせ、我慢していた涙を大きな目から溢れさせている彼女を前から抱きしめる。
「…大丈夫、俺がついてる」
「っ、ひっく…こう、くん…っ」
幼馴染にすがりつき、子供の様にしゃくりあげて泣く茉莉花。
その背中を、大丈夫大丈夫、と撫でてあやしながらも、頭の中では次の事を考えていた。
腕の中の大切な存在がもう傷つかないようにするためには、どうすべきか、と―