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正義のヒーロー

 思考に沈みそうになっていた私は時間が押している事に気付き、慌てて裏口へ向かった。


 この裏口を潜るのも最後か。

 そう思うと妙な感慨があるなと思いながらドアノブを捻ると途端に押し寄せる冷気に体を震える。


「今日はいつもより寒いなー」


 はぁっと指先に息を吹きかけて暖を取りながら閑静な住宅街へ足を進める。


 すっかり暗くなった空には暗雲が立ち込めて月の光が見えず、等間隔に道を照らす街灯だけが唯一の光源で一人で歩くには少し心もとなかったのだと知る。


 隣に人がいないだけでこんなに違うのか。

 初めて気付いたその事実に驚く。


 それから暫く自分の足音だけが木霊していた(・・)夜道を歩いた。そう、一人の筈だったのだ。


 ーー足が、震える。


 身体の芯が凍り付く錯覚さえ覚えた。


 いつから、いつからいた……っ⁉︎


 店を出た時はなかった足音。

 いつの間にか私の他にもう一つ足音が混じっていたのだ。

 最初は気のせいだと思っていたけど何時まで経っても消えないそれに、おかしいと思い始めた時にはもう足音が迫っていた。


 徐々に大きくなっていく地面を叩く音が住宅街に響くたび、私の心臓が大きく跳ねる。

 こういう時どうすれば良いのか、生憎授業では習わなかったから私には分からない。

 不意に蘇ったのは先日のんちゃんが言っていた言葉。


『そういえば最近桂木町辺りで不審者が出てるらしいよ』


『そこってあんたのバイト先ら辺じゃなかった?』


 不審者。もしかしてと思っていた確定された言葉に一気に血の気が引く。同時に警戒音が頭の中で鳴り響いた。


 逃げないと。

 本能でそう感じる。

 心臓が煩いくらい脈打ち、辺りの静けさが恐怖を煽る。


(こ、声を出さないと……っ)


 誰か助けてと声を張り上げ用としたのに喉がカラカラに乾いて声が出ない。


(どうしようっ私護身術なんて習った事無いし、こんな事ならのんちゃんにちょっとは教えて貰えばよかった……っ)


 声が出ないというだけで只でさえパニック状態なのにそれに拍車をかけて、もう訳が分からなくなってきた。


 とにかく逃げないと。でも走ろうにも私はそこまで足が速くないし、もうそこに不審者が居るからすぐに捕まっちゃう。


 もう駄目だと目に溜まった涙が溢れそうになった。


 その時、足音が遠ざかっていった。


 暫く緊張に身を固めていたけれど、私の他に足音が無いのを確認して思い切って振り返れば、そこには誰もいない街灯に照らされた道だけが続いていた。

 どっと身体中の力が抜ける。


(よ、よかった……)


 極度の緊張から解放された私は安堵からぺたりと地面に座り込みそうになるのを、詰めていた息を吐き出すのに抑えた。


 速く、速く帰らないと。

 不審者に付けられていたかもしれない恐怖が私の足を速めた。

 住宅街の中を私は我武者羅に駆ける。


 速く安心できる家に帰りたい。家に帰ったらまず愛犬のモモを一杯抱き締めて慰めてもらった後、電話でのんちゃんに愚痴を聞いて貰おう。

 それこそ一杯怒られそうだけど一杯心配してくれると思う。


(今はのんちゃんの御説教が恋しいな)


 視界の先にやっと愛しの我が家を見つけた私は安堵でまた目に涙が浮かんできた。


 ーーあと少しと気を緩めたのが駄目だったのだろう。


 ガッと横から伸びた手が私の腕を掴んで路地に引き込んだ。


「い……っ」


 思わず目を閉じた私はその勢いのまま壁に体を打ち付け声を上げる。次いで顔の隣に何かが置かれた。


「あぁ、ちかちゃん」


 息が触れ合うほど近くで感じた恍惚とした声に、はっと目を開ければ見た事も無いスーツ姿の男が視界一杯に広がっていた。


 ひゅっと息を飲む。

 二十代後半程に見える男がそろそろと繊細な硝子細工に触れる様に私の頬に手を添えてきたのだ。


 熱を含んだ絡みつくような視線をよこす男に生理的嫌悪と余りの気持ち悪さに吐き気がする。


 でも、それ以上に体の震えが止まらなかった。体は小刻みに揺れて歯が噛み合わない。

 さっきの不審者はこいつだ。本能的にそう感じた。


 ああ、こんな事ばっかりだと色々な感情がごちゃごちゃになって涙が溢れてくる。


 山下君とは訳が分からない感情のまま仲違いして、傷付けて。今度はこれか。


「ちかちゃん、ちかちゃん。私だよ、分かる?」


「……っ」


 そう首元から顔を上げた男は頰を上気させながら痛い程の力で私の肩を掴んで来た。


 お前なんか知らない。知りたくも無い。

 そう言おうとしても震えて声が出ない。


 ーー違う。私はこいつを見た事がある。


(さっきの……っ!)


 はっと目を見開く。


「ああ、気付いてくれたんだね! やっぱり私達は運命なんだ!」


 歓喜に震え衝動のままにあろう事か私を抱き締めたのは、さっき店でコップを割ったあの男だった。


「は、なして……!」


 この正気とは思えない男に抱き締められているという事実に全身が泡立つ。苦しいくらいに力が込められ何とか逃れようと身動ぎして胸を叩いてもびくともしない。


 男と女と言うだけでこんなにも力に差があるのかと悔しくて唇を噛んだ。


「ごめんねちかちゃん、早く迎えに来てあげられなくて。さっきも怖かったよね。一人でこんな暗い道を歩かされたんだから。ああ、こんなに震えて可哀想に」


 何を言っているんだこの人は。


「本当はさっき抱き締めてあげたかったんだけど、近くの家に住む余計な奴らが僕達の愛を阻もうとしてたんだ。だから遅くなっちゃった。でも、もう大丈夫。これからは何時でも君を抱きしめてあげられるよ」


 なんの混じり気も無い純一な憂いと喜びがその声音に帯びていて、


 ーー怖い


 そう思った。

 あの時助けてくれようとしてくれた人が居たのだと言う事も、声を張り上げれば誰かが助けに来てくれる可能性がある事もただ恐怖に塗り変えられる。


 男はそっと腕が緩めて私を壁に押し付けた。


(あはは、壁ドンだ。私壁ドン運にでも恵まれてるのかな、これで人生3回目だ)


 もう現実味がなくなってきてどうでもいい事が私の頭の中を過る。


「私は君だけを見ていたよ。あんな男に付き纏われて可哀想に、僕が開放してあげる。君は僕だけを見ているのに馬鹿な男だ。僕も君だけを見ているよ」


『あんな男』『馬鹿な男』

 その言葉が私には許せなかった。

 ふざけるな。


「……っ、やま、した君を……っ馬鹿にするな………!」


 震える体を叱咤して、男を力一杯突き飛ばし声を絞り出す。


 情けなく掠れてしまったけど知らない。私は涙でぐちゃぐちゃになった顔で必死に男を睨む。


 お前なんかが馬鹿にするんじゃねぇ。


 山下君はなぁ、優しくて、優し過ぎて過保護だけどいつも私の事を気遣ってくれて、偶に子供みたいに無邪気な所があって、この前なんかどう考えたって私が悪いのに山下君は自分が悪いと思い込んで泣きそうな顔してたんだぞ!


 そんな良い人過ぎる山下君がお前なんかに罵られる謂れはねぇんだよ!


 唖然と口を開いていた男が一歩私に歩み寄る。それにビクッと体が跳ねた。


 狭い路地のここは一歩踏み出せば密着する程近づく。

 それだけでさっきの威勢は私の中で霧散した。


「……ああ、なんて可哀想なんだっ。こんなに怯えて。あの男の言いなりにされて、脅されているんだろう? もう大丈夫だ。安心して良い。君は私が守ってあげるよ」


 また壁に追い詰められた私の顔の上に腕をつき、もう片方の手が再び私の頰にそわれた。

 さっきよりも近い距離に震えが止まらない。


「愛しているよ、ちかちゃん。……いや、知夏」


 さっさと逃げたいのに体が言うことを聞いてくれない。足が地面に縫い付けられたように動かない。涙が、止まらない。


 どんどん近付いてくる顔に怖くてぎゅつと目を瞑る。


 ああ、本当に何でこんな事になったんだろう。


 もう私の心に諦めが訪れかけたその時、


「お前……‼︎ 坂本に何してんだ‼︎」


 まるで正義のヒーローさながらに肩を上下した山下君が今まで聞いた事もない低い声で、今まさに私にキスをしようとしていた男を殴り付けていた。

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