第二話 呼び名の降格と優しさの昇格
宰相エネスが懐かしむように、サージ城塞を眺めて呟いた。
「ここには私のかつての居城がありますよ」
「え? エネスさんって、ディスカール公爵じゃないの?」
公爵家のディスカール城は、もっと王都に近い。
「兄の亡き後に継いだのです。その直後に私の家族が殺され、王都も滅びた。幸せな思い出は、サージ城の方が多いのです」
サージ城塞に入りたいのは、エネスの方だ。
「そう……。戦いが終わったら、この城塞をディスカール領の中心にするといいよ」
悲しく微笑む白髪の宰相は、酷く年老いて見えた。王が消えた後、国王軍を取り仕切っているのは彼だ。その重責に、疲れているように見える。
「エネスさん、少し休んだ方がいい。無理してるんじゃないの?」
「ありがとうございます、殿下。でも後少しで《聖なる泉》、殿下の魔力が完全になるのが近い時に、休んでいられませんよ」
「…………」
その言葉に、僕は不安になる。泉の精の魔力を、操る自信がないのだ。
完全になったらどうなるんだろう?
泉の精の魔力って、魔法使い逹の魔力と何か違う。
僕自身に魔法を使う感覚がないせいなのか?
左腕に嵌まる〈抑制の腕輪〉を触った。
これのせいか?
天界の魔導具に振り回されているのを、情けなく感じた。
マールさんなら、これを取り除く事が出来るのかな?
マルシオン王をマールと呼んでしまうのは、彼を憎む事が出来ないからだろう。古の王とセルジン王が重なって見えるせいもある。共に永遠に生きる、水晶玉の〈管理者〉にさせられてしまったのだから。
「ここの《聖なる泉》も、魔界域に通じている可能性が大きい。テオフィルス殿に、殿下の護衛を頼みました」
「えっ?」
おもいっきり嫌な顔をしてみせた。先ほど僕を馬鹿にした、彼の顔を思い出す。
「陛下やマルシオン王がいない状況では、七竜の魔力が一番の頼りですよ。天界の兵士が、魔界域の者逹と戦いを交えるとは私には思えません」
確かに天界と魔界の争いになれば、人間界は簡単に滅びてしまうだろう。戦いの女神は二つの水晶玉の〈管理者〉を、人間界に求めた。少なくとも天界は、人間界を必要と判断しているのだ。
「あの男は、協力なんてしないよ。僕の事、嫌いなんだから」
「おや? 私にはそうは思えませんが……、むしろ逆なのでは?」
なんだか無性に腹が立ってきた。
「嫌いなんだよ! 絶対に、そうだよ!!」
感情的になっている事に苛立ちながら、エネスの側を離れた。セルジン王との仲が壊れかけたのは、あの男のせいだ。違うと解っていても、この事態を引き起こしたのは彼だと思いたかった。やりきれない感情を、ぶつける存在が欲しかったのだ。
イルー大河の支流沿いにある《ディスカールの聖なる泉》を目指し、国王軍はゆっくり進む。屍食鬼に覆われた空は暗く、倒木に道はふさがれ、それらを除きながら進むので遅くなるのは当然。王都ブライディンに近づく程、国の荒廃は目に見えて酷くなる。
《エステラーン王国等いらん!》
先程のテオフィルスの言葉が、嫌になるほど実感できる。これでは魔王を倒せても、国の復興は程遠い。だいたい天空の女神は、エステラーン王国を滅ぼすと断言している。
このまま本当に、滅びてしまうのかもしれない……。
テオフィルスが《王族》の受け入れを承知して、アルマレークの七竜は、女神の意志に反旗を翻す事になる。七竜は堕ちた神、元は神々と戦った悪竜神の、権威を剥ぎ取られ、八つに分散された内の七つの姿だ。八つ目は魔界域に堕ちたという。
七竜に、天界の意志に背く力が、まだあるのか?
「おい、落ちるぞ」
「え?」
テオフィルスの低い声が、左横で聞こえ顔を向けた途端、僕の身体が裸馬からずり落ちた。
「うわっ!」
落下する感覚に、恐怖の汗が出るのは何度目だろう。その度に横で補助してくれる、マシーナ・ルーザに受け止められる。
「大丈夫ですよ、何度でも受け止めますから。安心して訓練して下さい」
長身のマシーナが優しい笑顔で囁き、軽々と裸馬の背に僕の身体を持ち上げ、騎乗し直してくれた。セルジン王がいなくなった直後から、僕はテオフィルスに裸馬に乗る訓練を、強制的にさせられている。
どんなに抵抗しても、「万が一、制御不能なイリが、戻ってきた時のための訓練」という名目で、馬から鞍を取り外され、乗るのを強要される。そのうち手綱も取り外すらしいから、僕の気分はどん底にある。
度重なる恥ずかしい思いに、無様に裸馬の首にしがみ付きたくなるが、それをすると馬が暴れる。幸い手綱はアルマレーク人が持ってくれているので、今のところ暴れた事はない。反対側のテオフィルスが同じく裸馬に乗りながら、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「ヘタレ小竜、落ちるな! 裸馬の上でぼうっとするからだ。まぬけ小竜に降格してやろうか?」
[若君!]
皮肉たっぷりの言葉は、彼のかっこ良さを台無しにしている。マシーナが怖い顔で、テオフィルスを睨み付ける。そんな様子を見ながら、反抗する気力もなく呟いた。
「べつに、いいよ。まぬけ小竜でも……」
セルジン王を失った僕は、まぬけに違いない。あの日から自分を責め続けているので、その言葉は的確に思えた。テオフィルスが面白くなさそうに、再び鼻を鳴らす。
「じゃあ、まぬけ小竜。裸馬に乗る時は、それを外せ」
《ソムレキアの宝剣》を指差した。
「重くないのか、その宝剣? 前々から思っていたが、それの周りの空気が歪んで見えるぜ」
「別に……、重くない」
魔力は感じるが、重さなど感じた事もなく、存在を忘れるくらい僕に馴染んでいて、訓練用の剣より軽い。セルジン王を水晶玉から解放するための大事な宝剣を、外す事を考えると王との接点を失いそうで、ますます気が滅入った。
「外すのは出来ないよ。大事な物なんだ」
「…………」
不満そうに宝剣を睨みつける彼は、それ以上その事には触れなかった。
裸馬の体温と歩く動きが、足から伝わる。馬の鬣をつかみ過ぎないように軽く持って、真っ直ぐ進行方向を見ながら下半身でバランスを取る。少しでも気を弛めると落ちそうになる。
先方隊から本隊へ、道の整備のため止まる知らせが届き、行軍が前方からゆっくり停止してゆく。手にした鬣を少し引き、足の扶助で乗り手の意志を伝え、馬は停止した。もうすぐ《聖なる泉》に着きそうなのに、また足止めだ。
「オーリン殿下、そろそろ裸馬から降りていただけますか? 《聖なる泉》が魔界域に通じている可能性もあります」
トキ・メリマンがアルマレーク人を説得するように、わざと大きな低い声で丁寧に伝えた。《トレヴダールの聖なる泉》では泉の門が、完全に魔界域の出入口になりかけていた。《聖なる泉》の〈門番〉が黒い渦を出していたから、今回も危険が予想される。
あの時はマルシオン王に助けられたが、今、彼はいない。テオフィルスに頼んだと宰相エネス・ライアスが言っていたが、冷たい彼にこれ以上関わる気にもなれない。馬を降りようとした時、突然テオフィルスが警告を発した。
「馬から降りるな! 魔物がいるぞ!」
「え?」
バランスに気を付けながら見回すと、立ち枯れた木立の隙間から、暗闇を這い出るように何かが蠢いている。それは偶然とは思えないほど真上にあり、大きな蛇のように狙いを定めてゆっくり落ちて来る。粘液状の魔物は黒い身体の中で、気味の悪い赤い発光点を幾つも光らせていた。
「こっちへ来い!」
テオフィルスが馬を近付け手を伸ばすが、裸馬に二人乗りはどう考えても無理だ。躊躇っていると、無理やり自分の馬に乗せようとした。
「早く!」
気圧されて仕方なく彼に抱き付き、馬を移動する。僕の乗っていた馬の腹をテオフィルスが蹴り、手綱を持つアルマレーク人が手を放し、馬を逃がした。上から落ちてくる予想以上に大きな魔物に、皆が警戒し大きな円を書くように場を移動し、戦闘の態勢を取る。
テオフィルスに抱えられながら、僕達の乗る馬だけが移動しない。このままでは粘液状の魔物に押し潰される。
「テオフィルス?」
[リンクル、元の姿に!]
アルマレーク語で彼が命じた途端、二人の乗る馬は大きな七竜リンクルの姿に変わった。驚きと乗る生き物の変形に、振り落とされないように必死にテオフィルスにしがみ付いた。竜の身体から熱気が上昇し、焼き尽くされる恐怖を感じる。
「落ち着け、お前を焼いたりしない。ただ怒っている、領地以外の人間を乗せている事に」
「そんな……」
不可抗力で乗せられたのに、七竜の怒りを買うのは理不尽だ。
「安心しろ、俺が乗せたんだ。リンクルは従う」
〈七竜の王〉であるテオフィルスの言う事にリンクルは従い、上昇した熱気が元の温度に下がり、怒りを鎮めた。どことなくセルジン王が僕を彼に預けた理由が、少し解った気がした。理屈では女神に対抗するのは不可能に思えても、こうして七竜を操るテオフィルスと接すると、不可能な事も可能に思えてくる。
[リンクル、あいつを焼き払え!]
落ちてきた大きな魔物に向けて、竜が炎を吹く。真上に吹き上がる灼熱の恐怖と、暗闇を追い払う美しい紅蓮の炎。人々は一斉に背を低くし、熱から逃れた。明るく照らし出される荒廃した森は、簡単に焼け落ち熱に揺らめく
[終息]
ボソッとテオフィルスが呟くと、今までの炎が嘘のように熱を失い消えた。細かな灰がゆっくりと舞い落ちる。魔物の物か立ち枯れた木々の物か判別がつかないが、焦げ臭い臭いが辺りに充満した。
「お前、また痩せたな。しっかり食べてるのか?」
テオフィルスが無表情に、僕を見下ろしている。
「もちろん食べているよ。痩せる体質だから、気にしないでくれ」
不貞腐れ気味に横を向く、食欲等ある訳がない。セルジン王を失った痛手に、身も心も倒木のように朽ち果てるのを、心のどこかで望んでいる。
「口を開けろ」
彼に顎を持ち上げられ、上向かされた。
「何を……」
「いいから、口を開けろ」
「嫌だ!」
手を払い除け、横向きに乗せられている竜の鞍から下りようとしたが、彼に肩を掴まれる。
「口を開けないなら、俺が口移しで食べさせてやろうか?」
そう言いながら、何かを頬張った。その先の事を想像すると、嫌さのあまり口が開く。彼がにやりと笑い、何かを手で口に放り込んだ。
「……うぐっ」
噛みしめた瞬間、甘い果物の香りが口中に広がり、「美味しい」と心が呟く。彼が顎から手を放すと、僕は無言で何度も噛みしめた。飢えている事を、嫌というほど思い知らされる。
「レクーマオピオンの特産品だ。ナツの実の干したものだよ。これを作ったのは、お前の祖母さんだ」
僕は目を大きく見開き、皮肉っぽく微笑む彼を見た。会った事もない祖母が作った干し果物、それを知った途端、僕の目から何かがこぼれ落ちる。しばらく枯れ果てていたものだ。
ぶっきらぼうなテオフィルスの優しさが引き出した、セルジン王を失って以来、初めて流した涙だった。