第二十四話 戦いの女神(四)
天界の宮殿の中、セルジン王は女神アースティルのいる巨大樹への、雲の坂道を上る。巨大樹に近付くごとに、その神聖さに足が竦みそうになり、なかなか近付く事が出来ない。まるで創世の力を凝縮したような、壮大な樹木の生命力に心が慄いた。
これには魔力も何も通用しない。
吸い込まれてしまいそうだ。
上空ではいつの間にか現れた天界の兵士達と、七竜リンクルに乗るテオフィルスが戦闘を始めている。多勢に無勢、圧倒的にテオフィルスには分が悪い。
急がなければ、あれでは持たない!
巨大樹に心を奪われないようにしながら、先を急ぐ。戦いの女神は戦衣に身を包みながら、美しい死の閃光を優雅に繰出していた。かつて心を許し愛し合った美しい女性は、今は戦いに酔い痴れ狂喜の笑みを満面に浮かべ、舞う如く優雅に殺戮のために動く。その姿を美しいとは、もはや思えない。おおよそ姫君らしくない少女が、自分を完全に変えてしまった事に心の中で苦笑した。
王の私にしては珍しい程、幼い恋だ。
相手がオリアンナだからか?
……いや、私が影のせいか。
知らず知らずに笑みがこぼれた。
最期の相手としては、悪くない。
こんな非常時に不釣合いな思いに囚われながら、目の前で槍を振るう戦いの女神に近付く。一瞬で間合いを詰め、槍を掴みその動きを制する。
「攻撃を止めろ!」
女神アースティルは美しく微笑みながら、彼の腕を掴んだ。
「待っていたわ、私のセルジン」
「どういう事だよ? エランがあの剣を手にしたら魔界域へ行くって……」
〈ありえざる者〉オーリンの翼の檻の中で、僕は彼に掴みかかった。オーリンは見下すように僕を見つめている。
『君は本当にルディーナ・モラスが死んだと思っているの?』
「そうじゃないのか? どういう事だよ!」
『彼女はアドラン・ディラス・ブライデインに、強烈な恨みを抱いて死んだんだ。目の前で恋人だった君主を惨殺されたからね』
「……まさか! なんでそんな事知っている?」
『ふん、僕を誰だと思ってる?』
女神アースティルの息子オーリンは、不敵に笑う。
『父上や君の前では微塵も見せなかった、皆あの人形の可愛さに騙されたんだ。彼女の中の闇が、あの剣に凝縮されている事に誰も気付かない』
「そんな! だったら自分で魔界域へ行けばいいじゃないか!」
『父上の魔法で生かされていたのに?』
「それじゃあ、エランをモラスの騎士にしたのは、最初から魔界域へ行かせるつもりで?」
『だろうね。エランは屍食鬼になれば、簡単にあちらへ行けるから』
「そんな……。そんな事、絶対させないっ!」
『させないって、あの剣はもう離れないよ』
意気込む僕に皮肉っぽい視線を投げつけながら、エランを指差す。エランはまるで魅入られたように、剥き身の魔剣を見つめていた。
『剣に残ったルディーナの遺志と交信している。あれじゃあ、屍食鬼になるのも時間の問題だね』
「屍食鬼にならなければ、魔界域には行かないんだな?」
『……そうだけど、止めるのは無理だよ。ルディーナの遺志は、そのうちエランの意志に変わるから』
「やってみないと、分からないじゃないか!」
『…………』
何か物言いたげにオーリンは、厳しい顔をした。
『ふーん。前から思っていたけど、君って残酷だよね』
「え?」
『もう、いい。父上が母上に捕まった、僕達も行くよ。君を守るのは父上の頼みだけど、僕は母上には逆らえないからね』
オーリンはまるで無かった事のように、嬉々として翼を広げ、全身から光を放出した。翼の檻が解かれ、僕は彼から逃れようとしたが、身体が凍り付いたように動かない。それは他の者達も同じで、天界の兵士達に囲まれ恐怖を感じながらも、どうする事も出来なかった。そして全てが光に包まれ、何も判らなくなった。
―――気付いた時、目の前に巨大な樹木が立ち塞がっていた。そのあまりの大きさに圧倒され、誰もが魂を抜かれたように、呆然と樹木を見上げる。どのくらいの時を生きれば、こんな大きな樹木になるのだろう。太古の生命の息吹が辺りに満ち溢れ、あらゆる生き物がそこに集っている。人も動物も昆虫も……、楽園という言葉が僕の心に浮かんだ。何の苦しみも無く幸せに生きられる場所。
屍食鬼との長い戦いで疲れ果てた国王軍の戦士達は、まるで全てを忘れたように、その仲間に入ろうと足を運んだ。誰も気が付かなかったのだ、自分達がどんな危険に晒されているか。最初に異変に気付いたのは、全身の強烈な痛みのせいで、意識を取り戻したテオフィルスだ。
[ううっ、くそっ。ここは……、なんだ?]
アルマレーク語で呟かれた一言に、まるで魔法が解けたように僕はハッとした。目の前に水で出来た境界線があり、間もなく全員それに飲み込まれようとしている。それは巨大樹から溢れ出る、大量の樹液に見えた。
「皆、目を覚ませ! 飲み込まれるぞ!」
しかし僕の言葉は他の者達に届かない。楽園を求めて、既に樹液の中に足を踏み入れた者もいる。僕は近くにいたトキ・メリマンとエランにしがみ付き、彼等の歩みを止めようとした。
「トキさん、エラン、駄目だ! 目を覚ませ!」
トキに反応は無かったが、エランは自分の意志を取り戻す。
「オリアンナ? あれ、僕どうして……?」
「エラン、皆を止めるんだ!」
不思議な事にエランがトキを止めると、彼は意識を取り戻した。
「エラン、あとを頼む!」
「うん。でも、君は?」
「陛下を探す!」
そう言って僕は進もうとしたが、足元に血に塗れたテオフィルスが横たわっていた。先程意識を取り戻したのは、彼のアルマレーク語の呟きのおかげだ。僕は戸惑いながら、声をかけた。
「テオフィルス、大丈夫か?」
[あ……、ああ。リン……クル、俺の傷……を、癒せ……]
弱々しいテオフィルスの声と同時に、彼の周りに一瞬柔らかい光が現れた。リンクルの魔力により傷は塞がれたが、ダメージは残るようだ。血まみれのテオフィルスは顔を顰めながら、ゆっくり起き上がる。僕は無意識に、彼を支えた。
「立って、大丈夫なのか? 寝ていた方がいいよ」
「この状況で? あの樹液に飲まれたら、ここから出られないだろ。俺は、それは嫌だ」
「……た、立って動けるなら、もういいよ。僕は陛下の元へ行く」
「セルジン王なら、そこにいる」
テオフィルスの指差した方向に、王が女神アースティルに捕えられたように立ち、こちらを見ている。
「セルジン!」
「来るな、オリアンナ!」
セルジン王の制止も聞かず、僕は王の元へ駆け寄ろうとした。そして、左腕上腕に突如、激痛が走る。
「あ……、あああ……」
僕は左腕を押えて倒れ込み、あまりの激痛に動く事が出来なくなった。それは〈抑制の腕輪〉のはめてある箇所。
《愚かな姫君、後悔するぞ》
マルシオン王の言葉が、頭の中で木霊する。この腕輪が天界の魔道具なら、これを操るのは女神アースティルだ。意識を取り戻した近衛騎士達が、僕に駆け寄る。ダメージに顔を顰めながらテオフィルスは、僕の押える左腕の肩防具を外し、上腕の腕防具を素早く外した。アルマレークの竜騎士専用の鎧のため、彼が一番扱い慣れている。現れた鎧下着を引き千切ると、妖しく光る魔道具の腕輪が現れた。そのあまりの妖気に、テオフィルスは顔を歪める。
「なぜ、こんな物を……」
腕輪に触ろうとした彼の手が、魔力で弾かれる。誰もその腕輪を、取り除く事が出来ない。
「オリアンナを苦しめるのは、止めろ!」
セルジン王が憤りながら女神アースティルに詰め寄る。女神は微笑みながら、首を横に振った。
『愚かな姫君。死人の分際で、あなたの心を奪おうなんて……。大人しくオーリンを運ぶただの器でいれば、苦しむ事もなかろうに』
そう言いながら、声を上げて笑った。セルジン王と近くにいたマルシオン王は、そろって不快な表情で女神を睨みつける。
「……彼女を、助けてほしい」
『それが管理人になる条件なの? 些末な願いだわ、あなたらしくない。あの娘は役目を終えれば死ぬのよ、国王軍を救う方が重要ではないの?』
「…………」
『ブライデインへ近づく毎に、屍食鬼の数は増えるのよ。より凶悪な魔王の〈契約者〉達が王都を仕切っているわ』
「それは……」
『あなたが魔王に屈すれば、地上と魔界域が繋がるの。邪竜が目を覚ますわ。天界としても、それは面白くないわね』
「……国王軍を、天界が守ると?」
『少なくとも、屍食鬼からはね。魔王や〈契約者〉のような魔界域の住人には手が出せないけど、国王軍には少しは役に立つのではなくて?』
「私は……」
セルジン王は苦しむ僕を見つめ、トキや近衛騎士達を見つめた。
「私は……、王だ」
『うふふ、そうよ。あなたはエステラーン王国の国王なの。たとえ王国が滅びようと、最後まであなたには責任がある』
「オリアンナ姫のあの苦しみは、この先も続くのか?」
『……あなたが条件をのめば、腕輪の魔法は解ける』
「卑怯だな。……天界人はもっと清らかなのかと思っていた」
『ふふ、私を誰だとお思い?』
目的のためには手段を択ばない残酷な戦いの女神は、挑発的に胸を張り王の瞳を見つめた。セルジン王は僕に向きなおり、何かを囁く。〈抑制の腕輪〉から放出される痛みの魔法に苦しめられながら、僕は王の唇の動きを読んだ。
そなたを、助ける。
僕の瞳から、涙が流れた。王はテオフィルスを見つめ、何かを振り切るように叫ぶ。
「テオフィルス・ルーザ・アルレイド殿、貴殿にオリアンナ・ルーネ・ブライデインを託す!」
その場に居合わせた者は、王の言葉に愕然とした。それはエステラーン王国を、アルマレーク共和国へ明け渡す事を意味する。
「陛下!」
皆が反対の意志を表明する中、血塗れのテオフィルスは立ち上がり胸に手を当て、礼を取る。
「確と承った! 安心して行かれよ!」
セルジン王が水晶玉の〈管理者〉となってしまう事、最悪消えてしまう可能性も含め、事前にテオフィルスには打ち明けてあった。王は彼に頷き、女神の腕を取った。
「国王軍への、天界の加勢が条件だ!」
『保護ではなく加勢?』
「そうだ、絶対に見殺しにしない。それが条件だ!」
『……良いでしょう。地上が大事になるかもしれないけど』
「既に大事になっている!」
『ふふふ、私を巻き込めば、もっと大事になるわよ』
「何を今さら! これは貴殿が仕組んだのではないのか?」
『あははは……』
王は女神に、激しい憤りを感じた。
「さあ、急げ! 連れて行け、どこへなりとも!」
その瞬間、女神は極上の笑みを浮かべながら、セルジン王と共に消えた。巨大樹も雲の道も、一瞬で消えてしまったのだ。
気が付くと皆はただ呆然と、廃墟であるトレヴダール城の、騎士の大広間に立ち尽くしていた。荒廃した現実が薄暗闇の瓦礫の中に、埃と共にある。
僕の腕の痛みは、綺麗に消えていた。
ただ、セルジン王を失った心の痛みは、消す事が出来ない。
あまりの出来事に、涙も出ない程に……。
ここまでお付き合い、ありがとうございました。
第三章内容的には初めて、予定通りのところで終わる事が出来ました。
一章も二章も予定外のところで終了したので、次の章がかなり大変でした。
現在、四章目ゆっくり更新中です。読んでいただけると嬉しいです!