第十二話 霧の中の正義
エランの横に跪き僕は涙を振り払いながら、彼の肩に腕を回す。
「エラン……、目を覚ませ」
彼の赤い髪が、柔らかく指に絡みつく。胸に抱きしめ、額に唇を落す。
「エラン! もう大丈夫だ、目を覚ませ」
彼にくちづける。エランの目蓋が軽く痙攣し、開いた瞼から水色の瞳が僕を映す。
「やあ、オリアンナ……。あれ? 僕、どうしたんだ?」
彼は驚いたように飛び起き、眩暈を起こしたので、僕が支えた。
「……気分、悪っ」
「あいにく、薬師は結界の外だ。エラン、これを噛むのだ」
王は薬袋から何かを取り出した。僕は動けないエランの代わりに、王から受け取る。半透明な黄色く小さな結晶で、良い香りがするキラの蜜の結晶だ。エランはそれを口にして、少し回復した。
「そろそろ結界を解こう、外が心配だ。モラスの騎士、警戒を怠るな」
王はそう言って右手人差し指を、結界を破るように突き出した。自分の張った結界に対しては、影である王も破れるのだ。
バン!
大きな音と同時に、圧倒的な霧が目の前に押し寄せて来る。誰もが戦闘を予想し身構えていたが、屍食鬼の気配が消えている。ハラルドが消えた事で、いなくなったのだろうか。
「マールを呼べ! トキ、状況を教えよ」
トキは霧の中からセルジン王の元に駆け付け、礼を取りながら説明する。
「陛下が結界を張られてすぐに、屍食鬼は消えました。怪我人はなし、幻覚を見せられていたと思われます」
「ハラルドの狙いはオーリンだけか。それ以外には関心も示さない。余程恨んでいるのだ」
王は僕を見ながら、自分を振り返るように呟いた。
「《王族》は罪な存在だ。良きにつけ悪しきにつけ、人の心を無意識に惹きつけてしまうのだから」
僕はエランを支えながら、霧の中を歩いていた。よろける彼の重みに一緒に倒れかけた時、駆け付けたマールとその弟子達が僕達を支える。
「無理をしては、いけません。もうしばらく安静に……」
「マール、ここに留まるのは危険だ。キラの蜜を食べさせた、すぐに元気になる」
セルジン王が急ぐように、薬師に伝える。マールはエランを抱えて馬の元まで運び、他の騎士も手伝って何とか馬に乗せた。
「大丈夫か? 本当に、一人で乗れる?」
「何とか、大丈夫だろ。君がお姫様座りで前に乗りたいんなら、乗せてあげてもいいけどね」
エランは明らかに無理をして、にやにや笑った。僕はそんな彼を見ながら、胸の痛みに耐えていた。心の中ではエランを裏切っていて、冗談で返す事が出来ない。
「……冗談が言えるんなら、大丈夫だよ」
項垂れながら彼の側を離れようとした時、突然霧の向こうから叫び声が上がる。
「霧魔だ! うわあぁぁぁ……」
明らかに兵士が襲われた叫びが、霧の向こうで響き渡る。僕の心に霧魔に襲われた時の恐怖が蘇り、息が上がって前に進む事が出来なくなる。ルディーナが僕の横で赤く光る剣を抜いた。小柄で可憐な少女の姿にはおおよそ似つかわしくないその剣からは、異様な魔力が放出されている。屍食鬼の放つ黒い渦に似たそれは、僕とルディーナを包む不思議な膜を作る。
凝縮した霧の化物が、地を這うように僕の足元に絡みつく。恐怖に叫び声を上げそうになったが、霧魔は僕を認識しないで通り過ぎた。
「ルディーナ……」
「オーリン様には触れさせませんわ。あのような低級な魔物には」
ホッとしたのも束の間、僕の横を通り過ぎた霧魔は、まっすぐエランのいる方向へ向かう。
「エラン、危ない!」
僕は霧魔の後を追い、ルディーナが止めるのも構わず彼の元へと走る。霧魔はエランの乗る馬に近付き、馬は気配を察し急に駆け出す。体調の悪いエランは、馬から振り落とされ地面に落ちた。セルジン王が即座に馬を下り、霧の中に踏み込む。近衛騎士達も続こうとするが、王が許さない。
「全員松明をかざして、安全な場所まで退避!」
影である王は霧魔に襲われる事はない。霧魔に捕らえられ、引き摺られ森の奥へ入り込むエランの後を追い、道から外れる。エランと王を見失わないように僕も後を追い、ルディーナが僕への魔法維持のために続く。
エランが傷だらけになっている事を想像すると、気が気ではない。僕には聖なる泉の精の魔力があり回復は早いが、エランにはその魔力が無い。死んでしまうかもしれないのだ。セルジン王の影が木々の間に見えた。彼は立ち止まり、何かを見ている。僕はやっと追いつき王の見ているものを見て、ギョッと立ち止まる。
大きな竜が霧魔ごとエランを口に咥えて、低い唸り声を上げている。霧魔は竜の口から逃れようと身を捩るが、霧状にも関わらずがっちりと押さえつけられ逃れる事は出来ない。一緒に咥えられているエランの身体から、人間の赤い血が流れ竜の口から滴り落ちる。まるで今にも、竜に食い千切られそうに見える。
『彼は呪いをかけられているだけだ。魔界域の者ではない、殺さないでほしい!』
王の説得に竜の凶悪そうな目が、ますます凶悪さを増した。竜は大きく息を吸い、炎のようなものを口から吹き出した。
「エラン!」
凄まじい炎にまみれ、エランの姿が見えなくなった。誰もが彼は死んだと思った時、炎が止み竜の口の中に意識を取り戻し身動きする彼の姿が見えた。霧魔は一瞬で焼失し、エランは生き残った。怪我をしている彼は、まだ状況が呑み込めない。
僕はホッとしたと同時に、別の不安が頭を過ぎる。竜がいるという事は、テオフィルスが近くにいるという事だ。エランと彼を会わせる訳にはいかない。
「陛下……」
「解っている。ルディーナ、オーリンの存在を隠せ」
「もう、隠していますわ。オーリン様、喋らないで下さいね」
エランは自分が魔物に咥えられている事に気付き、その口から脱出しようと痛む身体を捩り、今にも落ちそうになっている。
[リンクル、降ろしてやれ]
竜の横から低い声が響き渡る。テオフィルスが低木を掻き分け霧の中から姿を現した。エランは完全に彼を認識し、見守る者達に緊張が沸き起こる。竜は口を地面に近付け、エランを落とす。荒っぽい扱いに、怪我をしているエランが呻いた。
「大丈夫か?」
テオフィルスが近付き、エランの怪我の状態を診ようと肩に手をかけた。
「触るな、アルマレーク人!」
エランが手を振り払う。彼の周りから薄っすらと黒い渦が沸き上がる。
「なんだ、お前か、王太子の腰巾着。お前……、いつから屍食鬼擬きになったんだ?」
テオフィルスの言葉に、僕は青ざめ思わず抗議しそうになったが、ルディーナに腕を掴まれ、動く事も声を上げる事も出来なくなった。僕が側にいる事でエランを刺激してしまう。昨夜のような事態になったら、霧魔のいる場所で野営をする事になるだろう。危険極まりない事態を避けるため、ルディーナは僕に魔法をかけたのだ。焦燥を露わにしながら、僕にはただ見守る事しか出来ない。
何も知らないエランは、テオフィルスの言葉に疑問を投げかける。
「屍食鬼擬き? 何の事だよ?」
「…………」
テオフィルスは黙って彼を睨み付けた。七竜リンクルがエランを咥えたのは、霧魔同様に彼を魔物と判断したからだ。だが彼には普通の人間としての意識があり、自分の状況を把握していない物言いをしている。
「国王軍にいて、よく今まで無事に生き延びてこれたな」
テオフィルスは剣を抜き、エランに向けた。
「今のうちに殺されておけ、あいつにとって厄介な存在になる前に!」
「……だから、何の事だ!」
霧魔に引き摺られ傷だらけのエランに勝ち目はない。それでも戦うために立ち上がり剣を抜いた。彼の周りに沸き起こる、どす黒い渦が濃さを増す。徐々にエランの意志は黒い渦に飲み込まれ、人の形をした魔物のように変化していく。僕はその姿を見るのが辛い。
テオフィルスの剣が、今にもエランを貫きそうになった時。
『待て!』
二人の動きを阻む大声が、天地に響き渡る。セルジン王から発せられた声は、まるで戦意を挫く雷の如く二人を討ちつけた。




