第三話 僕の役割
『あなたの王は今、絶望の中で、もがいています』
「……え?」
父が消えた泉の水中に、人とも魚ともつかない泉の精が姿を現した。混乱する僕の心に冷や水を浴びせるように、清らかな声でセルジン王の苦しみを伝えてくる。
『エステラーン王国の宝玉に触れた《王族》は、命と引き換えにこの世を支配する強大な魔力を手にします。あなたの王はその魔力に支配され、止まった時の中で苦しんでいる。《王族》の減少が彼を弱らせ、水晶玉の魔力に心を蝕まれているのです。今のままでは、彼も魔王と化すでしょう』
「嘘だ! 陛下が魔王になんて、なるはずがない!」
いつも優しいセルジン王からは、想像も出来ない推測に、僕は断固として否定した。
『最後の《王族》のあなたの存在が、彼の理性を繋ぎとめているのです』
「…………」
『セルジン王を救えるのは、《ソムレキアの宝剣》の主である、あなたしかいないのです、オリアンナ姫』
「それは……、父上が言った通り、陛下を消滅させるって事か?」
『彼の理性があるうちに、水晶玉から解放するのです。エドウィンの言う通り、消滅させた方が彼の救いになると、私達には思えます』
僕の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
「そんなの、嫌だ! なんで僕が、陛下を消滅させなきゃいけないんだ! 僕は陛下を助けたいんだ。人に戻したいんだ! 消滅なんて、絶対にさせない!」
僕は《聖なる泉》の前で、身を屈めて泣き続けた。涙はまるで湧き続ける泉のように、僕の目から流れ続け止まらない。
どのくらい時間が経ったのか解らなくなった頃、泉の精の優しい声が僕を現実に引き戻した。
『嘆かないで、オリアンナ姫。私達が、あなたを助けます』
清らかな泉の精が、揺らめく水の中から、僕に手を差し伸べる。僕は泣いて赤くなった目を、おずおずと泉の精へ向けた。
『王を助ける望みは、きっと叶えられるでしょう。あなたをよく見れば、解ります』
望みが叶う?
あまりの驚きにそれまでの嘆きが、一気に僕の中から吹き飛んだ。
「本当に? 本当に叶うの? どうやって、助けられるの? 方法は?」
涙を拭いながら、期待を込めて尋ねる僕に、泉の精は警戒するように首を横に振る。
『私達が教えなくても、いずれそれはやって来ます。その時まで、エドウィンが全てを犠牲にしてあなたに残したものを、どうか否定しないで下さい』
「父上が、犠牲? どういう事?」
急に不安が頭をもたげてくる。父エドウィンは、今どういう状況にあるのか? 王都ブライデインは、屍食鬼の巣窟になっていると聞いている。そんな場所で、どうやって生き延びているのか?
『《ブライデインの聖なる泉》で、彼に会えば解ります、オリアンナ姫。契約の代償は、彼が払いました。あなたは導を受け取るだけです』
「え?」
突然、泉から強烈な光が噴出し、周りの全てを呑み込み膨れ上がった。
あまりの眩しさに、手で目を覆い隠す。
「わあっ!」
訳が分からないまま、身体が宙に浮く感覚に声を上げた。光が身体中に侵入し、焼き尽くされる感覚に足掻いて、必死に振り払おうとした手は、虚しく宙を掻く。世界も僕も消えてなくなる恐怖に怯えた。
「止めろっ――――!」
―――突然光は消え、浮遊感も消えた。
恐る恐る目を開けると、《聖なる泉》は何事も無かったように静かで、湧き出る水の音だけが聞こえる。僕の荒い息遣いが、不協和音のように木霊した。
「何だ……、今の?」
不意に違和感を覚え見ると、左手の周りを水が取り巻いていた。冷たさも濡れた感覚もないのに、視覚は意志を持って蠢く水を映している。
「うわあああっ!」
慌てて振り払ったが、それは左手に吸い込まれ、水の紋様を左手全体に刻み込む。違和感が体中を駆け巡り、左手だけが僕とはかけ離れたものに感じる。
「止めてくれ、泉の精!」
その瞬間、紋様は消えた。
『それは〈生命の水〉という私達の魔法です。あなたの命の灯が消える時まで、命を守り続けます。あなたが立ち向かうのは、人の魔力の及ばぬ者達です。オリアンナ姫、全てはあなたに掛っています』
「え?」
『《聖なる泉》が消えれば、魔界域の扉が開くでしょう。そうなれば、この世は滅びます』
「…………」
魔界域……、その言葉に言いようのない恐怖が、胸の痛みを伴って沸き起こった。魔王アドランの剣で胸を貫かれ殺された僕は、魔界域へ堕とされたはずだ。魔王に殺された者が堕ちる場所、魔界域。僕にはその時の記憶がまったくない。それでも胸から背に残る傷痕が、切り裂くような痛みを訴えている。
僕は、なぜ生きている?
いつもの疑問が、痛みと共に頭を占める。
『エステラーン王国の、各地の泉が枯れ始めています。魔王が魔界域を呼び寄せ、ブライデインに近付いているのです』
「だから僕に、魔王を消滅させろっていうのか?」
『その通りです。あなたにしか出来ない事です』
いきなり肩が重くなり、身動きが出来なくなる。世界を背負う重責に打ちのめされ、足元も見えない程、この世が暗く感じる。
どうして、僕に? 僕は《ソムレキアの宝剣》なんて、持ってないのに……。
心を読んで、泉の精は答えた。
『ただ前へ進みなさい、オリアンナ姫。《ソムレキアの宝剣》は必ず現れます』
「どうして……、僕なんだ!」
『生まれた事に役割があるなら、あなたはそれが定めです。乗り越えるのです。そうすれば、望みは叶うでしょう』
「陛下を人に戻す方法は、あるんだね?」
『…………あなた次第です』
僕、次第?
王の姿を思い浮かべた。希望という火が、心の中に灯った気がする。この世の生存より、セルジン王の生存の方が大事に思えた。
僕次第で、陛下を人に戻す事が出来る?
すべて乗り越えれば、望みが叶う?
自分の思考に呆れながら、魔力を秘めた左手を見つめた。ただの左手にしか見えないが、まるで剣を手にした心強さを感じる。
この手で、陛下を人に戻す。まだ方法は解らないけど、必ず戻す!
希望を掴みとるように、左手を握りしめる。
『メイダール、トレヴダール、ディスカール、それぞれの《聖なる泉》を見つけ出し、四つの導を受け取ってエドウィンに会いなさい。彼の遺産を受け取るかは、あなた次第です』
「遺産? 父上は、生きているんじゃないのか?」
泉の精は一瞬、悲し気な表情で僕を見つめ、ブライデインの方角を指差した。
『行くのです、エドウィンの待つ《聖なるブライデインの泉》へ。会えば、全てを理解出来るでしょう』
そのまま突き放すように泉の精は交信を絶ち、湧水の中に姿を消した。
《聖なる泉》の光は消え、湧き出る泉の音だけが大きく木霊する。
あまりの出来事に呆然としながらも、ただ一つの考えだけが心を占める。
前へ進めば、陛下を人に戻す方法に行きつく!
僕は前を向き、突き動かされるように《聖なる泉》に背を向けた。
緩やかな泉の階段を駆け上る。すると急速に景色が動いている感覚に囚われ、軽い眩暈がした。倒れそうになるのを、必死に堪えながらなんとか頂上まで辿り着く。めまぐるしく変わる景色を想像していたのに、目の前には巨大なアーチ門。
僕の考えを、読み取っているみたいだ。ありがたい……。
早くセルジン王に会いたい、心の中にはそれだけしか無い。微笑みながら飾り門を潜り抜けようとした時、その声は聞こえた。
『天界の罠に、気を付けて……』
「え?」
また視線を感じて、アーチの頂きを見上げた。明らかに楔石から声がする。泉の精とは違う意志が、僕に呼びかけている。
「……誰?」
答えはなく、楔石はただの石にしか見えない。
気のせい? 何かに気を付けてって聞こえた。何に……?
疑問に思いながら、アーチ門を抜けるとそこは深い森の木々、そして目の前に泉の〈門番〉が立っていた。
『聖なる水を、一滴所望しよう』
「え? は……、はい」
戸惑いながら水袋に汲んだ聖なる水を、差しだされた〈門番〉の篭手のてのひら、皮の手袋に一滴垂らす。すると〈門番〉の全身が薄ら光りだし、喜んでいるように見えた。
うわっ! この人、本当に人間?
初めて会った時と同様の疑問が、心に浮かぶ。
『退場を許可する』
そう言って〈門番〉が消え、途端に閉ざした森の木々が、生き物のように蠢き道を開けた。
不思議な光景を、今日一日で一生分体験したように思えた。〈成人の儀〉とは、この世とは別の世界に行って、帰ってくる儀式なのだろうか? 日常から離れた聖なる場所で、僕は心に希望を焼き付けて帰って来た気がした。
開かれた木々の先に、セルジン王の姿があった。黄昏時の薄暗がりと松明の灯りに、他の者達の姿は霞んで見える。
「陛下!」
王は優しく微笑みながら両手を広げ、出迎えてくれた。よろけ縺れる足を心の中で鞭打ちながら、王の元まで長く思える距離を走る。そうして彼の腕の中に飛び込んだ。
「よく無事で戻った。あまりにも遅いから、心配したぞ」
「陛下」
安心感に涙が流れた。婚約を解消されても、王はいつものように優しく、僕を抱きしめる。嬉しくて涙で霞む目に、微笑む彼の姿がグラついて見えた。
「オリアンナ?」
「僕は……」
支えるセルジン王の腕の中で、なぜふら付いているのか意味が分からない。王が耳を触り、顔を近付けて額に手を当てる。彼の手は冷たく心地良い。
「薬師を呼べ! 高熱を出している。早く、手当を!」
「あ……なた……を……」
王の緊急の声が、遠くに聞こえる。彼が、僕の身体を抱き上げる。その心地よさに微笑みながら意識を失った。
必ずあなたを、人に戻します、陛下……。