第二話 《聖なるレントの泉》
そりゃ、男子として育ったんだから、僕が女らしくないって思われても仕方ないけど……。いきなり婚約破棄って、あんまりだよね。
そう思うと、目にいっぱい涙が溢れてきて、完全に落ち込んだ状態で〈成人の儀〉に臨まなければならなくなった。
僕の横を歩く近衛騎士隊長トキ・メリマンが、横柄な口調でこっそり伝えてくる。
「安心しろ、国王軍の誰一人として、セルジン王の退位など望んでいない。陛下はドゥラス殿下を亡くされたばかりで、絶望感から言っているだけだ。人に戻る希望を見失っている」
トキは僕を守る役割を言いつけられ、王から離れて、僕と一緒に《聖なる泉》の入口へと歩いていた。
「陛下を助けるのは《王族》にしか出来ないと、以前、ドゥラス殿下が言っていた。今はオリアンナ姫にしか出来ない。だから、しっかりしてくれ! 俺達は、殿下が国王軍に加わるのを、待っていたんだ」
「…………」
慰めるために、言っている訳じゃないよね。僕にしか出来ない? どういう事だろう?
僕は涙を拭って、トキを見上げた。真直ぐ前を向いている彼は厳しい人に見え、優しさから慰めている訳ではないと解る。
「陛下を人間に戻す方法を、見つけ出してくれ。それが解れば、きっと陛下の希望も戻るし、婚約者としてのオリアンナ姫の必要性も痛感するはずだ。俺達は陛下が人に戻るためなら、どんな協力も惜しまない」
少なくとも僕が歓迎されている事と、この近衛騎士隊長が味方になってくれる事は理解出来た。おずおずと、僕は頷く。
「僕にしか出来ないなら、やるしかないよね」
強面のトキが、口角を上げて微笑む。
「ああ、やるしかない!」
トキとその部下の近衛騎士達に連れられて、《聖なる泉》の門にたどり着く。
「分かっていると思うが、〈成人の儀〉は、聖なる泉から水を汲んで帰ってくるだけの儀式だ。ここで成人と認められなければ、行軍参加は出来ないぞ」
「うん、知ってる」
「気を付けなければいけないのが、目の前にいる〈門番〉だ。彼はこの世で最強の騎士。入場許可出来ない相手には、容赦なく切りかかって来るから、気をつけろ」
「…………」
土壇場で言うのは、止めてくれ。
《聖なる泉》の〈門番〉は、全身豪華な銀色に輝く鎧を装着し、面鎧を下ろし顔は見えないが、まるで強そうな騎士人形のようだ。
この人……、人間か?
溢れ出る殺気に、逃げ出したくなる。
『名を告げよ』
〈門番〉が、重々しく尋ねる。
「オリアンナ・ルーネ・ブライデイン」
本当の名前を、恐々伝える。緊張に、見えない顔をじっと見る。
『入場を許可する』
全員がホッと胸を撫で下ろした。
「殿下、門へ進むんだ」
トキの指示に頷き、警戒しながら一人で〈門番〉の横を通り過ぎた。〈門番〉は身動き一つしない。トキと近衛騎士は、刺激しないように徐々に後退していった。
不安と孤独に後ろを振り返ると、見送る人々の中にセルジン王の姿があった。彼は心配そうに、僕を見ている。
僕は……、婚約破棄されても、あなたが好き。
悲しくなって、涙が出そうになった。王太子と言われても、まったく実感が湧かない。まして女王になるなんて、考える気にもなれない。
僕にとっての王は、あなた、ただ一人だけだよ。僕は、あなたの側にいたいだけ。望みはただ、それだけなんだ……。
だから、この儀式は絶対に乗り越える!
一瞬で場の空気が変わったのを、肌で感じた。聖域へ入ったのだ。
後ろを振り返っても目に映るのは深い森の木々、王も騎士達も、どこにも姿が見えず、歩いてきた道すらない。
目の前には森をくり抜いたように立つ、白亜の巨大なアーチ門。それは光り輝くように荘厳で、向こう側は虹色にぼやけて見えないが、微かに水の流れる音が聞こえた。
この先が、《聖なる泉》なんだ。
深呼吸しながら門に入ろうとした時、ふと誰かの視線を真上から感じ見上げると、高いアーチの天辺に不思議な形の楔石。
なんだろう? あの石に、見られている気がする。
花のような、人のような、動物のような……、不思議な楔石はかなり高い位置にあり、はっきりとした形が判らない。
気のせいかな? 石に見られるなんて、変だよ。
不思議に思いながら、門を通り抜けた。
虹色に見えていた門内には、手入れの行き届いた広大な庭園があった。中央に広い道があり、両側に綺麗に刈り込まれた生垣や、幾何学的に並べられた花壇が連なる。見渡す限り人の姿は無いのに、そこでも多くの視線を感じる。
なんだか、怖い。
満ち溢れる思念から、逃げるように走り出す。突然景色が変わり、今度は一面の花園。そこでも同じ無数の視線。
どうなっているんだ? 聖域ってもっと優しい所だと思っていたのに、凄く怖い。
花園の次は水路と石柱庭園、次は朽ち果てた石像が緑に浸食された廃園。次々と変わる景色を見ないようにして、多くの視線から逃れ、無我夢中で走り続けた。
息が苦しく、もう走れなくなった頃、大きな水音に混じって声が聞こえた。
『……ンナ、……オリアンナ姫、ようやく会えましたね』
「え?」
顔を上げ声の主を捜したが、人影は見あたらない。心に直接響く声は、シモルグ・アンカに接している時と同じだ。目の前には、いつの間にか大きな円形状の階段庭園が現れ、緩やかな幅広の階段が中央の四本の石柱で囲まれた泉へと続いていた。
僕はなんとか息を整えて、恐る恐る段差を下りてみる。歩いても景色は変わらず、異様な気配も感じない。
やっと、《聖なる泉》に辿り着いたんだ。
安心感と疲れから、脱力して階段に座り込む。
『あなたを待っていました。ずっと、昔から……』
中央の泉の湧水が大きな音を立て、勢い良く吹き上がる。しばらく見つめているとそれは形を成し、人とも魚とも思える透明な美しい姿を現した。
「泉の精霊?」
『オリアンナ姫。父君の伝言を、湧き出る泉から受け取りなさい』
「……え? 父上の伝言?」
思ってもみない言葉に、耳を疑った。遠い昔に家族を置いていなくなった父が、僕に伝言を残しているのだ。慌てて立ち上がり、階段を駆け下りる。泉の水が、円形の四方に流れ出る階段の水路を駆け上っている。その不思議さよりも、父の伝言欲しさに激しく揺れる水面を覗き込む。
……何も映らない。
「父上は? 父上は、どこにいるの?」
『泉を、汲むのです』
「そうか、〈成人の儀〉だね」
僕は腰から下がる水袋を手に取り、清らかな泉の中に手を入れた。すると……。
目の前の泉の上に、男が現れた。
二十二・三歳、セルジン王の外見と同じぐらいの年齢だろうか。日に焼けて浅黒い肌に真青な瞳、金色の長い髪を後ろに束ね、僕と同じ、上腕と大腿が少し長いアルマレーク人の体型で、見た事のない軽装の鎧を装着している。
エドウィン・ルーザ・フィンゼル。
父が真っ直ぐ、僕を見つめ返してくる。
「父……上……」
鼓動が高鳴る。
初めて父の姿を見たのだ。
「オリアンナ、私の事を恨んでいるだろうな。突然いなくなったのだから」
首を横に振る。母を亡くしてから、父を捜しに行く夢を何度も見てきた。今、目の前にその父がいる。
「恨んでなんかいません! 僕は……」
「よく成人まで、育ってくれた。母上に感謝しよう」
「え? 僕は……」
成人より少し前だけど、そう見えるのかな?
「父上? あの……」
父の目が何も映していない事に、ようやく気が付いた。
「私は今日、二歳の君と母上に別れを告げた。理由は聞いているだろうか?」
「……」
返事をしても父に聞こえないのは理解出来る、これは過去の伝言なのだ。母が《王族狩り》で殺された事を、父は知らない。
「君の目の前に、《ソムレキアの宝剣》が現れたからだ」
驚愕した!
いつも悪夢の中に出てくる《ソムレキアの宝剣》の事を、父が口にするとは思ってもみなかった。父は厳しい顔で、経緯を告げる。
「《ソムレキアの宝剣》が、君を主に選んでしまったからだ」
……主って、僕を? 何の事だ? 僕はそんな物、持ってないよ。
訳が分からず、呆然と父を見つめた。
「《ソムレキアの宝剣の主》だけが、水晶玉に取り込まれた《王族》を解放し、消滅出来る」
「……え?」
身体から力が抜ける感覚に襲われる。
解放し……、消滅?
「君はアドラン王子から、命を狙われる事になるだろう」
まさか、僕の手でそれを、やるんじゃないよね?
「王都ブライデインにある、二つの白亜の塔へ行って、アドラン王子とセルジン国王を解放し、消滅させるのだ。そうでなければ、この世は滅亡する!」
…………陛下を、消滅?
あまりの要求に、父が何を言っているのかまったく聞き取れない。
「私は君を助けるために、レントの泉、メイダールの泉、トレヴダールの泉、ディスカールの泉にそれぞれ導を残す予定だ」
一方通行の父の姿が、徐々に歪んで見えた。
「導は君を守る、泉の精の魔力だ。全て受け取ってブライデインの《聖なる泉》へ来てほしい」
僕が知りたいのは、陛下を人に戻す方法だよ。消滅なんかじゃない!
「私はそこで待っている。いつまでも……、待っている」
父は目を瞑り、やがて消えた。
「愛するオリアンナ……」
泉を囲む石柱の前で、僕はただ呆然と《聖なる泉》を見ていた。