第十九話 《ソムレキアの宝剣》
今回、残酷な表現が多数あります。
苦手な方は、注意してお読みください。
申し訳ありません。
―――歌声が聞こえる。
優しい女の声。
子をあやし、包み込み、抱きしめる温かな腕。
思いっきり甘えられる存在に身を預け、その胸に顔を擦り付ける。
なんて幸せなんだろう―――
目が覚めたら、血まみれの書斎に横たわっていた。目の前に、半分喰いちぎられ片方の眼球が飛び出した男の片目が、僕を見つめている。恐怖に悲鳴を上げたいのに、声が出ない。猿轡を噛まされ、両手を後ろ手に両足共縛られているからだ。
くぐもった悲鳴を聞きつけ、月光石を持ったテオフィルスが、死体を踏みつけやって来る。
「この館が他人の住居というのは嘘だな。お前の王は、嘘つきだ。しばらくそのままでいろ、騒がれると厄介だ。用件が済めば立ち去る。置き去りにするが、お前はそのうち誰かが見つけるだろう」
[若君、ありました。「サリタの隠し絵」です。老トムニ、解読願います]
[ふむふむ、「サリタの隠し絵」を使うとは、エドウィン様らしい。ご家族に気を使われての事じゃ]
テオフィルスは、模様に見える暗号文を確認するために、仲間の元に戻って行った。
三人の男達が手がかりに夢中になっている間に、恐怖から逃れようと泣きながら這いずり、部屋の入り口に向かう。血が全身を汚した。夜なのに白昼夢のように、この館の惨劇の全てが見える。
屍食鬼に殺された者達の魂は地獄につながれ、永遠の責苦に遭うという。惨殺された者達の、うめき声が聞こえる。ただ違うところは、殺戮する屍食鬼達の姿が無い事だが、僕にはその事に気付く余裕も無い。
書斎の入り口の扉は開いていて、何かの気配が向こうにある。
呼んでいる……。
入り口近くの廊下に、喰いちぎられ血にまみれた女の背中が見える。それを見ないようにしながら、扉を抜ける。怯える狭い視界で、不意に進む頭が、何かに当たった。恐怖を噛み殺しながら見上げる。
セルジン王が立っていた。
王は口元に人差し指を当て、静かにするように動作で伝える。僕の目から、安堵の涙が溢れ出す。猿轡と両手両足の戒めが解かれた。
「王さま……」
王にしがみ付き、声を噛み殺して泣いた。
彼は優しく抱きしめる。
「そなたに、ここは無理だ。早く館の外へ」
「血が……、ここ、血まみれ……。オリアンナ……、ここ、嫌」
意識が、幼いの子供に戻っている。
王は横抱きに僕を抱き上げ、優しく語りかける。
「そうだな、ここは血塗れた記憶がこびり付いている。そなたは記憶の中にいるのだ、目を閉じ、耳を塞いでいろ。何も感じ取るな。必ず守る、安心するのだ」
言われた通り、目と耳を塞ぐ。何も感じ取らないはずだった。
……何かが聞こえた。
それは昼と夜の狭間、黄昏時の鳥達の喧騒にも似た、帰巣本能の叫び。
人とも鳥ともつかぬその叫びは、僕を求めている。
「呼んでる……」
「耳を傾けるな、何も考えるな。ここはただの館だ」
王は足早に二階の書斎を離れ、吹き抜けの廊下を渡り、階段から玄関ホールに降りた。
「あそこ……」
目を開け、一階のホールの中央を指差す。そこは僕が、公開処刑のように殺された場所だ。王は見ない。
「ならぬ! 感じ取るな」
「光ってるの……、剣が。血の中で呼んでる、オリアンナって……」
彼は足を止めた。
「……剣?」
ゆっくり、その方向を見る。そこは八年間の埃と、蜘蛛の巣が厚く積もった床、夜目が利く王でも、何も見えない。
「剣は、光っているのか?」
「うん。おいでって、呼んでるの。あれで母さまを助けられる?」
王に降ろされ、そのまま彼の手を引っ張りそこへ行く。王は導かれるまま、その手から手へ魔力を送り込む。僕の見ている過去の記憶を、映し出す魔力を……。
「或いは、そうかもしれぬ。その光を手にしてみよ、オリアンナ。ただ、見るのは光の剣だけだ。それ以外は感じ取るな」
僕の周りに、血で染まったホールが現れ、やがてそれは館全体へ広がっていった。この館の惨状を再度目の当たりにした王は、一瞬目を背ける。妹の無残な姿を、捉えてしまったのだ。王の目に、悲しみが浮かぶ。
「何も見てはならぬ、見るのはただ光の剣だけだ。呼び声に答える事だけを考えるのだ」
まるで自分に言い聞かせるように、王が言う。書斎から、恐怖の叫び声が上がった。突然現れた血の海のような惨状に、アルマレーク人達が書斎から駈け出して来る。
館全体に広がる惨劇の跡に、吐き気を催しながら、テオフィルスは懸命に冷静になろうと努力した。「怖い所」の意味が、嫌という程理解出来る。
王は怒りの目を彼等に向け、腰に下がる長い剣を鞘から抜いた。
(オリアンナ……)
内なる呼び声に意識を集中させ、僕は光る剣に近付く。横たわり絶命した五歳の僕の、背の血だまりに、光り輝く剣が浮かび上がる。剣に手を伸ばそうとした時、反対側から異様な人型の手が伸びてくる。手だけで他が見えないそれは、光り輝く剣を取ろうとしていた。
王は長剣をかざし、切っ先で魔物の手を突く!
叫び声が木霊した。
「早く、手に取るのだ。魔王が来る!」
王の切羽詰まった声に即されて、血の中から輝く剣を拾い上げた。
突然、眩しい光が館全体を覆い、惨劇の跡を清める。
《ソムレキアの宝剣》から歓喜の意識が流れ込み、幼い時に味わった僕の心の痛みが、消えていくのを感じた。僕は今の意識で、王に告げた。
「ああ、待っていたんだ……、僕を! 陛下、《ソムレキアの宝剣》を見つけました!」
僕の目から涙が溢れ、宝剣を抱きしめる。親友に巡り合えたように、喜びが心を満たす。
視界から惨劇の記憶が消え、館は埃を被りながらただ存在していた。セルジン王に《ソムレキアの宝剣》を見せようと、振り返って驚愕する。輝く宝剣の光の前で、王は消えそうになっていた。
「陛下?」
「構うな、私は影だ。輝く光の前では、影は保てぬ。姿が見えなくなるだけで、ここにいる、心配は無用だ。それより、その光を決して消してはならぬ!」
「え?」
「魔王がいる。待っていたのだ、宝剣が現れる時を……」
恐怖に顔を引き攣らせながら、魔王の姿を捜す。
暗闇の床から蠢く者の姿が見えた。それは先程まで見えなかった者達……、八年前に殺戮をもたらした屍食鬼達だ。人間達を喰いつくし、物足りない者達はお互いを喰い合っていた。人型でありながら、飛び出し尖った顎と長い首、伸びた鍵爪と歪んだ黒い翼は、醜く変形していったハラルドを思い起こさせる。
嫌だ、こんなの見たくない!
元は人間だと思うと、恐ろしさが倍増した。身体が震え、宝剣を持っている事を苦痛に感じ始める。宝剣の光が陰り始め、それを同時に屍食鬼の姿がより鮮明に、暗闇の中に現れ始める。
目の前に、ゆらりと一人の男が立っていた。王より少し年上に見えるその男は、残酷なまでに美しい。長い金髪は緩やかに肩にかかり、国王と同じ緑の瞳は残忍で涼やかな侮蔑を交えて僕を見据えている。
魔王アドランが目の前にいたのだ。
セルジン王と同じように、半透明な影の状態ながら邪悪な黒い渦で身を覆っている。
『やはり、そなたが必要なのだな。天界人!』
僕は、ハッとした。魔王が見ているのは僕ではなく、僕の命の光となった王の子オーリン・トゥール・ブライデインそのものだ。
『《ソムレキアの宝剣》ごと、そなたを魔界域に封じ込める!』
まるで黒い渦を操るように、暗闇が宝剣の光を消そうと襲い来る。全身を覆い尽くされそうになった瞬間、風が吹くように押し返された。
『兄上の好きにはさせぬ!』
セルジン王が宝剣の光に消えそうになりながら、目に見える霧状の渦で黒い渦の悪意を追い返す。魔力のぶつかり合いの勢いに、僕の身体が持ち堪えられず弾き出された。
気が付くと屍食鬼に囲まれ、恐怖感から光る宝剣を振り回す。普通の剣より軽く、腕に負担が掛からない。宝剣に触れた屍食鬼は、まるで火傷でもしたように悲鳴を上げて倒れ消失した。
この宝剣、凄い!
ほんの少し触っただけなのに、屍食鬼が消えた!
嬉しくなって振り回すうちに、セルジン王から離れてしまった事に気付いた。背後から屍食鬼が襲い来る。素早く避けて振り返った瞬間、屍食鬼の首が切り飛び、胴が真っ二つになった。緑色の粘液が降りかかるのを、横跳びに飛んで辛うじて避ける。
テオフィルスが剣に付いた粘液を振り落としながら、僕と背を合わせて後ろに立つ。王の結界で入れないはずの彼が、なぜ居るのか顔を引き攣らせながら考えた。
結界が解かれたのか?
「ふん、お前は意外と素早いんだな。それで剣をもっと鍛えれば、俺の従者にしてやってもいい」
「何を言いたいのか解らないな、僕は王太子だぞ! 僕を誘拐した君は、完全に王国の敵だ!」
あくまで別人を装い、光る宝剣の切っ先を彼の顔に向ける。光越しに見る彼は、不敵に笑っている。
先程切られた屍食鬼が首と下半身の無い状態で長い爪で攻撃してくる。テオフィルスは容赦なく腕を切り落とす。炎で燃やさない限り、屍食鬼は死なない。
「竜の炎で焼けばいい。屍食鬼の弱点ぐらい知っているだろう?」
「お前の王に聞け! ここで竜の魔法は使えない!」
「え?」
竜の魔法が使えないという事は、王の結界が解かれていない。アルマレーク人は王によって、結界内に入れられたという事になる。宝剣を再び屍食鬼に向けながら、アルマレーク人が王に捕らえられた事実に驚愕する。
「ここは人の住める場所じゃない。お前の王は、なぜ嘘を吐く? なぜ隠す?」
[若君、危ない!]
マシーナの警告で、彼はセルジン王の剣を辛うじて受け止め突き返す。王は容赦なく剣を繰り出し、素早い攻撃にテオフィルスはじわじわと追い詰められる。いつの間にか僕から引き離され、剣も遠くへ弾き飛ばされた。屍食鬼のいる中で、この状況は死を意味する。
「竜の魔力を使ったらどうだ、貴殿は魔法使いだろう?」
王は皮肉に笑って、僕の元へ戻ってくる。止めを刺さなくても屍食鬼に食べさせれば、アルマレーク共和国に対し事故で片付けられると考えているのだ。
残酷だ。
僕の心の片隅が呟く。
テオフィルスは拳と蹴りで自分に群がる屍食鬼達をなぎ倒すが、屍食鬼の長い爪に傷付き身体のあちこちから血を流していた。