第十六話 もう一人のオーリン
《これは避ける事が出来ない、お前は俺の花嫁になるんだ》
誰があんな傲慢男の花嫁になるだってぇ?
冗談じゃない!
テオフィルスの言葉を思い出し、僕は憤りのあまり、今すぐ〈抑制の腕輪〉をはめそうになった。セルジン王が僕の手を掴んで止める。
「待て! 死にかけたのだぞ、傷痕が完全に消えて、体力が戻ってからだ。今は休んだ方がいい」
王はそう言って、僕から腕輪を取り上げ、薬師マールに渡した。唯一の盾を取り上げられたような不安に、僕は抗議する。
「でも、彼が来るかも……」
「私のいる隣室で、好き勝手はさせぬ。だから、今は眠れ」
「…………はい」
王には逆らえない。僕は項垂れ、ぼんやりとハラルドから受けた傷を見つめた。長い爪で切り裂かれた皮膚が、赤みを帯びてひきつれている。顔の傷は見れないけど、似たようなものだろう。泉の精の魔力で、しばらくすればその痕も消える。
でも、その少し下にある魔王から受けた古傷は、泉の精の魔力でも消える様子がない。毛布を引き上げて、醜い傷痕を隠した。
「僕はなぜ、生きているの? こんな傷じゃ、普通は死んでいるよ……」
俯き落ち込む僕を慰めるように、王は頭を撫でて横たえる。
「……そなたが死にかける度に、私の影は揺らぎ始める。水晶玉の魔力に負けそうになって、人の形を保てなくなる」
「陛下?」
王の姿は、今にも消えそうに見える。彼は悲しく笑った。
「そなたを失えば、私も魔王になるだろう。だが、そうなる前にいつも、助け手が現れる」
「助け手?」
王の手が僕の額に触れた瞬間、意識に何かが流れ込む。僕は怯みながら、彼を見つめた。
「恐れるな、これは私の記憶だ」
――――どこかへ落ちている。抱き抱えている何かが、抗えない力で引っ張られ、共に急激に落ちて行く。
『オリアンナ、死んではならぬ!』
セルジン王の切迫した声が聞こえた。腕に抱き抱えてているのは、幼い僕。剣で貫かれた胸からは、大量の血が流れ、完全に死んでいるように見える。その僕が異常な重さで、地の底と思える場所を落ちて行く。必死に抱き抱えなければ、王は振り放されてしまうだろう。彼の焦りが伝わってくる。
『オリアンナを、魔界域へ連れ去られて良いのか! 《ソムレキアの宝剣》の主だぞ!』
誰かに向かって、彼が叫ぶ。こんな慌てている王は、見たことがない。これは僕が魔王に殺された直後の、王の記憶だ。僕達は魔界域の入り口に吸い寄せられている。魔王に殺された者は魔界の深淵に堕ち、救いの無い苦しみの沼から出る事が出来ないと聞く。僕は、王の恐怖心を感じた。
『見捨てるのなら、私も魔界域へ堕ちるぞ! 天の神ラーディスよ!』
王が天空神の名を口にし、僕は驚愕した。王都で育つ事が出来なかった僕は、レント領にいる家庭教師に学んだ。今は天の神を崇める者は少なく、地に降りた神々の方が身近だと聞いて育った。だから、王が口にする神の名が天空神である事に、強烈な違和感を覚えたのだ。《王族》が古い存在とは知っていたが、その知識を僕は学び損ねている。
突然、目の前に小さな光が現れた。
暗闇に浮かぶその光は、不思議なほど鮮明で、意志を持ち話しかけてくる。
『お助けします、父上』
『…………』
父上?
陛下の子供?
ほんの小さな光なのに近付いたそれは、強い力で僕と王の魂を包み込み、急速に魔界域から遠ざかる。
『そなたは……、オーリン?』
オーリン!
……誰?
王の驚きと安堵が伝わる。なぜ僕の通り名と同じ名前なのか、意味が解らず戸惑いと不安が増す。
『僕はオリアンナの生命の光になります。だから僕の意識は、消える……』
『オーリン……』
王が悲しんでいるのが分かる。
突然何かが僕の身体に入り込込み、自然と一体となった。身体から強烈な光が湧き出し、魔王から受けた傷が見る見る塞がってゆく。追い縋る暗い魔手を吹き飛ばし、僕と王は魔界域から逃れた。
僕は、そうして生き返ったのだ。
「オーリンって、誰?」
いつの間に眠ってしまったのか、気が付くと僕は朝の光の中にいた。〈生命の水〉のおかげで、すっかり元気になり飛び起きた。胸の傷も、綺麗に消えている。
「お目覚めになられましたか、殿下」
「おはよう、マールさん。オーリンって、誰?」
再度の質問に、マールが苦笑いをする。
「ご説明する前にお着替えを、それから食事にしましょう」
渡された服を受け取ろうと伸ばした僕の左上腕に、美しい〈抑制の腕輪〉がはまっていた。それは重さを感じさせないほど、腕になじんでいる。
「これ、奥さんの物でしょ? 僕なんかが借りて、嫌がったりしない?」
マールの表情が、一瞬曇った。何か聞いてはいけない事を、聞いてしまったようだ。
「……嫌がりはしないでしょう。昔、妻が私を助けて消えた時に、残していった物ですから」
「……奥さんの形見? 駄目だよ、そんな大事な物を人に渡したら!」
外そうとしたが、つなぎ目がどこにあるのか分からない。マールが優しく微笑む。
「私には宝の持ち腐れです。アルマレーク人から正体を隠すためには、それが必要でしょう?」
「そうだけど……」
「では、遠慮なくお使いください。妻も殿下なら、納得するでしょう。陛下は今、大事な会議中ですから、ご説明は私からいたします」
「うん、ありがとう」
マールの微笑みが、少し悲しそうに見えた。
王太子の服に着替えようと肌着を取った時、はらりと美しい布が足元に落ちた。見慣れない文様に僕は顔を顰める。重なり合う二枚の翼の中に、飛び立つ竜の姿。
テオフィルスのハンカチ?
「怪我の止血に、アルマレーク人が使った物でしょう。廃棄するよう指示が出たはずですが、行き届きませんでしたね」
気付いたマールが取り上げようと手を伸ばしたが、僕はそれを握りしめ脇に置いてある腰鞄に入れた。綺麗に血を洗い落とされたハンカチは、とても高価な物に見える。あんな傲慢男でも命の恩人、お礼と一緒に返したい。
「姫君、捨てた方がよろしいですよ。陛下の傍に居たいのであれば」
「解っているよ、僕が捨てる。着替えるから、ちょっと出てくれない?」
訝しむマールに、僕は微笑んで要求した。
戻ってきたマールと一緒に、食事に取り掛かる。美味しいパンを頬張りながら僕は、少し離れた場所に立つ彼が話すのを待っていた。ある程度の食事が済み人払いがなされ、二人きりになった。僕は少し緊張する。
徐にマールが話始める。
「陛下を助けられるのは、殿下しかいません」
何度も聞いた言葉に、僕は頷く。
「うん、僕が《ソムレキアの宝剣》の主だからでしょ? でも、陛下を消したりなんて、絶対にしないよ」
「そう願います。それとは別に、《王族》同士は惹かれあうのです。殿下が生きている限り、陛下は簡単に死を望まないでしょう」
「…………」
惹かれあうの一言に、僕は真っ赤になった。僕がセルジン王に惹かれているのは確かだけど、婚約破棄した彼はどうだろう。
「陛下は……、僕にはきっと惹かれないよ」
「まだ、幼いままの印象なのでしょう。いつか、気が付かれます」
僕は少し、不貞腐れ気味にボソリと呟いた。
「誰か、好きな女でもいるのかな?」
聞いた直後に、あまりにも素直すぎる質問に恥ずかしくなった。
「陛下は影ですから、それはありませんよ。水晶玉に入る前に、ご寵愛された方はいらしたようですが……」
「え?」
マールが暗い顔で、遠くを見る。
「アミール・エスペンダという寵姫です。陛下との御子が生まれる直前に、《王族狩り》で殺されたとか。それがきっかけで、水晶玉に入られたのです。陛下は人である事を捨てられた」
「…………」
「生まれる御子が男子であればオーリン、女子であればオリアンナ、そう名付けるつもりだったそうです」
悲しい話だ。生まれる事の出来なかった王子オーリンが、僕を蘇らせたのだ。セルジン王はどんな気持ちだっただろう。
「全部、僕が名前を貰っちゃったんだ。陛下は僕をオーリンと思ってるから、婚約破棄を?」
「関係ないと思いますよ。殿下を助けた光は、意識を持たなくなったと聞いています。陛下はただ、人に戻る希望を失っているだけでしょう」
「そうなのかな……」
王の心は読めない。会う時はいつも、悲しみは微塵も見せないから。彼の心の傷は、癒えたのだろうか。
僕は陛下の事を、何も知らないんだ。
「人に戻す方法って、あると思う?」
「思います。殿下なら見付けられます」
「皆そう言うけど、僕は宝剣すら持ってないんだよ、どうしたら……」
マールが僕の肩に手を置く。顔を上げると、彼らしくない怖い表情で見下ろしていた。
「十六年前、メイダールの大学図書館とトレヴダールの侯爵私設図書館に、ブライデインの王立図書館からある物を運び入れました」
「……何?」
「《王族》の関係書物と極秘文書類、それと謎めいた遺物です」
「…………」
マールがなぜそんな事に関わったのか、疑問が湧き起こる。王立図書館は、《王族》の中でも王位継承権六位までの成人と、王の側近と政治を担う一部の高官のみが、入館を許された場所と聞いている。薬師が立ち入れる場所ではない。
「マールさんって、何者?」
僕の聞き方に、彼は苦笑いした。
「昔、カドル公爵ベイデル家で薬師見習いをしていたのですよ。ベイデル家の二男が大変優秀な高官で、当時《王族狩り》のせいで人手が足りず、手伝わされたのです」
「ふーん」
「運び入れた物の中に、《王族》にしか開けない物が入っていました」
驚きに目を見開いて、マールを見た。
《王族》にしか見せられない事柄が、隠されている!
背筋を、何かが這い登った。
「それ、大事な手掛かりかも!」
「私も、そう思います。ずっと姫君に、この事をお伝えしたかった」
「陛下には、伝えてあるの?」
マールは急に黙り込み、しばらくして悲しそうに首を横に振った。
「一度お伝えしましたが、姫君がいるレント領に近い事から却下されました」
「もう一度、話すべきだよ」
「消える気でいるのに? 禁止されませんか?」
「あ……」
確かに、婚約解消をして僕に王配候補を選ばせようとしている王は、禁止するかもしれない。生きる希望を見つけない限り、王は僕を女王に据えたがる。
「レント領を出たら、メイダールに向かうの?」
「その予定です。大学街に着いたら、私達だけで大学図書館を訪ねましょう」
「そうしよう。きっと何かが、隠されているんだ。それで、何時レント領を出発するの?」
「《ソムレキアの宝剣》が、殿下の手元に戻ったら」
「え? でも、いつ現れるか分からないのに?」
マールが頷き、言いたい事を飲み込むように黙り込んだ。僕にはその言いたい事がよく解る。待ってないで、僕自身で見付け出さなきゃいけないって事が。




