1「魚は、陸に上がれば溺れる」
緑色の芋虫を葉っぱから掬い取り、僕は観察する。掌の上でもぞもぞと蠕動する姿態を眺めていると、どこか心の奥がちりちりと擦れる感覚がして、それが心地良いようでむずがゆいような不思議な感情になる。
僕はぎゅっと掌を握った。小さな水風船を破裂させたような感触。掌を開くと、無残な姿の芋虫が見えた。流れ出た黄色の体液が眩しい。目だけではなく、脳にまでその刺激が届いていく。
僕は淡々と手を振り払った。芋虫の残骸だけが地面へと落ちて、茂みを揺らす。
ふと気になって辺りを確認した。滑り台の方で、自分より一回り年下の男の子が遊んでいた。母親が滑り台の下の方で男の子を受け入れる体勢を取っている。
誰にもこの光景は見られていなかった。見られていたとして、別に何か変わるわけでもないが。
虫を潰した。それが私にとってどれほど温かいものか。蠢く小さな生命、その命を僕が自由にできる。それを優越感とでも言うのだろうか、まるで自分がこの世界の覇者にでもなった気がして、心の奥底から温かな何かが溢れるのだ。
潰れた蟹や蛙を見るのも、轢かれた野良猫を見るのも、陸に打ち上げられて溺れた魚を見るのも、蟻に集られる大きな虫を見るのも好きだ。
僕はただとにかく、生命の死に温かさを覚えるのだ。
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数か月前。あれは冬の寒さの特に厳しい日だった。
僕は母と二人で暮らしていた。父は新しい女を作るなりすぐさま離婚して家を出たのだ。
目が覚めた僕は朝食をとりに居間の方へ向かう。中央にある座卓の上に、サランラップのかけられた白ご飯と目玉焼きが置かれていた。書き置きだろう、一枚の紙きれが目玉焼きの乗る皿の下に挟まれている。
『朝ごはん食べてね!』
母は仕事に追われていても、こうやってご飯を作り置きしてくれる。それだけで僕の心は安心感を覚え、満たされた。
結局母が仕事から帰って来たのは、夜中の少し手前の時間だった。
身支度を終えて部屋着姿となった母は、髪をだらりと下げ、何か言いたげに僕の方を見つめていた。酷く落ち着いた目だ。落ち着きのあまり、静かな夜の海を眺めている気がして、食事中ですらないと言うのに僕は魚があぎとうように口をパクパクとさせた。
「どうしたの? 広」
広とは僕の名だ。母の隣で寝転んでいたら、そう尋ねられた。
「魚って陸に上がると息ができないよね。だから、そのことを『溺れる』って表現するのが正しいのかな」
「また変なこと考えてる。ほんと、広はいつもそうなんだから」
母は笑い流して電気を消した。真っ暗な部屋の中、母が隣に寝転ぶ。
「広は私がいないと、寂しい?」
いつも仕事で家にいないからこそ、母は気にしているのだろう。
「大丈夫だよ」
「そう。学校は行きたい?」
「もう行きたくない」
両親が離婚してからというもの、僕は学校に行けなくなった。別にそこが嫌いと言うわけではない。クラスのみんなから嫌われていたり、いじめのようなことをされているわけでもない。
「そっか」
そう言って、部屋は静かになった。
段々と睡魔が迫ってきて、僕の意識はぼんやりと霞んでいく。途中で母が起き上がった衣擦れの音が聞こえたが、僕はすでに半ば睡眠状態に入っていて、特に気にすることもなかった。
「ごめんね」
本当に母がそう言ったのか分からない。耳元で何か囁かれたが、意識の遠い僕には届かなかった。
目が覚めた。僕は体を起こして、隣を見た。母の姿はない。
まだ寝起きの体を無理に動かし、重たい瞼を必死に持ち上げて、彼女の姿を探す。
母は自室にいた。
「お母さん・・・」
僕はそれ以上何も言えなかった。
母は小柄な人だった。
カーテンを吊るすレールの上に縄がぎゅっと結び付けられていて、下の方まで行くと輪っか状になっている。
輪っかは母の顎と首の間に食い込んでいる。
母は宙にだらりと浮かんでいて、その様はまるで、てるてる坊主のようだった。
雨が降ったように、彼女の浮かぶ真下の床に染みができている。
母はてるてる坊主にはなれなかったようだ。
僕は何も言えずだんまりと宙に浮かぶ彼女の姿を眺めていた。
しかし、どこからか僕の心に温かな感情が浮かんできた。僕はゆっくりと母の元へ歩み寄る。
手に触れた。指は完全に硬直していて、動かない。よく見ると手に血のような赤い斑点が浮かんでいる。
どこかツンとしたにおいが、濡れた床の方から漂ってくる。
手は冷たい。だが、僕の心は温かい。
「綺麗だよ、お母さん」
気付けば言葉が漏れていた。
途端に雨音が外から聞こえてきた。部屋の中にまで聞こえてくるほど地上を強く打ち付ける雨。
僕は母の部屋を出て、玄関へ向かった。
扉を開けるとひんやりとした外気が部屋に入ってくる。それと、雨の湿っぽい温度感もまた入ってくる。
僕はうっとりとしていた。
雨の音がこんなに心地良く感じたのは、本当に初めてだった。
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母の亡き後、僕は叔父の家に引き取られた。叔父とその妻はとても優しく僕を受け入れてくれ、学費までも支払ってくれた。
僕は小学校に通っているのだが、家が変わったので別の学校へ転校することになった。
転校したばかりの頃だけ通って段々と登校日数を減らしていき、終いには不登校となる。それが今の僕の目標だった。
学費を支払ってくれる叔父夫婦には申し訳ないが。
学期の終わりに転校してきた僕を、クラスの者たちは皆奇妙なものでも見るような目でじっくりと観察した。それもそのはず。今のこの時期に転校してきたとて、すぐ次の学年に上がってしまうと言うのに。
僕は自己紹介も特にこだわることなく淡々と済ませ、担任に指示された席へ座る。教室の中、中央の列の一番後ろの席だった。隣には小柄な少女が座っていた。彼女と目が合う。
その途端、僕の心は鋭く引っ掻かれた。
小花に寄り添う紋白蝶のようだ。
僕はそう思いながら、じっと彼女の表情を窺う。
「よろしくね」
僕は少女へ挨拶をする。しかし、少女は小さく会釈しただけだった。彼女が前を向いたので、僕も前を向く。
担任が何か話をしているが、そんな退屈なもの、僕の耳には届かなかった。
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皆、体育の授業の時は体操服に着替えるのだが、体操服は半袖半ズボンだ。冬だと言うのに、そんな恰好にならなければならないというのは最悪だ。
僕は体操服に着替える。着替え終わって運動場の前に集合した時、ふと、あの少女が私服のまま担任の側に立っていることに気付いた。
要するに体操服を忘れたのだろう。相変わらずの分厚いボタン式の白いジャケットを着ていた。もちろんボタンは全て留めている。
紋白蝶のように小さいながらも美しい。少女のその短い黒の髪、くりくりとした丸い目、小さいながらも筋の通る鼻、薄ピンクの柔らかそうな唇。
赤いチェック模様の長いスカートの先から、白いハイソックスが見え、そこからブラウンのキッズスニーカーへ。
少女は同じクラスの者たちに比べて、どこか大人びていた。
僕は彼女を見つめる。するとまた、彼女と目が合った。
目線はすぐに外れたが、それでも僕の胸は高鳴っていた。




