逃げの一手
学園の正門が、やけに遠く感じた。
一歩、また一歩。
カレンは、ベルンハルトの隣を歩きながら、胸の奥がざわつくのを必死に押さえていた。
――見られている気がする。
――呼ばれる気がする。
その予感は、外れなかった。
「カレン!」
高い位置から、はっきりとした声。
二階の窓だ。
「どこへ行くんだ? 待てよ!」
レオンの声だった。
びくり、と肩が跳ねる。
反射的に足が止まりそうになる。
その瞬間、
ベルンハルトの手が、ほんの少しだけ強くなった。
「……行くぞ」
低く、迷いのない声。
カレンは唇を噛みしめた。
(振り返ったら、終わりだ)
そう直感した。
カレンは、ベルンハルトの手を引いた。
「走って……!」
二人は駆け出す。
石畳を蹴る音。
息が乱れる。
視界の端で、誰かがこちらを見ているのがわかる。
馬車乗り場が見えるのに、
そこまでが、ひどく長い。
(もし、追いつかれたら……)
足が震えそうになる。
「カレン」
ベルンハルトが呼ぶ。
「……カレン。大丈夫だ」
その声は、落ち着いていて、確かだった。
「はやく……はやく……」
カレンは息を切らしながら、必死に言葉を絞り出す。
「ベルン……手を、離さないで……」
「ああ」
短い返事。
それだけで、少しだけ息ができた。
馬車が、来た。
御者が状況を察したように、手綱を引く。
「乗れ!」
ベルンハルトに促され、二人は飛び込むように中へ入る。
背後で、声が聞こえた。
「カレン――!」
ベルンハルトは迷わなかった。
「出せ!」
馬車が大きく揺れ、走り出す。
窓の外が流れ始めた瞬間、
カレンはようやく、肩の力が抜けた。
「……はぁ……はぁ……」
呼吸が、追いつかない。
涙が、ぽろりと落ちる。
(……こわかった)
胸の奥で、アイナの言葉がよぎる。
――NTR。
その単語が、警鐘のように鳴った。
カレンは、はっとしてベルンハルトを見る。
そして、咄嗟に彼の腕を掴んだ。
「……私の家じゃなくて」
ぎゅっと、力を込める。
「ベルンの家に、連れて行って」
必死だった。
ベルンハルトは、カレンを見下ろし、ほんの一瞬だけ目を伏せたあと、御者に告げた。
「行き先を、アイゼン家へ」
「承知しました」
馬車の進路が、変わる。
その感覚に、カレンは大きく息を吐いた。
「……よかった……」
身体から、力が抜ける。
ベルンハルトの腕に、自然と身を預けていた。
彼は、何も言わず、ただその体重を受け止める。
馬車は、規則正しい音を立てながら、アイゼン家へ向かって走り続けた。
――この選択が、何を変えるのか。
まだ、誰にもわからないまま。




