85話
「どう?少しは落ち着いた?」
「ああ。君や屋敷の者たちの前で、あんなに取り乱してしまって恥ずかしいよ‥‥‥」
くすくすと笑うマリーナを前に、自室のソファに体をあずけたオルトランが、きまり悪げに頭をかく。今は旅装を解いて入浴も済ませており、身綺麗な恰好で寛いでいる。
「そうですよ、旦那様。あの時は、私もお仕事のお手伝いでそばに控えていたのに全然気づいていらっしゃらないから、目のやり場に困って大変だったんですからね!」
お茶を入れていたメイドのシェリーが、二人が抱擁している場面を思い出したのか、真っ赤になって抗議する。
「本当に面目ない‥‥‥。あの時は、愛しいマリーナの姿しか見えていなかったからつい――」
「まあ、あなたったら‥‥‥」
甘やかな夫妻のやりとりを見て、シェリーと執事のクラウスが顔を見合わせて苦笑する。
「君が毒殺されそうになった、と伝令鳥で知らされた時は、本当に慌てたよ。あの時僕がいたのは中央大陸だったから、戻るのに時間がかかってしまった」
「まあ、そんなところにまで足をのばしていたの?」
「ああ。僕は約二年かけて東西南北の大陸を巡って君の病の治療法を探したけれど、一向に成果が得られなくてね。それで最後に中央大陸に渡って、精霊教の総本山があるハプタレント聖教国や、医療大国であるハーヴェン王国を訪ねたんだ。だが、やはりそこでも薬や治療法は見つからなかった‥‥‥。だから、ほんの僅かな希望ではあったけれど、この国では伝説だと言われている翠明皇国を探しに行くことにしたんだ」
「まあ!子供の頃に読むおとぎ話に出て来る国ね。でも現実には存在しない国なのではなくて?」
翠明皇国とは、このエーベル王国がある西大陸の東に広がる海を渡った先、中央大陸にある広大な湖――翠明湖に浮かんでいるとされる幻の島国である。
伝説によれば、精霊を生み出す精霊樹を中心にして都が作られており、数多くの精霊たちと、現地人である翠明人とが仲睦まじく平和に暮らしているらしい。
藍色がかったつややかな黒髪と、光がちりばめられた宝石のように美しい翠色の瞳を持つ翠明人は、生まれつき豊富な魔力と精霊眼を持ち、流暢な精霊言語で精霊たちと会話する事が可能なのだという。
「実はハーヴェン王国やハプタレント聖教国を訪れた際、僕の話を聞いて気の毒に思った精霊教会の関係者から、翠明皇国は本当に存在していて医薬の知識に長けた薬師や高位精霊がいる、という話を耳にしたんだ。だから、もし皇国に辿り着く事ができれば、君の病の治療法がわかるかもしれないと思ってね」
ところが、翠明皇国の隣に位置するハーヴェン王国経由で砂漠地帯を越えて翠明湖を目指そうとしたオルトランは、酷い砂嵐に阻まれて砂漠に足を踏み入れる事さえできなかった。
「国境の町の人たちはみな、翠明湖に至ると言われている砂漠地帯は常に砂嵐が吹き荒れていて、精霊たちの許しを得た者しか越える事が出来ない、と言っていた。しかもここ最近は、何故か砂嵐の勢いが特に酷いらしくて、彼らは精霊たちに何かあったのではないか、としきりに心配していたよ。──まあ、そういう訳で、僕は皇国に一歩も近づく事ができずに、がっかりしてハーヴェン王国の宿に戻ったのだけれど、旅装を解いていたら突然目の前にゲルガが現れて、しきりにエーベルに戻れと僕を急かし始めてね」
ゲルガとは、オルトランが契約している、大鷹の姿をした風雷を司る上位精霊である。寡黙な彼が、契約者であるオルトランに対してそんな事をするのは、極めて珍しい事だった。
「どういう事なのか理由を尋ねていた時、ちょうどクラウスからの伝令鳥が舞い込んできたものだから、本当に驚いたよ。まさかゲルガは事件を察知していたのかな?」
「まあ。そんな事が‥‥‥。では今はもう、ゲルガは落ち着いているの?」
オルトランは紅茶を一口飲んでカップを置くと、少し困った顔をした。
「いや、それがまだ様子が変なんだ。ここに戻ってきてから、ずっとソワソワしているよ」
「まさか、またマリーナ様の身に何か危険が迫っているのでしょうか?」
クラウスがさっと顔色を変える。だが、当のマリーナはそんな彼を見ておかしそうに笑っている。
「落ち着いてクラウス。忘れたの?今この屋敷には、とても頼もしくて可愛い子猫や精霊たちがいるじゃないの。もし危険が迫っているのなら、彼らがすぐに知らせてくれるわ」
「ああ、左様でした!」
マリーナに指摘されたクラウスが破顔した。
そんな二人の会話を聞いたオルトランがうずうずしながら問いかける。
「──その、君が言っている、可愛い子猫というのは、さっき君が話していた、病を治してくれた子猫の事なのかい?」
「ええ。そうよ。私がこうして生きてあなたと再会できたのは、あの子のおかげなの」
「一体何があったのか、僕にも聞かせてもらえるかい?」
「ええ。構わないわ。でもその前に、あの子の秘密を守るために、あなたに契約魔法をかけても構わないかしら?」
「もちろんいいとも!」
前のめりで即答した夫に、苦笑しながら契約魔法を施したマリーナは、紅茶で喉を十分に潤すと、彼女が病から回復するまでに何があったのかを詳しく語り始めた。
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