76話
(なんだかまぶしいわ‥‥‥)
アイカが目覚めた時、夜はとっくに明けており、辺りはすっかり明るくなっていた。寝過ごした事に気づいた彼女は、慌てて部屋を出ようと立ち上がりかけて、驚きのあまり固まった。
「おはよう。子猫の精霊さん」
彼女を見下ろしていたのは、柔らかな微笑みを浮かべたマリーナだった。潤んだ空色の瞳が、宝石のように美しく輝いている。
(目が少し赤いわ‥‥‥。泣いていたのかしら)
見た限りでは元気そうだが、どこか痛むところでもあるのだろうかと、心配しかけたアイカは、次の瞬間、自分がベッドに腰掛けているマリーナの膝の上にいて、視線を合わせている事に気づくと激しく動揺した。
(どうしよう、マリーナさんが目覚める前に、ここから去るつもりでいたのに──)
『待って、子猫の精霊さん!お願いだから、行かないで!』
慌ててマリーナの膝からベッドに飛び降りた彼女は、再び驚いて動きを止めた。
(今のは──精霊言語?)
『私が言っている事は、通じているかしら?』
やはり聞き間違いではなかったようだ。目を丸くしたままマリーナを見つめ返していると、ほっとした顔で彼女が話しかけてきた。
『あなたに、ずっとお礼が言いたかったの。見ず知らずの私を、ドロレスから守ってくれただけでなく、病まで治してくれて、本当にありがとう』
彼女はベッドに腰掛けたままで顔をアイカに向けると、心からの感謝を告げた。
『私はね、この病にかかってからずっと、家族や屋敷のみんなに迷惑をかけてしまっていたの。いつもその事が心苦しくて、いっそのこと今すぐ儚くなってしまえればいいのにって、強く願っていたわ』
(そんな‥‥‥)
思わずアイカは顔を曇らせた。
『病気が進行して視力や言葉を失うと、それまでのように精霊たちと語らう事すらできなくなって、更にその思いは強くなったわ。誰にも気が付いてもらえないまま、ドロレスに虐げられるようになってからは、なおさらにね。‥‥‥けれど、水とスープだけの食事になってから急激に体調が悪化して――このまま病で苦しみながら、たった一人で逝くのかと思うようになったら、はじめて死ぬ事が恐ろしくなったの』
思わず息を吞んだアイカに、彼女は恥じるような表情を浮かべた。
『その時になってようやく、私はまだ生きていたいのだと自覚したの。だけど、気づくのがあまりにも遅すぎて――既に視力も声も失っていた私には、その気持ちを誰かに伝えて助けてもらう術が無かった。だから、毎日泣きながら絶望する事しかできなかった‥‥‥』
その時の自分を思い出したのか、マリーナは苦痛に耐えるような顔をした。
『でも、そんな時──あなたが助けにきてくれたの』
ほっそりとした指先で、目尻に溜まった涙をはらうと、彼女はアイカに微笑みかけた。
『薬を飲んでも、気休め程度に痛みを和らげる事しかできなかったのに、突然体の痛みだけでなく、だるさや息苦しさが消えてしまった時は、とうとう自分が死んでしまったのかと思ったわ。でも、そうじゃなかった。この部屋にドロレスが入れなくなったのも、嘘みたいに体の調子が良くなっているのも、こっそり誰かが私を助けようとしてくれているおかげだと気がついたの』
そう言って、マリーナはアイカの目をまっすぐに見つめた。
『目が見えない分、私はとても気配に敏感になっていたから、眠っているとそっと誰かがやってきて私に魔法をかけているのだとすぐに気づいたわ。だけど、まさかその正体がこんなに可愛らしい子猫の精霊だとは思ってもみなかった‥‥‥』
自分の存在がとっくに気づかれていたと知ったアイカは、恥ずかしさのあまり無意識に前足で顔を覆った。その可愛らしい様子を見て、マリーナは愛おしそうに微笑んだ。
『姿は見えなくても、すぐそばに自分を気にかけてくれる存在がいるのだと知って、それだけで私の心は救われたわ。もしこのまま助からなくても、誰かが私を見ていてくれる、私は独りぼっちで逝くのではない――そう思ったら、死ぬことが怖くなくなったの』
静かに微笑むマリーナの瞳には、彼女を見つめ返す小さな子猫の姿が映っている。
『けれどあなたは、疲れきって倒れてしまうほど限界まで力を使って、私の心だけでなく、私の病まで治してくれた‥‥‥』
晴れ渡った空の色をした瞳から、再び涙が溢れ出る。
『本当にありがとう。小さなあなたの、こんなにも大きな献身に、私はどうすれば報いることができるのかしら‥‥‥!』
『マリーナさん‥‥‥』
喜びと感謝で涙を止めどなく流すマリーナを見たアイカは、この人を助けられて良かったと思う一方で、その心の片隅には、なおも昏い不安を巣食わせていた。
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